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お金とスピリチュアル(おまけ)

20年くらい前だったろうか・・・

自分自身がお金の知識が乏しいというか、その手のことに苦手意識を持っているなど、克服しなければいけない点が多数あったので、ちょっと思い立って、キャッシュフローの勉強会に出てみたりした。(当時「金持ち父さん貧乏父さん」が流行っていた)

お金について真面目に勉強しようと思っていたのだけど、なんていうか参加者のほとんどの人たちは、ビジネスライクかつ有益な情報ときっかけをもたらす、美味しい出会いを求めているのが見え見えで、それが悪いというわけではないけれど、なんだかな~っていう感じな気持ちにさせられた。

せっかくの一期一会の出会いだと言うのに、同席した人たちと心地よくその場を過ごそうという気遣いなど皆無で、その場限りにせよ、有益な会話とゲームを共に楽しみながら意見交換や情報交換をしようというような気概も姿勢もないというのかなあ…相手の職業や肩書などから、損得勘定を推し量って、食いつくか食いつかないかを決めてるって、あからさまな人が多かったのね。その時点でそういう人は成功する素養なんて無い人だって、実に判りやすい。

お金について勉強しに来ているのか・・・
お金をもたらす出会いを求めて来ているのか・・・
後者だったら、
エンジェルを探しに行ったほうが早いと思うが。
(この場合、言うまでもなく天使のことではない)

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さて、別の話。とある成功法則によって成功した人物が、クリスマスに養護施設にいる子供達をレジャー施設に招待して、親代わりで一緒に遊ぼうと、ボランティア(子供達の分も出す)を募集していたので、いい企画だなあと思って参加したりなんかしたのだが。

参加しているのはほとんどその人物に憧れを持つ若者たちで、私みたいなおばさんは皆無で場違い。。それは良しとして…
なんていうのか、結局彼らはボランティアの趣旨に賛同してというのではなくて、成功した人物が掲げている「成功の条件」の中に、ボランティアをすることが含まれているからっていうのと、その成功哲学を論じている人が主催しているイベントだから、参加すれば自分もあやかれる的な・・・なんかそんな感じがありありだったのです。

実際、私が当時友人たちとやっていたチャリティ活動のこと(家庭から出た不用品をフリマやオクで売った収益を寄付)を話しても、誰一人興味ねー知らねーの無関心そのものにスルーw

おまけに、「こういうボランティアに参加するなんて、随分意識高いねー」

初対面の、自分の親世代の人間に対してタメ口とは笑止。
「これが若さというものか」と、ほくそえんでみたりする。

ビル・ゲイツやスティーブン・ジョブズやウォーレン・バフェットetc…
そうした成功者に憧れ、手本とし、近づこうとするのは良いが、彼らがしてきたことをカタチだけ、表面だけ真似て、簡単に財を成せると思うなよ、小僧! (なーんちゃって)

数年前に訪れた、知覧特攻平和会館での特攻隊員の遺書を思い浮かべて、
いろいろ比較してしまいました。日本オワタ…と。

すっかりぬるくなった環境の国では、
頭まで茹で上がってしまった、ぬるい若者しか育たないのかなぁ。

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で、ふとそういう場所で出会ってしまった人を思い返すに、
やっぱ共通点があるなーと。

彼らは皆、
自分が「与えられること」ばかり考えていて、
誰一人「与える」ことは考えていなかった。

どうすれば、人より多く「得られるか」だけの損得勘定で、
自分が他者から「与えられる」ことばかり欲していて、
自分に何かを「与えてくれる」人や事物だけに嗅覚を発揮し、
それ以外のことには眼中がまったくなかった。
言葉は悪いがおこぼれを待つ犬みたい。

自分が他人あるいは世の中に対して、
何かを「与えよう」とはまったく考えてない人たちだったんですよね。

他者に対して何かを「与えられる」とこまで
精神的成熟度が達していないというのもあるでしょうけど。

そんな風に
自分が「与えられる」ことばかり考えている人は多いが、
自分から「与えよう」と考える人は少ない。

けども、ほとんどの成功者、お金持ちは、その他者や世の中に対して「与える」ことばかり考えてきた人たちなんだけどね。社会に対して、自分が出来ることを精一杯提供してきた結果、ニーズを満たし、結果的に財を成すことになったというべきか。

もち儲けようとだけ思ったにしても、世の中のお金の動きやニーズが何処にあるかのマーケの部分をしっかりやって、社会の求めを把握して、時代の波にうまく乗れているからこそ、だと思うが。

