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「Morimur」(バッハ/シャコンヌ異説に基づく)

モノトーンのフォトグラフが印象的な、ECMレーベルらしいスピリチュアルな雰囲気のアルバム。バロック・ヴァイオリン奏者クリストフ・ポッペン&ヒリヤード・アンサンブルとのコラボレーションで「バッハ/無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番」を中心に、コラールを配置した独特なプログラムになっている。輸入盤(当盤)には80ページにわたるリブレットが付属しており、美しい写真とともに解説がスコア付きで詳細に記されている。2000年録音。



いにしえの聖母マリアにも見えるジャケット写真は、ジャン・リュック・ゴダール/「映画史」から選ばれている。ECMではサウンドトラックも制作しているようだ。さらにジャケット背面には神秘的な傾向の強い作曲家&思想家グルジエフの言葉が引用され、「知識」が込められた「芸術」から「アイディアを読み取る」ことの価値について語られている―。

Ancient art has a specific inner content.
At one time, art possessed the same purpose that books do in our day, namely: to preserve and transmit knowledge.
In olden days, people did not write books, they incourporated their knowlegde into works of art.
We would find a great many ideas in the works of ancient art passed down to us, if only we knew how to read them.

―George Ivanovich Gurdjieff


ECMからリリースされているグルジエフの音楽。あのキース・ジャレットも録音しているのだそうだ―。



アルバムタイトルの「Morimur」(ラテン語)は「薔薇十字団」に由来する言葉の一節「In Christo Morimur」(キリストにおいて私たちは死ぬ)から採られているようだ。

ちなみに全文は次のようになる―。

Ex Deo Nascimur, In Christo Morimur,
Per Spiritum Sanctum Reviviscimus

私たちは神から生まれ、キリストにおいて私たちは死に、
聖霊の中で私たちは生まれ変わる


これはルドルフ・シュタイナーも「死者の書」の中で触れているドグマであり、何から何までスピリチュアルな印象である―。

そして副題にある「シャコンヌ異説」という言葉には少し説明が必要だろう―それがプログラムの秘密を解き明かすものになる。このアルバムのコンセプトのもとになっているのは、デュッセルドルフ大学の教授&音楽学者ヘルガ・テーネ女史の研究による仮説に基づいており、それは「シャコンヌ」がバッハの旅行中に急死した彼の先妻マリア・バルバラへの追悼曲である―というものだ(バッハが到着したときには既に埋葬がなされていた状態だったという)。妻の死と同時期の1720年に作曲された無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番、特に終曲シャコンヌには11曲の教会コラール(内容も死や悲しみ、希望と関わりがある)と一致した和声とメロディが確認できるという。さらに数秘術の一種であるゲマトリアで該当するコラールの歌詞を読み解くと、シャコンヌにはマリア・バルバラ・バッハの名前と死の年が数値化されるそうだ。ライナーノーツにはそれらコラールがシャコンヌのどこに該当するか、スコアを用いて細かく解説されている。

ちなみにテーネ女史によれば、コラールの引用はシャコンヌにとどまらず、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ全3曲にも見られるという―それぞれがキリスト教の3大行事である降誕祭 (クリスマス) 、復活祭 (イースター) 、聖霊降臨祭 (ペンテコステ) をテーマとしたコラールがベースとして用いられていると分析している―。
これらの研究論文がケーテンの歴史博物館が発行する「ケーテンのバッハ」第6刊に掲載されており(第7刊はソナタについて)、そこに添付されているCDには当アルバムでも演奏しているクリストフ・ポッペンのヴァイオリンと、ドレスデン十字架合唱団員によるコラールを加えたシャコンヌの演奏が収録されている。

