「青い海と森の音楽祭」プレイベント室内楽コンサート(2024/06/08)
来年2025年夏から青森で開かれる「青い海と森の音楽祭」のプレイベントとして行われたコンサート。「名曲の花束」に相応しい音楽が用意されたが、特にシューマンの歌曲と室内楽を中心としたプログラムに魅せられた。しかもシューマンの誕生日の6月8日に行われるとは「天啓」というほかなく、錚々たるメンバーによる名演奏を楽しむことができた。
青森県五所川原市出身のソプラノ歌手、隠岐彩夏が音頭をとった形で実現した当コンサート。ピアノに横山幸雄、ヴァイオリンに矢部達哉 (2人は音楽祭の特別顧問を担当) 、ヴィオラの店村眞積、チェロの毛利伯郎を迎えての演奏で、まさか青森でこんな素晴らしい室内楽コンサートが体験できるとは思わなかった。数日たった今でも感慨深い思いを抱いている。
青森市出身で今や世界的に知られている指揮者沖澤のどかと隠岐彩夏の2人が企画したという「青い海と森の音楽祭」。ネーミングのセンスも光る。沖澤氏が芸術総監督を、隠岐氏が音楽主幹を務める。ようやくこの青森の地でもクラシックの音楽祭が開催されるということで、期待が膨らむばかりだ。来年2025年第1回目の音楽祭では沖澤氏指揮のもと、音楽祭オーケストラ(アオモリ・フェスティバル・オーケストラ/AFO。コンサートマスターは矢部氏)がモーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」などを演奏する。室内楽コンサートでは「オール・ドビュッシー・プログラム」が企画され、ハーピストの吉野直子も出演予定だとか。精鋭たちが集まる音楽祭が実に待ち遠しい。
モーツァルト/交響曲第36番「リンツ」より。来年の「ジュピター」が楽しみ。
青森市出身のヴァイオリニスト、水野琴音もオーケストラに参加する。
室内楽コンサートでは今が旬の「葵トリオ」も出演予定だ―。
この度のプレイベント室内楽コンサート、ピアニストの横山氏が屋台骨として全体を支えている印象。彼の安定感あるピアノのもと、出演者がそれぞれソロを披露するという構図だ。僕にとって有難かったのは、この種の(地方)コンサートにありがちな「司会者トーク」がなかったこと。照明が落とされたのち、直ちに音楽に集中できて嬉しかった。
最初はヴァイオリニスト矢部氏が「マスネ/タイスの瞑想曲」を演奏した。オペラの間奏曲だったのがヒットし、独立したショーピースとなった名曲。矢部氏は再現部でより表情豊かにヴァイオリンを奏でていた。
おそらく日本初録音(1935年)となった諏訪根自子の演奏より。SP録音とはいえ、何と味わい深いことか。
オーケストラと合唱を伴うオリジナル・ヴァージョンの「瞑想曲」を。「Andante religioso」(宗教的なアンダンテ)で奏される。
続いてヴィオラの店村氏が登場、「シューマン/おとぎの絵本Op.113~第4曲」が演奏された。シューマンの室内楽の中ではあまり知られていない作品かもしれないが、ヴィオラの貴重なレパートリーであり、シューマンの音楽に時折聞かれるメルヒェンティックな雰囲気を宿す。全4曲ある中で、演奏されたのは終曲。「Langsam, mit melancholischem Ausdruck」という、とてもシューマネスクな指示が与えられている音楽で、子守歌のような穏やかさを感じる。興味深いのは「メランコリック」といわれながら、長調で書かれていること。あくまでも内面的な哀愁であり、深い感情を湛えた奏楽が求められていると思われる。表情は暗くはなく穏やかだが、心に諦念を抱いているかのようで、とても好きな作品である―このヴィオラのための作品が何故ヴァイオリニストのヴァシレフスキに献呈されたのかはわからない。
演奏が始まって驚いたのは、朗々と響くヴィオラの音。まるで大河のイメージである。とりわけハイトーンの響きは艶やかで聴き入ってしまった。
Op.113-4 「ゆるやかに、哀愁を帯びた表情で」―。
ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ第3番Op.108~第2楽章「Adagio」。Op.113-4と同じニ長調で共通の雰囲気を感じる。
