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佐渡裕によるブルックナー/交響曲第9番&武満徹/セレモニアル

✳️当記事は2021年10月に投稿された記事の再編集版となります―。

何よりもカップリングに興味をそそられたアルバム。佐渡裕/トーンキュンストラー管弦楽団によるブルックナー/交響曲第9番ニ短調(全3楽章版/1894)と、宮田まゆみをソリストに迎えての武満徹/笙とオーケストラのための「セレモニアル-An Autumn Ode-」(1992) という、独創的なコンビネーションを楽しめる演奏である。2017年、ウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴ・レコーディング。SACD盤。



今や「ブルックナー/交響曲第9番」の演奏形態には、複数の選択肢がある―従来通り全3楽章の「完成された交響曲」として扱うか、フィナーレを補う楽曲を用意するか、補筆完成されたフィナーレを採用するかのいずれかだ。往年の指揮者たちは当然前者だった。中にはブルックナーの言葉通り「テ・デウム」をフィナーレとして演奏した例もあったかもしれない(そうなるとベートーヴェン/第九と形式的に酷似することになる)。最近はラトル/ベルリン・フィル (BPh)盤など後者のケースも増えてきたように感じられる。マーラー/交響曲第10番といい勝負だろうか―そちらの方が演奏頻度が上かもしれないが。

僕が最初に聞いた演奏は、シューリヒト/ウィーン・フィル (WPh) 盤だったと思うが(宇野功芳氏の影響だろう)、あまりにも飄々としていて捉えどころがない感じがしていた。その後に聞いたジュリーニ/WPh盤で親しみが持てたのが正直なところだ。レコード・アカデミー賞にも選ばれたヴァント/ベルリン・フィル盤は図書館から借りて聞いたことがあるが、数ある同曲異演盤よりもまろやかな印象を持った―因みにヴァントは「3楽章派」らしい― 。ただ、どちらかというとオケの存在感が最も強かった気がしている。シノーポリ盤は所々神経質でシャープな解釈が聞かれるが、ドレスデンの豊穣な響きが作用してか、ふさわしいスケール感があり、なかなか魅力的だった。フルトヴェングラー/BPh盤は録音の悪さを超えて怒涛の情感が迫ってくる。スケルツォなどは迫力が凄い。モノラル録音がその傾向を助長(増幅)しているようにも感じられる。ここ数年前まで所有していたチェリビダッケ/ミュンヘンpo盤(EMIのBOX盤)は極大なスケール感だが、大きすぎて俯瞰できない印象だ。銀河英雄伝説のカイザー・ラインハルトみたいに「宇宙を手に入れる」と見えてくるのかもしれないが、僕の手はそこまで長くも大きくもない。両端楽章がそれぞれ30分を優に超える最長演奏時間を誇るが、特に第3楽章は美しさを極める。チェリがもしマーラー/交響曲第9番フィナーレのアダージョを演奏したらこんな風になるかもしれない。その後に収録されているリハーサルも面白かった―決してこれを「第4楽章」には据えられないだろうけど。

このように、ずっと3楽章版で聞いてきたせいか、第3楽章に告別の響きを聞き取ってしまってるせいか、僕的にシンパシーを感じるブルックナー9番の姿は、やはり「未完成」の姿なのである。


それでも、全4楽章補筆版で興味深かった演奏は、意外にも(失礼)NAXOS盤のこのアルバムであった―。

当時としての最新の改訂版を用いたこの演奏は、なかなかに聞きものであった。この作品を「全4楽章」と据えた場合、各楽章間のバランスが気になるが、このヴィルトナー盤ではフィナーレと第1楽章とのバランスを保つように全体を設計しているのが演奏タイムでわかる。全4楽章版を取り上げる指揮者は大概そのような傾向を示すことが多いようだ。

全4楽章で82分。なかなかの名演。第4楽章での、高らかに響くコラールは印象的。何気にフリードリヒの絵画をジャケットにするセンスも良い。


現在補筆完成されたフィナーレは少なくとも7種類ある―マーラー10番より多い数だ―。ちなみに、上記のヴァージョン「SMPC完成版」 (1996) をさらに改訂した「コールス完成版」(2011)がラトル/BPhによって演奏&録音されている。最新の調査によって復元されたフーガ箇所が加えられ、コーダも修正がなされている、とのこと。SMPCチーム(サマーレ、マッツーカ、フィリップス、コールスの頭文字)によると、このような補筆&復元作業を形成外科や法医学、病理学、美術の分野における再現&復元作業と同列のものにみなしているとコメントしている。