テーネ女史は、この「発見」を同僚であったクリストフ・ポッペンと共有する。この大胆な仮説に魅せられたポッペンはさらに熟考し、(前述した)地元の合唱団と「異説によるシャコンヌ」を録音、協力関係にあったECMレーベルのプロデューサー、マンフレート・アイヒャーにデモテープを送る。アイヒャー側がヒリヤード・アンサンブルを紹介したが、当初彼らはアイディアに魅せられたものの、録音に難色を示したと伝えられる―結果としてこうしてアルバムが完成したのはポッペンらの再三に渡る説得とヒリヤードの全面協力のおかげだろう。予想できることだが、オーセンティックな立場にいる音楽家からすると、この仮説は奇妙極まりないもので、グスタフ・レオンハルトは「妻の葬式にダンス音楽であるシャコンヌをかける気にはならない」と一蹴した。カンタータ録音で知られるヘルムート・リリングも懐疑的だった。ちなみに国内盤でライナーノーツを担当した礒山雅氏も音楽上の「フィクション」(こじつけ)として扱い、否定的な意見を崩さなかった―よく寄稿したものだと思う―。国内外問わず、よりによってバッハ演奏家&研究家として知られる人々からネガティヴな反応が見られた、というのは興味深い。下記のリンクには含蓄性のある意見も数多くみられ、「バッハが念頭に置いていた可能性のあるものを定量化しようとすることに過度に重点を置くと」、本来は単なる偶然のコラールの配置が必然とされ、必要以上の意味を持たせられてしまう危険性が指摘されている。


「墓碑銘」となったシャコンヌ―これは奇妙な見解だろうか?このアルバムを聴くまではシャコンヌにレクイエム的発想を感じることはなかったように思う(むしろ「パッサカリアとフーガ ハ短調BWV582」のほうが葬送的である)。ただ、「葬送的なコラールに彩られたシャコンヌ」というテーゼは、(ライナーノーツの冒頭でも触れられていたが)アルバン・ベルク/ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」のコーダを思い出さずにはいられない―「少女」の死を悼んで書かれ、結果的にベルク最期の作品となってしまったこの傑作はバッハのコラールの引用でも知られる。この「シャコンヌ異説」については、あくまでも仮説の域を出ないと僕も感じているが、音楽的発想は実に魅力的である―学究的な面での真偽を問う論議は他で行ってもらうとして。リスナーとしては(極論すれば)「聞こえてくる音が全て」なので、世界随一の声楽アンサンブルが伴うバロック・ヴァイオリンによるシャコンヌが悪かろうはずがないのである。そこに残響豊かなECMのサウンドが音世界をコーディネイトするのだ(オーストリアの聖ゲロルド修道院にて収録)。数多くあるシャコンヌ演奏の1つに加えてもいいと思う―ある情報によると編曲版は200種類にも及ぶといわれている。

ベルク/ヴァイオリン協奏曲~第2楽章後半。ムター&レヴァイン盤の音源で。バッハ/カンタータ第60番「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」の終曲が引用。

バッハ/パッサカリアとフーガBWV582。オルガンによる演奏で。

ヒリヤード・アンサンブルが有名になったECMレーベルの名盤「オフィチウム」―僕も以前毎日のように聞いていた。

シューマンがピアノ伴奏をつけた「シャコンヌ」。

ボックミュール編曲によるチェロ版のシャコンヌ。初めて聞く。

野平一郎によるヴィオラ四重奏版。

オーケストラ編曲版は数あれど、ストコフスキー版は凝った内容が面白い (特に終結部の余韻)


以前もどこかで述べたことがあるが、「シャコンヌ」は全6曲の無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータの「心臓部」に位置する音楽であり、この配置のバッハの意図が隠されているとしても不思議ではないと感じる。バッハの他の鍵盤楽器や器楽曲にもこのような形式の作品は存在しないからだ―「オスティナート・バスによる変奏曲」という性格の点ではパッサカリアがそれに相当する限りである。