3番目に登場したのはチェロの毛利氏で、名曲の「サン=サーンス/白鳥」を演奏した。組曲「動物の謝肉祭」からの1曲で、タイスの瞑想曲と同様、コンサート・ピースとして独立して演奏されることが多い―作曲者が生前の公開演奏と楽譜出版を許した唯一の曲らしい。演奏が始まってこれまた驚いたのがチェロのライトな音色。全く力みのないスゥーと流れる歌い過ぎない演奏で、先ほどのヴィオラの方が一般的なチェロの響きに近いのでは、と思うほどだった(ホールの音響特性も関係しているのかもしれない)。中華料理店のチャーハンではないが、こういうシンプルな曲にこそ、奏者の持ち味や実力が示されるのかもしれない。
チェロ&2台ピアノによるオリジナル・ヴァージョンより―。
バレエ「瀕死の白鳥」。本当に白鳥のようだ。見事というほかない。
前半プログラム最後は当コンサートの発起人、ソプラノの隠岐氏によるシューマン/歌曲集「女の愛と生涯」Op.42で、僕の目当ての1つだった。実はあまり親しんでこなかった作品で(シャミッソー詩のせいかどうかはわからないが)、「リーダークライス」Op.39や「詩人の恋」Op.48よりインパクトに欠ける印象を抱いていた。でも最近ECMレーベルにて、アリベルト・ライマン編曲の弦楽四重奏伴奏版のアルバムがリリースされることになり、気になり始めていたので、ちょうどタイミングが良いコンサートとなった。
プログラムのパンフレットには日本語による歌詞が載せられていたが、ドイツ語の対訳という形を採っていなかったのが少々残念ではある。休憩中に僕の後ろに座っていたご婦人方が、この歌詞の感想を話しているのが聞こえたが、確かに現代の女性からすれば、時代遅れも甚だしい内容かもしれない。少なくとも19世紀ドイツにおいては、理想とされてきた価値観なのであろう―シューマンがクララに期待していたとしても何ら不思議ではない―。しかしながら、時代を超え、今まで傑作として歌い継がれてきたのは、シューマンの美しい音楽と相まって、歌詞の中にも、女性が共感できる感情の機微や幸せの瞬間が内包されているからに違いない。
作品は全8曲からなるが、オリジナルの詩は9編まである。最後の詩「Traum der eignen Tage」をシューマンが採用しなかったのは、年老いた女性が花嫁となる孫娘に人生について語るという内容だったからといわれている。裁判によって勝ち取ったクララとの結婚の時期である1840年に作曲されたのだから、当然と言えば当然であろう。
I. Seit ich ihn gesehen („Larghetto“; B-Dur)
II. Er, der Herrlichste von allen („Innig lebhaft“; Es-Dur)
III. Ich kann’s nicht fassen, nicht glauben („Mit Leidenschaft“; c-Moll)
IV. Du Ring an meinem Finger („Innig“; Es-Dur)
V. Helft mir, ihr Schwestern („Ziemlich schnell“; B-Dur)
VI. Süßer Freund, du blickest („Langsam, mit innigem Ausdruck“; G-Dur)
VII. An meinem Herzen, an meiner Brust („Fröhlich, innig“; D-Dur)
VIII. Nun hast du mir den ersten Schmerz getan („Adagio“; d-Moll)
全体は長調のナンバーが多い(それも僕があまり聴いてこなかった理由かもしれない)が、ドイツ語による演奏指示を見ると「心からの親密さ」を意味する「Innig」が頻出していることに驚いた―僕がシューマンの音楽で最重要な指示とみなしているからだ。シューマンがこの歌曲集に込めた想いがひしひしと感じられる。第1曲のテーマが終曲で再び現れる循環的な構成になっているが、全曲を今回じっくり聴いて第6曲が全体の核心のナンバーのように感じた。僕の気のせいかもしれないが、ここで(シューマンが再三にわたって引用してきた)「ベートーヴェン/遥かなる恋人に寄せて」と似たフレーズが聞こえた気がしたのだ。そしてニ短調になる終曲は、タイトルにあるように「苦痛」の響きで始まる―その響きはリーダークライスOp.39の「古城にて」と酷似している―。それが最初のナンバーの回想によって浄化されるイメージは「詩人の恋」の終曲とも繋がり、同じようにピアノの後奏が素晴らしい効果を生んでいる。横山氏のピアノ伴奏も、この歌曲集になった途端表情が豊かになったように聴こえたのは、やはりシューマンのこの音楽がピアノに一層の深い表現を求めているからだろう。
