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イメージは超えられないのさ

 中学生になれば部活で大活躍し、高校生になれば彼女と仙台までデートに行こう。大学生になったらサークルに入り、授業はさぼって酔いにまかせてあの子と付き合おう。誰だって将来は明るくあってほしい。そのイメージばかりが先行し、いつの間にか「妄想」の域に達してしまう。

 でも、大学生のイメージが大学生によって語られることはない。彼らは現実世界でまさにこの瞬間、それぞれの大学生活を送っているから。イメージはいつも第三者が語る。かつて大学生だった大人が、メディアが、ませた小学生が。やはり第三者が語るのだから現実との乖離は避けられない。

 この春、大学生になった諸君はその「妄想」との乖離に苦しみ、現実を理想に近づけようとしたり、あるいは現実を卑下することによって己の矜持をかろうじて保ち続けていることだろう。当然、かつての私もその一人に違いなかった。だからこそ、コロナ禍の大学生活はしんどかった。これからは一人暮らしで、東京の大学に通う。自分の裡でひとり誇大化した「妄想」はいとも簡単に崩れ去った。その程度のことは「妄想」ではない、当たり前のことだと言う向きはやはり、当たり前の認識が甘いと言わざるを得ない。一体どうして、明日が約束されていると言うのだろうか。結局、大学1年生の私は、高校時代の友達と頻繁に家の近くで集まってご飯を食べたり、他愛もない話に夢中になった。そして、自室にこもって本を読み漁った。ただ、これだけが間違いない事実であった。私たちは日々をひたぶるに重ねることしかできない。

 「十人十色」。こんな簡単な、誰でも知っている四字熟語に私たちは改めて考えさせられる。十人の大学生がいれば十通りの大学生活がある。イメージとは、それらの見栄えのよい部分をつなぎ合わせたに過ぎない。だから、イメージはいつも超えることができない。それぞれに絶対的な条件があるからだ。進学を機に大親友との距離が離れたり、志望した大学ではなかったり、家族の介護をしなければならなかったり。自分の責任ではなくても背負わなければならないものを、自分が持っているのと同じように、他人も持っているものだ。

 私の想像する大学生活は概ね次のようなものであった。大学のすぐ近くに学生しか住まないぼろいが安いアパートがあり、ほとんどの学生が一人暮らしをしている。なんとなくヒマなときに、突然友達の家に差し入れの缶ビールを2本だけもって一緒に飲む。そんなことを繰り返すうちに、急に恋人ができた友人の付き合いが悪くなって、「あいつ、恋愛してから変わったよなー」と、寂しい友人と言いあって、自分の取りててて誰かに伝えることもできないちょっとの虚しさを慰める。こんなことも日常的にあるだろうと思っていた。一人暮らしなんて2年も経てば誰かが一緒にいてくれることが魅力的に思えてくるとどこかの作家が書いていたが、まさにその通りで、なんとなく誰かといたい夜もある。

 都会のキャンパスはここに欠点があった。都会は交通の便もよく、片道2時間かけて通学する学生も少なくない。大学の調査によれば片道30-60分かかる学生が最も多いらしい。そんな距離感だから、遊ぶにも予定を立てなければならない。終電も気にしなくちゃいけない。ただ、自分が高校の友人に大学生活を聞かれるとき、「大学の周りでおしゃれなランチができちゃうし、カフェはそこはかとなくあるし、すぐに遊べるよ~」とか言う。高いランチはたまにしかいかないし、多すぎるカフェは行き尽くすことができなくて、結局常連さんになんてなれないのに。

 自分の都会のキャンパスの良さを語りつつ、その背後にある現実については触れない。きっと田舎のキャンパスでも同じことが起こっている。自分一人が考えつくことなんて、同年代の友人も考えているに決まっている。お店がないから宅飲みしてるだけだとか、田舎には出会いがないとか。イメージは超えられない。将来への期待は水泡へと帰す。しかし、虚無的な気分に散々浸った後で、一つだけが気づくことがある。キャンパスの近くでおしゃランをするのだって、カフェがたくさんあっていつも行きたいお店があることだって、高校時代の自分には想像できなかった。ドライブ圏内に、江の島も鎌倉も逗子もある。電車一本で川越にも行ける。過去の自分からすれば新鮮で楽しいことの定番に違いない。

 将来に対する期待が畢竟、「妄想」であるとしたら、それはニヒリズムを結果せずにはおかないだろう。しかしながら、よくよく現実を振り返ってみれば、想像することすらできなかった幸運も近くに落ちているものだ。先日は財布を拾ったが、持ち主が現れなかったために、臨時収入諭吉5人を得た。一寸先は闇であるのと同じ確率で光でもあってほしい。だからこそ、走るのだ、振り返らず。

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