当アルバムでライナーノーツを執筆しているヴァルター・ヴァイトリンガー氏によると、フィナーレの作曲は思ったより進んでおり、172小節が完全に作曲され、200小節以上にオーケストレーションが施され、スケッチは500小節以上存在しているという状況。そして厄介なことに、完成されたスコアが遺品として30以上に分割されてしまったため、現在においても行方知れずの断片があるそうだ。この事実は確かに「補筆完成」の意欲を掻き立てるものになるかもしれないと思うし、その素材を博物館送りにするのは惜しく、何とかして音化したいという気持ちも分からないではない。ただ、リスナーとしては補筆完成されたフィナーレをあの第3楽章の後続楽章として自然に据えられる時が果たして来るのだろうかと考えると、なかなか難しいのでは、と思ってしまう。

アイネム/「ブルックナー・ダイアローグ」Op.39。こちらはフィナーレの素材を用いた作品。ブルックナーで名演を残したマタチッチによるライヴ盤。


では、当盤の佐渡裕による演奏はどうか―。

前述の3つの選択のうちの、2番目の選択をしたことになるが、その選曲が素晴らしい。なんとブルックナー (1824-96) とおよそ100年の隔たりのある日本の現代作曲家・武満徹 (1930-96) の作品を持ってきたのである。西洋のオルガン的な響きを彷彿とさせるブルックナー作品に対して、雅楽の伝統楽器「笙」をソロ楽器としてフィーチャーした武満作品を持ってくるセンスが素晴らしすぎる。笙の響きは独特で、唯一無二。確かにオルガン的といえなくはないが、あのまばゆい強烈な色彩感とは異なり、穏やかで淡い神秘性を孕み、いにしえの世界へといざなってくれるイメージが強い。ある意味、神的かつ儀礼的だ―「東洋的」な視点で。故に「西洋的」なブルックナーと反転する世界観となる。そのギャップがとても面白い。

笙を演奏する宮田まゆみ氏


その形を、翼を立てて休んでいる「鳳凰」(霊鳥の類いでフェニックスとは異なるという)に見立てられ、「鳳笙(ほうしょう)」とも呼ばれることもあるこの楽器、音の発生原理がパイプオルガンとほぼ同じらしく(そういえば先端の形が似てる)、どうりで似たような響きだなと思っていたが、この摩訶不思議な音色に惹かれた海外の現代作曲家も多く、ジョン・ケージをはじめとして数々の作品が作曲されている。下記のリンクはヘルムート・ラッヘンマン/オペラ「マッチ売りの少女」(1997)からのハイライト。全編特殊奏法で満ちている音楽だが、終焉の場面では何と笙が用いられる。少女が昇天してゆくシーンだ。初演には宮田まゆみが演奏したという。

Autour de Helmut Lachenmann : La petite fille aux allumettes, musique & images d’après Andersen (4)


お笑い芸人ながら笙も演奏できるカニササレアヤコが「ナウシカ」に挑戦。

イギリスの草原にて。馬はピュアで正直である。

細川敏夫/「ランドスケープ」Ⅴ (1993)。笙+SQの編成。静寂が際立つ。


同じような例としては、以前YouTubeで観たライヴで、あのクルレンツィスがブルックナー9番と連続して「リゲティ/ロンターノ」を演奏していたのを思い出した。とても不思議な感覚だったのを覚えている。

動画内のリンクでプログラム全曲が視聴できる。


佐渡裕によるこのブルックナーは全体のバランスが良いと思う。演奏タイムは24分/11分/24分。情感豊かだが、溺れることがない。歩みはスムーズでスマート。加減速の塩梅が巧みだ。スケール感にも不足しない。人知を超えるような感覚を及ぼすほどではないが、現実的でバランス感覚の優れた演奏なのだ。オーストリアの実力あるオケの強みもあるだろう。もちろんWPhのような個性は求められないが、要所要所でコクのある響きを聞かせる。ロケーションの場所の素晴らしさは言うまでもない。

「宇宙の創世」のような第1楽章が始まってひとつの頂点に達した後、しばらくすると歌謡的なテーマが奏でられる。この部分が僕は好きなのだが、気持ちがこもっていても重くならない。何度か現れるたびに陶然とさせられる―言葉に形容できない優しさ、慈しみ深さがある。後半の終わり、苦みを伴うクライマックスの後から、コーダに突入するまでのフレーズも好きだ。高揚感が断ち切られ、静寂に包まれる。木管が慎ましく歌い、金管がコラールを奏で、神聖な時間が現出する。ベートーヴェン第九を思わせる経過句だ。コーダの激しさにも胸を打たれる。

第2楽章は巨人の歩みのような強引な迫力感に、時には恐怖感を感じるほどの音楽で、ブルックナーの書いたスケルツォの中でも異様な部類に入るだろう―インパクトは満点で特にティンパニの打撃がものを言う。打って変わって中間部のトリオ(嬰ヘ長調)はメンデルスゾーンをかくやと思わせる天衣無縫な音楽。このコントラストも不思議だ。