16世紀終わり、新大陸に最古の姿が見られるという「シャコンヌ」(フランス語)。スペインやイタリアからフランス、ドイツへ伝わったこの舞曲は、数多くの作品&楽章に反映されてゆくが、その中でもバッハ作が最もよく知られ、多く演奏&編曲されているのには、引き寄せる「何か」があるからに違いない―32の変奏の芸術的な見事さのほかに、もっと僕たちの根源的な部分に作用する「何か」が、である。そこで思い出すのは歴史作家の宮城谷昌光氏の記述である―氏は大のクラシックファンで、その関係の本も多数執筆しているが、自分が何も受け付けなくなった時に唯一心に響いたのが「バッハ/シャコンヌ」だったという(シェリング盤)。そのシャコンヌにテーネ女史は「追悼」を見出した。それによって偉大なこの音楽を「記念碑」に変え、潜在的なコラールによって、亡きマリア・バルバラに永遠の命を示したのである。

僕としては「真相」は謎のままにしておきたい。
全ての事象が明るみになるような世界は僕には眩しすぎる―。


ついシャコンヌに話が集中してしまったが「バッハ/無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調BWV.1004」そのものにも触れなくてはならない―。

6曲セットになっている無伴奏ヴァイオリンのための作品―バッハがこの種の音楽の先駆者ではなく、「ロザリオのソナタ」で知られるビーバーや、(被献呈者と噂される)ピゼンデルの作品などが既に知られていたが、この曲集には特にピゼンデルの影響が色濃くみられる、という指摘もある(諸説あり)。

原版のタイトルにはこう記されている―。

無伴奏ヴァイオリンのための6曲の独奏曲、第1巻、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作、1720年

タイトルにあるように作曲年は1720年だが、ジムロック社からの出版は19世紀になってからで、かのヨーゼフ・ヨアヒムが演奏し始めてようやく傑作の地位を占めたという(出版を掛け合ったのはフェルディナンド・ダヴィッドだったという)。この頃はメンデルスゾーンによるマタイ受難曲の蘇演もあり、バッハ・ルネサンスが花開いた時期でもあった。後のイザイやバルトークの無伴奏作品は、バッハの存在なしには生まれ得なかったものだろう。この作品がバッハの時代に演奏されていたかどうかは不明。世界初録音は一部をヨアヒムが1903年に、全曲録音を1930年代にメニューインが果たしている。

(ちなみに第2巻は「無伴奏チェロ組曲」に相当するようだが、どういうわけかバッハは器楽による組曲を全て6曲セットで作曲している―実際的な理由があるのだろうか、それとも…)


僕は一時期バッハの音楽ばかりがもてはやされるのに辟易していたことがあった―(前述の)ドイツ・ロマン派がバッハ像を拡大&定着させ、現代に至ったのだと感じていた。その時聞いた「テレマン/無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジア」は清水のように混ぜ物がなく、純粋に音楽を楽しめたのを覚えている(バッハ作品の15年後に作曲)。それでも今回のポッペン盤でのバッハ/無伴奏を聴くと、やはりその魅力には抗えないと強く感じる。僕が好きな楽章であるサラバンドでは、想いを込めた濃密な表現が聞かれる。本当にバッハのサラバンドは名曲揃いである。ジーグでは音が詰まる瞬間があるが、いかにもハンドメイドな音楽という印象を持つ。ピリオド・アプローチの場合、音の減衰が速いため(モダンと比べ)テンポが速くなる傾向なのに、ポッペンはシャコンヌの演奏に14分半かける(ちなみにクイケン盤は12分かからない)―面白いのはコラール付きのヴァージョンでは14分を切ること。純粋なソロでは抑揚豊かに奏でているが、声楽との共演となるとそうはいかないらしい―。仮説を踏まえた演奏ということなのだろう、音の背後に「喪の感覚」を感じる。

ここではアリーナ・イブラギモヴァのバッハ演奏を。ピリオド奏法を自らの奏法へ昇華させている。

バッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV.1043。ポッペンとイザベル・ファウストによる師弟共演盤。指揮はリリング。

