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贖罪と受容~赦すこと赦されること(下)

輪廻転生のある世界においては、「死」という終わりはない。
「死」はあくまで変成であって、一つの人生が終わるだけ。

加害者が「死罪」になったとしても、その人生での名前ある姿が一時的に消滅するだけ。死後数年もすれば、再びこの世に生まれ落ちることになる。

「死」をもって償った・・・にしても、その「性」、本質はそうそうに変わるものではない。前世の記憶は所持されること無く、罪の記憶は忘れ去られ、別人となり、人々から「罪人」として見られなくなっただけのこと。
自らが犯したことを「罪」として悔恨し、過ちを二度と犯すまいと、当人が強く決意していなければ、その志と贖罪の計画が今生のレッスンに織り込まれることは無い。

(本人がそれを「罪」と思わない限りは、それがカルマになることは無いのだが、かといって、いつまでも罪を罪として自覚しないことが見逃されるわけでは無い。ひとつの人生が終わって、次の転生に至るまでの間、当人のカルマに介入することが赦された存在たちが、自戒のない存在を「独房」という場所に閉じ込めることがある)


ちなみに私自身は死刑反対派ではない。

敢えて言うならば、
今のところ極刑は「死刑」しかないであろうとも思う。

「死刑」の問題点は、冤罪があった場合に取り返しがつかないこと。
独裁政権やクーデターなど、民意がそこに介入できない状況や安定しない政権の混迷期において、主権を持った者たちの独裁的な判断によって、裁判も行われず、確固たる証拠や理由のないままに、粛清やリンチのような状態で安易に死刑が行われてしまうこと。

そういう危険性を孕んでいるので、慎重になるべきことだと思ってはいるが、さりとて今の人類の在り様・・・霊的レベルを鑑みるに、まだまだ三次元でのこの処罰方法は撤廃されていい段階にはないと言わざるを得ない。

輪廻転生があると肯定している立場からしたら、「死刑」という厳罰を下されたことによって、死刑囚たちが反省し、改心するか・・・といったら、決してそうではないし、「死刑」によって、反省する機会が失われるということもない。

ただ、罪の記憶を有していたほうが、世間から非難の目を向けられ、迫害、疎外されるという状況下で咎人としての枷を負うことになり、己が罪から目を逸らさず嫌がおうでも向き合わねばならない機会を得ることには間違いない。

現代において、死刑という極刑が存在することが、犯罪の抑止効果になっているかというと、残念ながらそんなことはなく・・・実際日本では、人一人殺したからといって「死刑」になることは、ほぼ無いので。

ただ、遺族の気持ちの着地点としては、加害者側が同等あるいはそれ以上の厳罰を与えられないことには、どうにも耐えきれないものがあったりする。

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命は尊いもの。

だからこそ、「死」をもって己が罪を引き受け、犯したことの責任として、せめて遺族の恨みを、苦しみを、命と引き換えに地獄に自ら持っていくことで、それを僅かでも償いの証として欲しいものだとも思う。

命の代償を命をもって償うということは出来ないのだけども。(犯人が死んだとて、死んだ相手が生き返るわけでも、傷ついた遺族の心や失ったものが何一つ得るものは無いので)

けれども今の世の中は、加害者の人権ばかりが保護される。加害者とは別の人間であるというのに、家族(親族)までをも、加害者と同罪とする風潮がある。そして、何よりも被害者側のプライバシーが侵害され、遺族の意向が無視されて、傷つけられ、被害者遺族に寄り添うことをしない世の中だ。

さて、一口に殺人や犯罪と言っても、
総ての罪は同等に語られるべきでは無いとも思う。

確かに人の命を奪うことは相応に重い罪だけれども、同じ「人の命を奪う行為」にしても、正当防衛や過剰防衛での勢い誤っての殺人、人為的な操作ミスによる事故や交通事故、医療事故等、そうした不幸な事故というのもあるし…

介護疲れや生活苦に追い詰められての心中的殺人、(自殺も殺人の一種である)相手の常日頃からの非人道的な行為により、恨みや憎しみを募らせざるを得ず、やんごとなき理由で精神的に正常な判断が出来ず、相手に刃を向けた・・・そのような事情もあるだろうから。