隠岐氏の歌声は初めて聴いたが、矢部氏が「声のストラディヴァリ」と讃える理由がわかる美しさだった。僕は基本声楽は苦手で、かなり歌い手を選んでしまうのだが、彼女の歌声はビロードのように美しく心地良く、作品に没入しているのが好ましく感じられた。ジェスチャーも雄弁で、オペラティックですらあった。後のトークで話されたように、幾度も歌ってきた中で今回は最もテンポが遅く表情も濃厚で、本人も会心の出来だったという。まさに名演を聴いた思いがする。
隠岐氏のデビュー盤より。ピアノは横山氏が担当―。
リーダークライス Op.39~第7曲「古城にて」。
1867年製エラールのピアノとの共演。ピリオドとの親和性も素敵だ。
ヘンデルの超絶なアリアを自在に歌う。これも驚き。
♪ ♪ ♪
(20分のインターバル)
後半は「シューマン/子供の情景Op.15」。彼のピアノ作品の中で最も親しまれているものだろう。これを横山氏のソロで聴くことができた。開放的に響くピアノのサウンド―やはり前半はアンサンブル内でのピアノとして、抑制されていたことがわかる。それでも全般的に響き過ぎるきらいがあるのは、ホールの特性とスタインウェイゆえに仕方ないのかもしれない。全般的にインテンポで進み、オイゼビウス的な楽曲では沈滞する感じだ。曲集の心臓部ともいえる第7曲「トロイメライ」でのデリケートさ (実は複雑な曲である) は流石であり 、終盤近くのナンバーでは悩ましい表情も聞かせる (第11,12曲) 。横山氏の演奏も今回初めて聴いたが、ベートーヴェンやブラームスを聞いてみたいとも思った。
作品について改めて調べたら、数種類スコアが存在するらしく、初版にはテンポ表示は含まれず、メトロノーム番号のみが記されているそうだ。シューマンが記した可能性は低く、出版の際は彼が黙認したらしい。また後の版でも微妙にメトロノーム番号の扱いが異なるようだ。なかにはメトロノーム番号が完全に省略されているヴァージョンもあるそうだ (クララ・シューマンによる版) 。実際の演奏では従来より遅いテンポが採用されているのが殆どで、アンドレアス・シュタイアーのようにピリオド楽器でメトロノームを遵守したテンポの演奏を聴くと、ついそっけなく感じてしまう。
「子供の情景」~第1曲「見知らぬ国と人々について」&第7曲「トロイメライ」。確かに速いテンポだが、音楽の内容が付いて行っている感じがする。
「子供の情景」が実際の子供の様子を描いたものではないことは解説にもよく記されているが、ドイツ・ロマン主義の視点でみると「子供時代」とは日常生活や (大人の) 世界の苦痛に対するロマンチックなアンチテーゼ―「逃避」といってもいいのだろうか―と見なされていたそうである。詩人ヘルダーリンは「子供は神聖な存在です。それは完全にありのままであり、だからこそとても美しいのです」と述べ、シューマンも「どの子供にも素晴らしい深みがある」という。子供という存在が手つかずの自然さやピュアさと結び付きやすいこと、普通の大人が失ってしまった (芸術的に) 理想的な状態であるという概念はわからなくもない―それが21世紀においても通用するかどうかは、また別の問題である―。さらに「子供の情景」の中で示されている幾つかのシチュエーションは、特に子供時代に誰しもが感じるであろうものを含んでいる。それは「未知の遠い世界への憧れと冒険への渇望」「珍しく個性的で奇妙なもの、ユーモラスなものへの興味」「日常から目を背け、内なるファンタジーに引きこもること」「憂鬱を伴う世界への倦怠感」そして「不気味で恐ろしいものへの関心」である。それらの要素は実にシューマン的であり、彼がいつまで経っても「 (大きな) 子供」であったことを示していると思う。このOp.15は、そんなシューマンだからこそ書くことができた名曲なのである。
第12曲「眠りに入る子供」(ホ短調)。調性的に次の曲と関連するのは明白である。
第13曲「詩人は語る」(ト長調)。中間部のカデンツァは「飛翔」Op.12-2を思わせる。どこへ飛び立とうとしているのだろう。
シューマン/幻想小曲集Op.12~第2曲「飛翔」。素早い演奏が多い中、アラウやこのルービンシュタインのテンポは味わい深い。
横山氏によるピアノ講習の場面。来年の音楽祭でも講習会が予定されている―。