シューマン/弦楽四重奏曲第3番~第2楽章。演奏しているケルビーニSQは、ポッペンが結成したグループである。

チャイコフスキー/交響曲第1番「冬の日の幻想」~第2楽章。普段聞かない作曲家だが、この楽章だけは好きだ。ポッペンの指揮で。



さて、この記事をご覧になっている方々は「ヴァイオリン」と「ピアノ」―どちらが表現力が豊かだと思われるだろうか?僕はヴァイオリンの方だと感じている。(ピアノの音色が遥かに好みだとしても)

どちらかというとフィジカルな面でそう思うのだ―奏者との接触面が多く、身体性とリンクしやすい。
他方、ピアノの場合は奏者と一体化する感覚は持ちにくい―もちろん巨匠クラスのピアニストは論外―。
調律の面でもそうで、ヴァイオリンの方が遥かに音色が多彩。弓と弦がもたらす多様性は、鍵盤へのタッチとペダルの巧みさに比べても、想像に難くないと思う。
(繰り返すが僕はピアノの方が圧倒的に好きである)

なんでこんな事を書くのかというと、ポッペンの素晴らしいバロック・ヴァイオリンの演奏を聴いているうちに、ついそんなことを考えてしまったからだ―そんな僕も以前はポッペンの演奏を微温的だと感じていた。もちろん名手に限られるだろうが、ピリオド楽器はイントネーションがモダン楽器よりさらに自然で、身体にしっくりくる感じだ(健康にもいいのだろうか)。何百年もの時を経て、まるでヴァイオリンそのものが「主人」を待っていて、邂逅が遂げられた瞬間、魅力が開花する―かなりファンタジックな空想だが、そう思わせるものがピリオドにはあるようだ。ヒストリカルなピアノもそうであるし、たとえば20世紀初頭のスタインウェイには独特の魅力がある。フォルテピアノも含む古いピアノの方に近い距離感を覚えるのは身体が共鳴しているからだと、僕は考える。

(論点が少しずれてしまった。でもこのままにしたいと思う)



当アルバムの構成はテーネ女史の仮説を実際の音で辿るプログラムとなっている―。

(以下のプログラムはネットから拝借)

1. バッハ : カンタータ 第136番 『神よ、願わくばわれを探りて』 BWV 136 から 「私のいとしい神に」
2. バッハ : カンタータ 第4番 『キリストは死の縄目につながれたり』 BWV 4 から 「死に... 」
3. バッハ : 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV 1004 から 第1曲 アルマンド
4. バッハ : コラール 「キリストは死の縄目につながれたり」 BWV 277
5. バッハ : 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV 1004 から 第2曲 コレンテ
6. バッハ : カンタータ 第4番 『キリストは死の縄目につながれたり』 BWV 4 から 「死に打ち勝てる者絶えてなかりき」
7. バッハ : 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV 1004 から 第3曲 サラバンド
8. バッハ : カンタータ 第89番 『われ汝をいかになさんや、エフライムよ』 BWV 89 から 「私はどこに逃れゆくべきか」 
9. バッハ : 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV 1004 から 第4曲 ジーグ
10. バッハ : カンタータ 第4番 『キリストは死の縄目につながれたり』 BWV 4 から 「死に... 」
11. バッハ : 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV 1004 から 第5曲 シャコンヌ
12. バッハ : コラール 「キリストは死の縄目につながれたり」 BWV 277
13. バッハ : ヨハネ受難曲 BWV 245 から 「御心が実現しますように、主なる神よ」
14. バッハ : マタイ受難曲 BWV 244 から 「お前の道と心の煩いとを」
15. バッハ : コラール 「イエスよ、私の歓び」 BWV 358
16.バッハ : カンタータ 第136番 『神よ、願わくばわれを探りて』 BWV 136 から 「私のいとしい神に」
17. バッハ : ヨハネ受難曲 BWV 245 から 「イエスよ、あなたの受難は」
18. バッハ : ヨハネ受難曲 BWV 245 から 「私の心の奥底では」
19. バッハ : コラール 「いざ魂よ、主を讃美しなさい」 BWV 389
20. バッハ : カンタータ 第4番 『キリストは死の縄目につながれたり』 BWV 4 から 「死に... 」
21. バッハ : シャコンヌ〔ヴァイオリンと4声による、ヘルガ・テーネの研究によって明らかにされた、隠されたコラールを含む演奏〕
22. バッハ : カンタータ 第4番 『キリストは死の縄目につながれたり』 BWV 4 から 「死に... 」