思えば「第2楽章=スケルツォ」の図式は交響曲第8番に続くもので、かつての交響曲には見られなかった構成である(例外は第2番)。もし第9番が従来通り「緩徐楽章→スケルツォ」であったなら、未完成感が一層際立ったことだろう。

シノーポリ/シュターツカペレ・ドレスデンによる第2楽章。あらゆる声部がクローズアップされて聞こえる気がする。彼による解剖所見は如何に。


第3楽章アダージョ(ホ長調)は「終末―達成」のような印象の音楽。うねるように上昇するフレーズに心を持っていかれてしまう。所々コラールを思わせる、透明感のあるフレーズが頻出する。第3楽章全体がこの世ならざる気配で満ち満ちている。展開部での低弦セクションや金管の深いえぐり、高弦セクションでのハイポジションのフレージングなど、意味深く、慰安にあふれている。それと相反するような苦痛や苦悩が徐々に姿を現し、飲み込まれるほど増幅された瞬間、絶頂に達する箇所は実に壮絶だ。まるでマーラー10番のクライマックスの先駆的フレーズともいえよう。

マーラー/交響曲第10番~「アダージョ」。バーンスタイン/WPhのライヴ。彼を意識して録音を躊躇していたブーレーズが残した全集でも第10番はアダージョのみであったのが興味深い。


この楽章では特に「神の平安」と「神の不在」が入れ替わり立ち代わりしている感があって、演奏家もリスナーも翻弄されることとなる―いや、評論家や音楽学者も、というべきか。音楽学者ハンス・フェルディナント・レートリヒが「神の存在を体験しつつも、永遠なる神の世界の深淵を見下ろしている魂の苦悩。神の存在を間近で感じて得られる恍惚とむき出しの恐怖。疑いという葛藤の中で人間の心情が口を開けている空虚。これらが、ブルックナーの最後の作品の音楽における原初的な要素である」と詩的に表現した内容が当てはまる気がする。幸いなことに、コーダは安らぎに満ちている。過去の自作品の引用が聞かれ、人生の総決算が平安のうちになされてゆく感じがする―ブルックナーの並々ならぬ想いを伝えているかのようだ。金管のビロードのような柔らかなフレーズで幕を閉じるのも印象的だ―それも束の間、笙による「異質の音」が響いてくる。聴きようによってはノイジーにも響くが、体全体が包み込まれる感覚があり、染み渡る感じもある。笙が持つ音の凄さだろう。

その「武満徹/セレモニアル」は笙の響きで始まり、笙の響きで終わる。晩秋を思わせるオケの響きが途中から加わる。意外なほど官能的な響きだ―この時期の武満作品の特徴といえるかもしれない。

「ア・ストリング・アラウンド・オータム」(1989)。大岡信の英詩集「秋をたたむ紐」がタイトルの由来だそうだ。「セレモニアル」に通じる官能性を感じる。ちなみにその詩は次の通り―。

Be simple: A String Around Autumn
(沈め 詠うな ただ黙して 秋景色をたたむ 紐となれ)


「セレモニアル」における艶やかな弦、たなびくハープ。笙の音を模倣するような木管。うねるような旋律も聞かれ、実に魅力的な作品だ―。

「私が目指すのは、自分の力で響きをある目的に沿って動かしてやることではない。むしろ、もし可能ならば支配などせず、響きを自由にしておきたい。響きを自分の周りに集め、穏やかに漂わせておくだけでよい。車を運転するように、響きをあちこちに動かすのは人間が音によってできることの中でも、もっともひどいものである。

武満氏によるこの言葉は、「セレモニアル」にも当てはまるように感じられる―。

宮田まゆみ&佐渡裕による演奏。

佐渡裕がBPhに初登場した際のライヴ。オケの方が一枚上手な感あり。無理もない。

佐渡裕というと僕はこの「シエナ」の印象が強い。つい甲子園を思い出してしまう。

2016年の「1万人の第九」ライヴドキュメンタリー。この規模であれば演奏の精度は論外になるような気がする。果たしてこれから同様のイベントは可能なのだろうか。第九の演奏意義も合わせて考えていきたい。

佐渡裕の師であるバーンスタインによるブルックナー9番。レニーにとってブルックナーは鬼門であったともいわれる。録音も僅かしかない。



ブルックナーの「西洋」と武満徹の「東洋」の融和。プレーヤーのリピート機能を使えば「セレモニアル」の笙の響きが終わった途端、ベートーヴェンの第九のオマージュのような、あの茫漠とした冒頭が再び聞こえてくる。「永遠回帰」ではないが、似たような音感覚に浸るのも一興かもしれない。

アルバムのブックレットにはこう記されている―。

いつの世も変わらないのは、人は皆その才能や資質如何によらず、死ぬ運命にあるということです。事実、死の前では私たちの誰もが平等です」 

 Yutaka Sado


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