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また、戦争、戦といった状況で敵味方となってしまった時には、それは人を殺めることを避けたくても避けられない状況で、人の狂気を呼び覚まし、人が人でなくなる場でもあり、殺らなければ殺られてしまう現実があるから、致し方ない状況も多々あること。

人として、確かに「殺人」はいけないことだけれども、(そのような背景、事情から)、そんなことがあったのなら、そうせざるを得なかったのも、情状酌量というか同じ人として同情できるし、解らなくもないと…

そう思えるものならば・・・それはその人自身にとっても、確かに「過ち」でしかなく、法的な裁きを受けることさえすれば、他者が責めるべきことではないし、当事者であったとしても、時間の経過とともに、「許す」ことも可能な案件なのかも知れない。

自分もいつ、相手と同じような立場に立たされ、類似の罪を犯してしまうかも解らないし。もちろん人の感情としては、いつも物解りよく、必ずしも割り切れるものでは無いけれど。

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人は大なり小なり罪を犯す。

生まれてこの方、罪を一つも犯したことのないものなど存在せず、当人が自覚していないだけで、知らず誰かを傷つけ、追い詰めたり、ちょっとしたことと軽く考える些細の無いことと見過ごすことや、悪意のない悪戯や無責任な行為やミスによって、後に取り返しのつかなくなるような大事につながる「きっかけ」に自分が関与したことなど無い・・・などと断言は出来ない。

自分は無責任な噂を流したことは無いだろうか?
悪気はないと言い訳しながら、人を傷つけたことは無いだろうか?
プレッシャーを感じている人に追い打ちをかけたことは?
好奇の目で眺めて、無意識にその相手を晒しものにしたことは?

自分が知らないだけで、気づいていないだけで、
他人に迷惑を掛けていることはたくさんある。

そして、言葉ひとつで人は人を殺すことも出来る。
言葉は凶器でもあり、ナイフのように人の心に深く突き刺さる。

凶器によってでなく、無神経だったり、悪意のあるたった一つの言葉で身近な誰かを「自死」へ至る階段に登らせたことがないと、そんなことは自分に限って、絶対にないとどうして言い切れようか?

まして過去生まで遡ればなおのこと。

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みんなモノを盗んだり、人を殺したり、集団の和やルールを乱したり、違反行為をしたり、姦淫したり、人を騙したり、差別したり、犯罪に加担したり、人を人として扱わなかったり・・・その罪は種々様々だけれども、人の道に外れるようなことを一度も犯したことがない、清廉潔白な人なんて、一人もいなかったりする。

その時代独特の文化や民族特有の風習、宗教により道徳観や規範は違っているし、ジェンダーや置かれた立場、環境にもよるのだけども。

古今東西、何一つ罪を犯していないものなどいない。みんな罪深く、血塗られた手を持って生きている。いかに今の人生で聖人君子よろしく善人面していようと・・・何かしらの罪を背負って、今この人生を生きている。

しかし肝心なのは、「過去」なのではない。「過去」に犯した罪の重さなのでもない。

今現在、その人がどんな人であるのか・・・犯した過ちから何を学び、その罪をどのように「昇華」させて生きているのか。

私たちは罪を犯し、過ちを通して、人生を学んでいく。
人を傷つけ、自分も傷つき、苦しみや悲しみ、喜びや楽しみを覚えて、
人としての「こころ」を育てていく。

そして愛を知り、愛を欲し、愛することを覚えていく。

理想と現実の狭間で迷い、挫折し、絶望や希望を繰り返し、そうして生きる意味を知り、人生の目的を見つけ、自分が何者であるかに気づき、自分を表現し、生きようとする。

人が人としてこの世に降りてきたとき・・・ワンネスから離れて久しい段階なので、他人と自分との区別があまりつかない状態だという。何も知らぬ、無垢な赤子のように。

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けれど、この分離の物質社会において、自分という肉体、自我を所有しはじめたときから、私たちは固有の記憶、人格を経験から育て始める。

本能のままに、肉体の五感と欲求を満たすところから、サバイバル意識が始まって、やがて「個」としての自分と自分以外の「他者」との関係性、存在同士のぶつかり合いから、様々な問題が生まれる。