ここで (ステージにて次の曲の準備中) 予想外にトークが始まる。隠岐氏と横山氏、矢部氏がそれぞれ今日のコンサートと来年の音楽祭について語ってくれた。歌手の方は普段の声も美しいものだが、隠岐氏もそうで、美しく可愛らしくもあった。面白かったのは矢部氏で「話し出すと止まらない」饒舌な一面を見せてくれた。横山氏は自分たちが (隠岐氏より)「少しだけ年上の私たち」と笑いを仕掛けたが見事にスベり、空気を読んだ隠岐氏が「ちょっとだけ上」といってすかさずフォローする場面も (しっかり笑いを取っていた)。何よりも嬉しかったのは、彼女がシューマンの誕生日のことに触れてくれたこと。歓声が沸き上がった―ということは、あまり意識されていなかったということだろう。そして次の一言は僕の心を震わせた。
「客席に彼の姿を感じずにはいられない」
そして最後のプログラム、「シューマン/ピアノ四重奏曲変ホ長調Op.47」が演奏される―。
明らかにピアノ五重奏曲Op.44の方が有名でスケール感も大きく、ピアノ協奏曲のような聞き応えがある (フロレスタン的といえる) が、このピアノ四重奏曲はOp.44以上に美しいメロディに溢れ、オイゼビウス的要素が濃厚である。第1楽章序奏から弦の美しくも重層的なグラデーションを聴かせ、気持ちを持っていかれてしまった。優雅な主部、ピアノも美しさをたたえる。短調で始まる展開部の情熱も素晴らしい。第2楽章に配置されたスケルツォは、一転不穏な雰囲気をたたえる。その運動性はメンデルスゾーンによるものを連想させるが、こちらの方がダークな幻想性に溢れている(それがまた魅力的だ)。実演を観ていつも素晴らしいと思うのは、音源では据え切らない各楽器の連携がひと目でわかるところである―そこに新たな気づきがあり、大変有意義なひとときとなる。特にこのOp.47はチェロの活躍が著しく、重要なパートであることにも気づかされる。この第2,3楽章はチェロが最初に演奏し出す。特に第3楽章は多くの賛辞に溢れているロマンティックな緩徐楽章である。このような音楽を聴いていると言葉を失ってしまう―シューマンが語ったように「音楽について話す時、一番いい話し方は黙っていること」なのだ―。またピツィカートが多用されているのも興味深い(まるでブラームスの室内楽のようだ。いや、年代的にはヨハネスが模倣したのかもしれないが)。中間の2つの楽章はピツィカートで締めくくられる。そしてフーガを伴うフィナーレ。ヴィオラ→ピアノ→ヴァイオリンの順でテーマが展開、最後にチェロがメロディを歌う。熱のこもった演奏はコーダへなだれ込み、緊密かつ凝縮された音楽がとてもスリリング。フィニッシュを迎えた途端、ホール内が大きな拍手に包まれた―今回のコンサートで最も盛り上がった瞬間であり、まさにクライマックスであった。まさかOp.47を聴いてこんなに高揚させられるとは夢にも思わなかった。会場にいた「シューマン」も微笑んでいたことだろう―。
ここでも日本の音楽家の精鋭たちによるシューマンのピアノ四重奏曲を―。
鳴りやまない拍手(スタンディングオベーションしていた方もいたほど)に応えて、アンコールが演奏された―ヴァイオリニストの矢部氏とピアノの横山氏、ソプラノの隠岐氏による『木下牧子/歌曲集「花のかず」~第7曲「竹とんぼに」』。今回はオブリガート・ヴァイオリンが加わった贅沢な編成だ。初めて聞いたが、素朴でいい曲だと思った。作詞は女優の岸田今日子の姉である絵本作家岸田衿子(1929-2011)。谷川俊太郎と夫婦関係だったことも。歌詞は次の通り―。
なるべく高く
なるべく遠くって
いいきかせたけど
もしほんとに
行ってしまったらどうしよう
とんぼより 飛行機よりも
空がすきになったらどうしよう
地平線をこえて
まひるの星にあいに行ったら
こっそりもどってきて
なるべく高く
なるべく遠く
でもここをわすれないで
何とも素敵な歌詞である―。
オブリガート・ヴァイオリンのある演奏がこれしかなかったので―。
まだアンコールは続く―。
今度はオールメンバーが登場し、サプライズが行われた。シューマンの誕生日に再び触れたので、てっきりシューマンの曲かと思いきや、なんと昨日(6月7日)が隠岐彩夏氏の誕生日だった!ということで、本人に内緒で「Happy Birthday to you」のピアノ四重奏版を横山氏が作曲、サプライズ披露したのだった。仲睦まじい様子にほっこりさせられる。来年の音楽祭も成功するような気がしてきた。楽しみに待ちたい。
音楽が人を紡いでゆく―。
確かに様々な形態の音楽があるだろう。
人の存在に依らない音楽も存在するかもしれない。
少なくともここで聴かれた音楽はそうではない。
体内を巡る血液のように、絶えず鼓動を続ける心臓のように熱く、生命のリズムに満ちた音楽であった。
ブログの〆は隠岐彩夏のデビュー・アルバムから―。矢部氏のヴァイオリンも加わる。