新芽 取亜 ―symmetria―

アメブロにて主にクラシック音楽CDなどのレビューを綴っています。このnoteにも (コ…

新芽 取亜 ―symmetria―

アメブロにて主にクラシック音楽CDなどのレビューを綴っています。このnoteにも (コピペですが) エッセイを中心に少しずつ投稿できたら、と画策中…。 「唯我独尊的クラシックCD聴聞記(仮)」➡️https://ameblo.jp/symmetria59-95

最近の記事

不機嫌な姫とブルックナー団/高原英理

「ブルックナー生誕200年」を意識して読んだ1冊。 以前から綺麗な表紙と面白いタイトルが気にはなっていた。ページ最後に載せられているブルックナーに関する大量の資料が劇中劇のような小説パートで存分に生かされていて、中には初めて知るエピソードもあり(フィクションの可能性ありだが)とても興味深く読み終えることができた―。 著者の高原英理氏は初めて知った作家で、作品を読むのも初めてである。主に評論を中心に執筆活動を開始、作家デビューを果たしたのは2001年だそうだ。 本書は2016

    • 評論について僕が語ること

      ✳️本記事は2021年11月に投稿したアメブロを大幅に改訂したものとなります 僕自身は評論家でないばかりではなく、目指してさえいないのだが、執筆中に頭の片隅で常に思考し続けているのは「評論」そのものの必要性である。 ブログでもツイッターでも「評論」までいかないが、感想や意見が(時に忌憚なく)語られることがある。人は表現する生き物だから、音楽を聞いて湧き上がってきた感情や感想を自分の中にそのまま落とし込んでおくことは基本的にできないであろうと思う。これだけ簡単に個人が発信で

      • 「音楽と構造」

        ✳️本記事は2021年9月のアメブロ記事の再投稿版です 音楽を初めて聞いた時のことを思い出していただきたい―。どんな反応をしただろうか。どんな感情や思いに捕らわれただろうか。おそらく、美しいメロディに、演奏する様子にうっとりしたり、テクニックに驚愕したりしたのではないだろうか。最初から音楽の「構造」に注目した聞き方をした方は、多分ほとんどいらっしゃらないと思う(皆無だとは思わないが) こう考えると、「構造」を聞き取るということが普通は自然にできることではないことがわかる。

        • 「音楽と生命」 坂本龍一×福岡伸一

          音楽家/坂本龍一と、教授が20年来親交のある生物学者/福岡伸一との対談集。「世界のひずみに目を向け、新たな思想を求めて行った対話の記録」「あと戻りできない時間、私たちの生を輝かせるには―」帯に刻まれたこれらの言葉が、この貴重な対談のベクトルを示しているといえよう。 本書は2023年3月、坂本龍一氏が亡くなった翌日に第1刷が発行され、約1ヵ月後に第2刷が追悼の意を込めて再販された―そして先日3月28日は、教授の命日であり一周忌であった―。内容は複数のソースから構成され、主にN

        不機嫌な姫とブルックナー団/高原英理

          日曜劇場「さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」最終楽章を終えて

          2024年1月14日からTBSで放送された日曜劇場「さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」が全10楽章を終え、幕を閉じた。僕はリアタイではなく、TVerで全楽章を観ることができた。 当初は某ドラマの二番煎じだとか、アンチな意見が目立っていたが、楽章が進むにつれ、感銘度が上回った印象。 所々涙を誘う場面もあり、ユーモアで笑わせてくれるところもあり (この要素が一番多かったかな) 、とても楽しめたドラマだった。音楽を志していたり、アマチュアやプロで活躍中の演奏家たちに

          日曜劇場「さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」最終楽章を終えて

          編曲の楽しみ

          ✳️この記事は2020年12月に投稿した内容に基づいています この度は「編曲モノ」について、その奥深さにできる範囲で多角的に迫ってゆきたいと思います。 暫しのひととき、どうぞお付き合いください―。 少なからず「原典主義」の影響が避けられないクラシック音楽 僕もかつては「原曲が一番」みたいな考え方をしていた。ただ以前より心が広くなったのか、拘りが減ったのか、どうでもよくなったのか、ハンドルには遊びがあることを思い出したからか、僕自身が変容を迎えたからか、は解らないが、よう

          モダンかピリオドか―演奏の多様性についての考察

          ✳️この記事は2021年5月にアメブロにて投稿した記事の再編集版です 実は、このテーマは既に古いものになっている―過去数十年にわたり、音楽家たちが取り組んできたことだからだ。そして今はもはや「二元論」ですらなくなってきていて、「融合」が随分なされてきた。もう少しすれば、問題ですらなくなることだろう。僕には喜ばしいことに思える。 「モダン楽器」による演奏は「普通」のことだった。高性能で耐久性があり、グランドホールでも困らないほどの音量も獲得した。僕たちは一時期までこれらの演