その「問題」という摩擦により、人は「思考」を使うことを覚え、五感を通して「こころ」を磨き、育てていくことになる。

自分とは違う個性を持った、他者との関係。

自分がされてイヤなことは相手もされてイヤだと・・・自分が抱いたことのある嘆き、苦しみ、怒りという感情を通じて、他者の感情を想像し、相手の境遇や痛みに同情し共感する。思いやりや優しさを表現することを、自らの経験を通して学ぶ。

何が「善」で何が「悪」なのか・・・自分の行動そして他者の行動、さらに属する社会の反応や判定を通して、人は善を知り、悪を学んでいく。

何を赦せて、何を赦せないのか・・・赦せないこと、赦してはいけないこととは何か・・・赦せること、赦すべきことがなんであるかを知りつつ

人を傷つけたり、罪を犯してはいけないのは何故なのか・・・

人として、絶対にしてはいけないこととは何か?過ちとは何なのか、それは償えることなのか否か。過ちを犯すということはどういうことなのか。  罪悪感とは? 謝罪とは? 償いとは?
罪を犯したとき、過ちを犯したとき、どうするべきなのか?
罪を犯したものは相手に対してどのようにふるまうべきなのか?

過ちを犯し、罪を知ることで、傷つき、傷つけられ、痛みを知り、苦しみ、嘆き、怒りを知り・・・犯した罪の重さに恐れおののき、

何が善くて悪いことなのか・・・ことの善悪を知り、人として絶対に越えてはならない境界線を学び、人を赦すことや赦されることを知っていく

命の尊さ、その重さをその身に深く刻みながら・・・

他者の罪を責めながら、その是非を問いながら、自分もまた過ちを犯す存在であることを思い至ったとき、相手の過ちを赦し、受け入れる寛容さを示すようになる。

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「お互いさま」という言葉はどうも日本独自の文化のようで、互いに、どっちもどっちで迷惑を掛け合う者同士なのだから、おあいこで相殺しましょう的な、許しと謝罪の意味が込められた言葉でもある。

だが、この言葉を使う時、どちらかというと相手の方から迷惑をより多くかけられているものが言うべき言葉であって、

相手からかけられる面倒や迷惑よりも、より一層、たくさんの失礼なことをしてしまっているほうが、「お互いさま」などと自分からは決して言ってはいけないような気がする。

人によって、赦せることと赦せないことのは違う。その範囲、キャパというのは人それぞれ。それは経験からくる違いであり、不寛容なことを責める権利は誰にもない。

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さて、スピリチュアルな知識。グノーシスの教義では、「カルマは与えたり、与えられたりする」ものであり、私たちは様々な経験をするために、互いに教師となり、お互いに経験を「与えあっている」と教える。

とても端的な説明でまとめてしまっているが、このあたりの真の意味を理解しもらうのは難しい。

この現代社会において、私たちは非常に霊的レベルの低い段階にあり、エゴイズムが邪魔をして、自分勝手に否めて、自分自身に都合のよい解釈をしてしまいがちだからだ。

だから、古代の文明において、このような知識は誰にでもというわけにはいかなかったので、一般の人に門戸を広げず、特定の人だけに秘儀として教えられた。つまりは伝える人を選ぶ内容というわけで・・・

ある一定のレベルに達した人ならまだしても、霊的成長が未だ平均値に至ってもいない人に限っては、そのまま伝えることは出来ず、教えられない箇所を削る必要もあるし、言葉を違え、例え話を判りやすくし、あれはだめこれはだめと、禁止事項を加えたりしなければならなかったりする。

どうしても、下のレベルにいくほど、意味の違ったことを伝えざるを得ず、
もしもすべての段階の教本があるならば、それらを並べてみたとき、矛盾ばかりが目に付くことになる。

人の「罪」や「生死」「カルマ」に関することはとくにそうだ。

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冒頭に書いたような、「その人が罪と思わないことはカルマにはならない」
ということを、霊的成長が未だ伴っていない原始的な本能だけで生きている「こころ」の育っていない状態にある人が耳にしたならば、

「じゃあ、どんなことをしても、罪悪感さえ抱かなければいいんだー」と思って、やりたい放題の人生を送ってしまうだろう。

実際はそういう意味では無いのだけども。

こうした教義の解釈は、その人の「こころ」の生育状態、人としての成熟度に左右されるので、聞く人によっていかようにでも利用されてしまう。

自分が犯した罪を振り返って反省せず、それがいかな罪であるのか・・・
相手にどれほどの傷を負わせ、人生を狂わせ、心を壊したものであるのか、
何故そのようなことをしてしまったのか、どうしてそのようなことをしてはいけないのか・・・それを十分に理解していないものが、