見てお分かりのように、パルティータ第2番の間にコラール(その断片)が挿入された形をとる―あたかも隠されたコラールがだんだんと姿を現してゆく過程を示すかのようだ。通常のヴァイオリン・ソロによる「シャコンヌ」のあと、関連すると思われるコラールがア・カペラで歌われ、最後にはコラール付きでシャコンヌが再び演奏され、収斂される―つまりシャコンヌのヴァージョン違いの演奏を2度聴くことができるのである。

シャコンヌの「裏テーマ」といえるバッハ/カンタータ第4番「キリストは死の縄目につながれたり」。ガーディナー率いるモンテヴェルティchoは世界有数の合唱団である。

コラール 「キリストは死の縄目につながれたり」 BWV277。

こちらはオルガンによる同名のコラール前奏曲BWV625。


アルバムに登場する数々のコラールの中には、マタイ&ヨハネ受難曲に含められているコラールも登場するが、僕がとりわけ耳をそばだてられたのはトラック14の「お前の道と心の煩いとを」。昔、アーノンクール新盤で「マタイ」全曲を聞いたときから好きなコラールで、教会(集会)に通っていた頃、讃美歌「血潮滴る」として歌われていたものだった。オリジナルはバッハ以前から知られているもので、バッハが用いたかたちになる。当盤のようにア・カペラで歌われると、時折当時のことを思い出すのである―その教会でも讃美歌はア・カペラだった―。またトラック15「イエスよ、私の歓び」BWV358は「ABCDCBA」というシンメトリックな構成を持った「モテットBWV227」のテーマにもなっている、これまた昔から知られた名コラール。バッハもお気に入りだったらしい。ちなみにヒリヤード・アンサンブルはモテットをECMに全曲録音していて、以前そのアルバムを所有していたことがあった―器楽伴奏が付くのが普通だが、ヒリヤードのようにア・カペラで録音したのは演奏史上初かもしれない。彼らのこだわりを強く感じる―。

「マタイ受難曲」より、件のコラールを。歌詞と表情を替えて複数回登場する。極めて印象的なコラール。

「ヨハネ受難曲」~コラール 「私の心の奥底では」

モテット「イエス、わが喜び」BWV227。


アルバム最後を飾るコラール付きのシャコンヌは、満を持して演奏されている感じ。一種の「クォドリベット」という表現が相応しいように思える音楽だ。カンタータ第4番の断片(「死に... 」)に挟まれて配置されているのには想像力を掻き立てる。とあるレビューの方が「マリア・バルバラの霊の囁きのよう」と語られているのは秀逸な表現。コラールに満ちたシャコンヌの中で「彼ら」は出会っているのかもしれない―。

「断片」が囁かれ、コラールとともにシャコンヌが奏される―。

ソプラノ、メッゾ、テノール、バリトンの4声&ヴァイオリンの「モリムール」。当盤のヒリアードは女声はソプラノのみである。


学術的に賛否両論が(未だに)絶えないが、アイディアの魅力、そして何よりも演奏とトータルサウンドの神秘性が、日々繰り返す生活のなかでひとときの「癒し」となるアルバムであった―。

当盤音源より冒頭10分ほどを―。

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