          モダンかピリオドか―演奏の多様性についての考察

          今日、3月5日はニコラウス・アーノンクール (1926-2016) の命日―。 彼の最後の録音となった「ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス」のアルバムを取り上げたブログ記事で偲びたいと思います―。 https://ameblo.jp/symmetria59-95/entry-12809113922.html

          今日、3月5日はニコラウス・アーノンクール (1926-2016) の命日―。 彼の最後の録音となった「ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス」のアルバムを取り上げたブログ記事で偲びたいと思います―。 https://ameblo.jp/symmetria59-95/entry-12809113922.html

          東北農民管弦楽団 第8回定期演奏会 浪岡公演 (2024/02/25)

          2013年に設立、冬の農閑期に東北を中心に活動する『東北農民管弦楽団』の第8回定期演奏会―。 『おれたちはみな農民である/ずゐぶん忙しく仕事もつらい/芸術をもてあの灰色の労働を燃せ』という宮沢賢治/「農民芸術概論」に共感した農家関連の方々で結成されたオーケストラ。その存在だけでもユニークだが、曲目も舞踏を伴う「シャコンヌ」や委嘱作品の初演、そしてドヴォルザークの8番と田舎臭さを隠さない (隠す必要もない) 、そして意欲的なプログラムに興味を惹かれた。 実に予想を超える入場者

          東北農民管弦楽団 第8回定期演奏会 浪岡公演 (2024/02/25)

          For the Love of BRAHMS

          今日2月20日は武満徹 (1930-96) の命日 以前アメブロに投稿した追悼盤の記事で偲ぶ―。指揮は盟友の小澤征爾。今頃、2人で語り合っていることだろう。 https://ameblo.jp/symmetria59-95/entry-12776911036.html

          今日2月20日は武満徹 (1930-96) の命日 以前アメブロに投稿した追悼盤の記事で偲ぶ―。指揮は盟友の小澤征爾。今頃、2人で語り合っていることだろう。 https://ameblo.jp/symmetria59-95/entry-12776911036.html

          アメブロ投稿しました よろしければご覧ください―。 「ピーター・ゼルキン&小澤征爾によるベートーヴェン&シェーンベルク/ピアノ協奏曲」 https://ameblo.jp/symmetria59-95/entry-12840458760.html

          アメブロ投稿しました よろしければご覧ください―。 「ピーター・ゼルキン&小澤征爾によるベートーヴェン&シェーンベルク/ピアノ協奏曲」 https://ameblo.jp/symmetria59-95/entry-12840458760.html

          「音楽と人格」

          ✳️この記事は2021年7月にアメブロに投稿した記事の再編集ヴァージョンです 僕がこのテーマを思い浮かんだのには、もちろん理由がある―。 以前読んだ浦久俊彦著「138億年の音楽史」の中で、ナチス・ドイツにおける音楽の「誤用」について扱われていたのだが、この箇所を読みながら同時に僕は以前何かで見聞きした状況を思い出していた―。 それは、ユダヤ人の虐殺を「仕事」のようにこなしている兵士たちが休憩中、ヴァイオリン片手にモーツァルトを弾いて楽しんでいた―という状況である。 僕

          「さよならマエストロ」の第4話、思いのたけを吐露する志帆の姿を観て、21世紀にクララ・シューマンが生きていたら…と想像してしまったのは僕だけだろうか―。

          「さよならマエストロ」の第4話、思いのたけを吐露する志帆の姿を観て、21世紀にクララ・シューマンが生きていたら…と想像してしまったのは僕だけだろうか―。

          Last recording―最期の録音についての考察

          ✳️当記事は2021年8月にアメブロに投稿した内容です 「何事にも定まった時期があり、(…) 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」 この旧約聖書(「伝道者の書」第3章)の引用のように、僕たちが普段「意識下」に置き去りにしている「真実」―望むとも望まざるとも、やがてすべての人に100%訪れる「現実」―を、この賢者の言葉はあからさまに示している。 どうやら、この件に関しては「居留守」を装うことも「未読(既読)スルー」もできないらしい。だからこそ、というべきか、「最後の

          Last recording―最期の録音についての考察

          演奏芸術と再生芸術について語る

          ✳️この記事は2021年4月に書いたアメブロ記事を編集したものです トーマス・エジソンによって世界初の蓄音機が発明されるまで「再生芸術」は存在していなかったと思う。1889年、エジソンの代理人がブラームスを訪ね、録音が実現する。そこでは彼らの肉声とハンガリー舞曲第1番の自作自演が途中まで収録された。演奏は中断されているように聞こえる―この後ブラームスは公の活動から離れ、隠居生活を始めようとする。まるで自らの行為を恥じたかのように。 対して「演奏芸術」は一過性のものであり、

          演奏芸術と再生芸術について語る