反省と悔恨をし、その咎の十字架を背負い、苦難を生き、十二分に贖罪の人生を生きることをしてきていないものが、その道を通ってもいないのに・・・自分の犯した過ちによって、相手がどれほどの苦痛と苦悩の年月を送ってきたのかも想像できないままに生き、自分が他者に与えた痛みや立場がいかほどなものであるかと、少しでも理解をしようと、似たような人生、立場を選んで生きたことすらも一度もなく、

もちろん謝罪もなく、

「お互いさま」の言葉を使うかのように、相手が自分のために喜んで命を捧げてくれたなぞと・・・そんな言葉は腐っても言っていい言葉ではない。

(そんな飾られた言葉で、自分が残虐に奪ってきた人の命を美化して、勝手に美談して語ってくれるな!あんたみたいな腐った考えの輩を生かすためだけに、この世が存在しているんじゃない!!)

自分がしてきたことを重々理解していれば、その罪をきちんと理解して、してきたことから多くを学べていたならば・・・

そんな言葉は出ようはずはないのだ。

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だからこそ、まだその段階にある人にとっては、「カルマ」は「業」であり、因果応報として、その身に起こる「目には目を」な、他人にしたことは何十倍にもなって、すべてその身に戻る。因果の法則として理解されたままでいいのだ。

グノーシスの教義たる真の叡智・・・スピリチュアルの高等な知識のその先は、「他者への思いやりや優しさ」を示すことの出来る、「罪」というものを知り、善と悪の何たるか・・・を知り得た、一定のレベル以上の人にしか、やはり開示してはいけないのかも知れない。

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相手を赦せるのか赦せないのか・・・

今の人生で起きたことなら、まず無理だろう。被害にあった側・・・自身や身内に過失があったとか、故意にではなく、たまたま相手が加害者側に立つような、偶発的な事故やトラブルでの悲劇的な死ならいざ知らず。

でなければ、怒りや悲しみを消化することは難しい。

そして、怒りは今生ばかりでは無い。生まれ変わっても、憎しみは続くし、悲しみも続く。痛みもずっとつきまとう。

この仕事を通し、過去生において、被害者としての過去を持つ人をはからずも何人か知ることとなった。加害者であった人の人生も同時に見たし、今の人生に良ろしくない影響を与えている、トラウマ、PTSDのような問題にも実際に触れてきた。理由なき感情の、その原因を作った事件などに。

またこのテーマ自体が、自分の過去との対峙であり、被害者当事者として、また犯罪被害者遺族の立場として、乗り越えること、向き合うことを示唆する内容だった。

新しい生を手に入れ、肉体を所有し、相手から受けた肉体のダメージは消えても、心のダメージは消えないままに、次の人生へと引き継がれていく。その心の傷が何故自分の中に存在するのかも分からずに、時にその傷ゆえに生き辛く、生活や人生に支障もきたして。

同時に「忘却」という時の彼方に癒されもするが、無意識に刷り込まれた「恐怖」は、なかなか消えず、理由なき感情的反応、悪夢となって人生を邪魔する。もちろん、いつかは癒えて、立ち直る日も来る。

が、「記憶」が薄れていくからといって、相手のしたことが消えて無くなるわけでは無いのだ。

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罪を憎んで、人を憎まずとは、人の云う・・・

その人そのものではなく、
その人の表したことを「よくないこと」として判断しなさいと。

何故なら、人は罪を犯すものだから。自分の罪を思い返す時、罪自体は赦すまじと思えども、その罪を犯した人々すべてを赦しなさいと・・・。

「無条件の愛」という言葉を私はあまり好きではないのだけども、
その反意語たる「条件付きの愛」という言葉を使わせてもらうならば、

被害者が加害者を赦せるかどうか、もしくは赦すことは出来なかったとしても、ある一定のボーダーまでは受け入れられるか否か、ということに関しては、加害者が何処まで過去を反省し、悔い改めて、過去の自分と決別し、どれほど変わることが出来ているか・・・に掛かっていると思う。