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人は人の中でしか成長できない。
だから、一人で孤立していても、人間として成長する機会というのは訪れない。だから、他者と関わりあうことが、霊的成長も含めて、人としての成長を促すのだが、

他人との関係性から学ぶことと同等くらいに、お金に纏わること…お金によって派生する問題というのは、その人に成長の機会を与えるものでもあったりする。

何故なら、お金に絡む問題は、人のエゴイズムがもっとも赤裸々に剥き出しになり、色濃く反映される場所であるから。

お金を前にしたとき、その人の性質がよく判るとは人の云う…。

お金がありすぎても、なさ過ぎても、いずれにしても、その「お金」に左右され、操られ、振り回される人であるのか否か。

お金の前で、人の「欲望」というのは正直に姿を表す。

「欲望」があることが悪いのではない。
エゴイズムもすべてが良くないというのでもない。

多少の「欲望」は人を行動へと駆り立てる情熱になるし、エゴイズムも使い方次第では原動力になるから。ようはお金にしても、欲望にしても、エゴイズムしかりそれに支配され、主導権を明け渡してしまうのが問題。

お金がすべてになってしまって、お金の奴隷になり、欲望やエゴイズムと同化して、それらに貢ぐための生き方になってしまうのが良くないこと。

お金は使うものであって、手段でしかないので。

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そして、お金の有無に自分自身の価値や、幸福であるか否かということを決めさせているのが誤りの元。お金がないから不幸でお金があるから幸せ、なのではなく…

お金がたくさんなくても幸せ。
お金がたくさんあっても幸せ。

が理想なんですね。本来はそうでないといけない。
(ラジニーシがいうところのゾルバブッダみたいな。とはいうものの、和尚ラジニーシは言うことと実際の行動がアレな人ですがっっ)

でも、そうではないから、大金を手にしたことで人生を狂わせてしまう人たちなんかが出てくる。お金に翻弄されて、肝心の、自分にとって何が大切なのか・・・自分が幸せと感じ、充足感を味わえる人生を見失ってしまう。

唯物的な世の中においては、なかなか難しいし、昔と違って、今って自給自足で生きていける環境ではない。その国の国民として生きているだけで、支払いの義務が生じる。税金もだし、年金やら保険やら、公共料金もそう。なので、働かないで生きていくってことはほぼ不可能。

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だからこそ、お金のことって色々試される。
お金に絡んだことでは、人生のお試しがいっぱ~いやってくる。

お金の有る無しに、生き方の選択や考え方が左右されるか否か。

お金と何を引き換えにするのか…

ポリシーやプライドだったり、人としての在り方だったり、自分の心だったり、守りたいものへの愛だったり、貞節だったり、あれやこれや

人はパンのみに生きるにあらず、だけれども。

お金がないとパンは買えず、
パンを食べないと飢えてしまい、
生きること能わず、だし…

お金の問題は「生きる」ことに直結するものでもあるし、「生活」をどうやって成り立たせるのか、自分の価値(スキルや能力)を仕事に換算して、稼ぐ手段(奉仕)へその人を向かい合わせ、導くことにもなる。

どうやってお金を稼ぐか、どんな仕事をするべきか、より収入の多い仕事をするべきか、収入は少なくともやりがいのある仕事を選ぶべきか。どんな職場を自分に与えるのか、自分が属する企業(会社)が道徳的な会社であるのか否か、その仕事、職場が世の中のためになる業種であるのか否か、

たーくさん試されることになる。

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お金の問題はとても世俗的な問題に見えて、実のところ、スピリチュアルな問題を多く含んでいて霊的な成長をもっとも促す場所のありか、でもあったりする。

その人のスピリチュアリティ、霊的な成長の度合いを知りたいなら、その人の心や精神の状態がお金の有無によって左右され、振り回されているかどうかを見ると言い。

お金がなくても幸せ。
お金があっても幸せ。

をまさしく実践できている人かどうかでそのことが分かる。

お金の問題はその人のエゴイズムを表し、あらゆるお試しを仕掛けてくる。

その誘惑にのることなく、お金があろうがなかろうが、人生を楽しめるようになったときこそが、お金や物質の欲望の奴隷状態から解放され、真の意味で、物質やお金の価値を知り、それらと相思相愛になって、上手く使いこなす術と知恵を身に着けることが出来た状態だと言えるのかも知れない。

で、そんなアタクシは相変わらず、
お金に翻弄されまくり、振られまくりですケドwww

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