すべてはそこに尽きるだろう。

つまりは、そうなれば「条件つき」で赦せるというもの。

自分が犯した過ちがどういうものであったのかをきちんと理解し、被害者側の痛み、苦しみ、嘆き、喪失感などを受け止めて、自分が与えたそのような感情が少しでも想像できて、我が身のこととして置き換えて考えることができるようになっていれば、と・・・

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願わくば、他人の気持ちに寄り添えるようになっていて・・・・・・
ひとつの命の重さ、尊さ・・・をしっかりと理解し、自分以外の人間の価値を知り、それを尊重することができる人になっていて、

他人に優しさや思いやりを示し、人に親切に出来、世の中を良くしたり、社会に対して貢献出来るような、善人であれと・・・自分を捨てて他者のために生きられる人になっていて欲しいと、自分のことよりも、他人のために泣いて笑って怒って、見ず知らずの他人の幸せを喜び、決して前に出ず、奢り高ぶらず謙虚に、陰徳を積むような人になっていて欲しいと・・・

そうであれば、僅かばかりでも救われる。

被害者も加害者を憎む、
煉獄の炎から少しだけ楽になるのにと、思ったりする。

もちろん、されたことが無くなるわけではない。それですべてが赦せるのか? と言われると、絶対に…とは言い切れない。

言えているのは、相手が罪を犯した当時と変わらず、ロクでもない人物で、
似たような性格で昔と変わらずに考えが甘くて、同じようなこと繰り返していて、誰かに迷惑かけていて、思いやりも心もなくて、自己中で怠惰で、世の中なめて生きているようなヤツだったりしたら…

絶対に赦せないし、なんでこんなヤツのために自分の人生は台無しにされなくてはならなかったのか?とミジンコにでもなったみたいに、惨めになるばかりだ。

何でこんな人のためにあの時、自分は死ななくてはならなかったのか?

その時の自分の存在意義や人生、命を汚されたような気さえする。

一度ならず、二度までも殺されてしまったような最悪な気分で。

そう、今生においても相手の性根は少しも変わらず、最低最悪の心なき人物であったと知ったときのガッカリ感と憤怒と、魂を踏みつぶされたような空虚さときたら、半端ない。当時の傷を乗り越えるどころか、塩を塗りたくられて辛子をペーストされたような気分だ。

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だから、本当に・・・ただ、まっとうな人間にまさしく「生まれ変わって」いて欲しいと・・・本当にそれだけ切に願う。

相手が生まれ変わって、
その過去の忌まわしい記憶・・・自分自身を思い出さずとも、

まっとうな人間として、ちゃんとした人生を生きてくれれば、と。他人に迷惑をかけず、二度と罪らしい罪を犯さず、誰も泣かさず、人としての良心と真心を備えた、社会に貢献できる人であってくれれば、あとは二度とこちらを苦しめてくれるなと、それだけ。

今生の罪にせよ、過去生での自分の罪を思い出して悔恨するにせよ、自分が「生かされている」ことを罪の意識と共に心に刻み、自分が他者の命を踏み台にして、存在していることの感謝を、常日頃から絶対に忘れない人間であって欲しいと思う。

もし、過去の罪を悔い改める心あらば・・・自分の命や人生は自分一人のものであって、決して一人のものではなく、もし彼らの命、人生を奪った罪を少しでも理解するのなら、彼らが生きることの出来なかった人生、叶えること、成し遂げることの出来なかった総てを、他の人に与えるべく、自分の命を捧げて欲しい。

二度と同じ罪は犯さないと誓うのはもちろん、過去の自分と決別して、まっとうな人間として、成長して・・・立派な人間になり、多くの人を幸せにし、助けていくことの出来る人になって欲しい。

かつての過ちをすべて拭い去るくらいに善行を施して、その手が奪った命と同等、あるいはそれ以上の命を身を挺して救って、助けているような・・・
そんな人になってくれていたならば…

あの涙も、苦しみも、慟哭の日々も、憎しみと怒りの炎で身が焼かれるほどに憔悴して、哀しみの連鎖を生きたいくつかの人生も、気持ちの落ち着きどころを見つけて、成仏できようというもの。

願うのはそれだけだ。赦すとか、赦さないとかは、その後の問題。

総ては、今生から来世にかけての、その人の生き方次第だと思う。

どのようにその人が、「人」として成長し、他者のためになる、世の中のためになる人に育っていくのか。

その過程をしっかりと見つめて、その生き様に納得できたときが、相手を「赦す」ことができるときなのだと思う。

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ただ、赦されることを期待しないでほしい。それだけは絶対にしてはいけないことだ。罪を犯した側は、その罪がいかほどのものであるかを知ればこそ、その罪を赦してもらおうなどと考えてはいけない。

スピリチュアルな教えの中に逃げ道を求めてもいけない。

この世のルールに従って、自らを裁き、その身に咎を架し・・・罪と罰を受け止める覚悟がなければ、そこを乗り越えて通らなければ、スピリチュアルな教義の真の意味なぞ、到底理解出来ようもないのだから。

自分からは決して「赦して欲しい」などとは言わないでも欲しい。そのようなことを赦せずに苦しんでいる人に、絶対に求めないで欲しい。

あなたが被害者にならない限りには、決してその苦しみが判る日は来ないのだから。加害者は、被害者に、そして被害者遺族に決して言ってはいけない言葉というものがある。

本当に、まことに悔恨しているのであれば、絶対に、絶対に、加害者が口に出してはいけない言葉、してはならない態度というものもある。

それを知らずして、どうして「人」と言えようか?

私たちは、「神」に回帰するためではなく、
「人」になるために「人」として生まれて来た。

「人」としての"黄金のこころ"を所有し、それを磨き、ワンネスでは無い分離の状態にあっても、他人の痛み、悲しみを理解し、共有し、喜びや感動をシェアし、思いやりや優しさ、慈しみや労わりの心を表現し、自分自身にも周囲にも、愛を伝えるために生きている。

私たちが学ぶべきは「こころ」で、人としての「在り方」だ。

全能の存在になって、他者の憧れを集め、他人を思うがままに支配するために生まれてきたのではない。利己的な欲望を満たすために「人」として生きているわけではない。

愛を創造するために、私たちは生まれてきた。

「こころ」を通じて、愛を表現するために、愛を学ぶために私たちの人生がある。「こころ」無くして、どうして人が人としてありえようか?

人が人としてあるのに、最も重要なもの。それは愛であり、心だ。

思いやりや優しさを学べない人生なら、それを行動とし示していない人生なら、何度生きても、それは人生とは言えないだろう。

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さて、このテーマでも触れているように、太平洋戦争(第二次世界大戦)の戦没者、ホロコーストの加害者も被害者(ユダヤ人やレジスタンス)も、今の時代にはたくさん転生しています。

被害者はともかく、加害者側に関してはさすがに転生して違う人種、異なる人物になっているので、モサドの捜索の範疇外なんだろうけど・・・

まあ、確かに生まれ変わる前のことは関係ないというか、そこまで追求することが出来るのは、当人とその過去にダイレクトに関わったもののみ、だし・・・当然ながら今の関係でそこは考えるべきですが。

でも・・・もしも生き残りの人たちがいて、当時残忍な行為に関わった加害者側である人々が、生まれ変わって、何も自分たちは関係ない、罪なんて何一つ犯したことも無いって顔して、安穏かつのほほんと暮らしていたと知ったら、とても複雑でいたたまれない気持ちにもなると思うのです。

神に対して、「どうして?」と疑問をぶつけて、問いかけたくなるほどに。

しかも、そうした前世の記憶を所有していたり、何らかのアクシデント(忘れるのが恩寵だから)で蘇らせ、その罪を知ってもなお、悪びれもせず、反省のかけらなく、そんなの関係ねぇとばかりに、自分が一番大切でこの私を敬えとばかりに尊大で・・・人として少しも成長していないばかりか、罪を犯した当時と変わらず歪んだ自己愛だけを肥大させて、我儘で自己中心的で、周囲に迷惑をかけながら生きていて…

そんなのを知った日には、反吐が出てしまうことでしょう。悔しくて悔しくて、正義は行われず、悪は蔓延る一方なのかと・・・悲しくて虚しくて、やりきれないとしか言いようが無く、失われた同胞たちの血と涙を思い、色んな意味で裏切られたような気持ちになるかも知れません。

このテーマ、いったん終わりますが、書ききれないこともあるし、
未だ悶々と色々と考えてしまうところがあります。

追記:最近もちょっとね。とある人達に対して思うことがありました。

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