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自信を持つのは難しい

じしん【自信】
自分で自分の能力や価値などを信じること。
自分の考え方や行動(行為)が正しいと信じて疑わないこと。

精選版 日本国語大辞典

自分の能力に対する猜疑心…私自身が視ているものや感じることの出来るもの、世界などに対する疑いはだいぶ薄れて、大分それらを信頼することが出来るようになったものの… かといって、すべてを信用してしまうことに危惧を覚えないでも無いし、未だ完全に受け入れて委ねてしまうことには抵抗も覚えていたりする。

信頼する部分と客観的かつ科学的(論理的で現実的)に、批判的な見方を同時に持つことは必要不可欠なことだと思うし、「ifもしも…」と言う過程で考えた方が視野が狭くなったり、盲信からくる判断の誤りを犯さないで済むのではないか…とも考えるから。

あくまでも、そのように考えたり、解釈したり、その説を取った方が合理的で解決へと至るに近く、ピースに当てはまる答えを導きだすのに最適な早道であると思えるし、何よりも物事の辻褄が合う。
だから、その案(感覚)に従った方が、得策だ…

それ以外でも以下でも無いだろう。

何が正しいか間違っているかなんて、結局我々人間ごときには計り知れぬことだ。正しさも常識も時代や世相でいかようにも変わる。昨日まで正しいと信じられていたことが突然誤りだとされてしまうことも、過去には多々起きてきた。

今の科学で割り切れること、解き明かされていることが総てでは無いし、コの世にはまだまだ未知の世界がある。私たちは私たち自身に与えられた身体(脳)の能力さえ、使いこなすことが出来ていないし、宇宙全体のこともだが、私たちの住むこの地球のことでさえ、知らないことや解らないことばかりなのだから。

なーんて、小難しいことを考えていても仕方が無いのですけど。

「あなたは自分を信じているのかね?」

と言う問いに対して、「Yes!」とは言えないところにいるもんで。
自分の能力や価値に関しては…能力はそこそこあって、自分の特技たるその能力に価値を見出してもいるし、この仕事に関しても、価値のあることをしていると…自負は出来ているものの…
なんとなく言い澱んでしまう、言い切れない部分に関しては…
「徐々に出来るようになった」と言う、上に登るような段階を踏んでの今では無くて、むしろ「昔出来たことが出来ない」と言う、「出来なくなった感」がとても強いからかも知れない。

はい、子供の頃にはナチュラルに出来たことが、ある日突然出来なくなってしまった。多分そのことが大きいですね。

昔自由自在に出来たこと…幽体離脱なんかはね…頭の中のぼんの窪あたりにキュッと意識を集中して、そこから出るんです。するっと…こうやって出た時は、壁とか簡単に通り抜けることが出来る。もちろん重力なんかお構いなしで、ふわふわと空を飛ぶことも出来るし、一瞬にしてあちこち移動できるわけですよ。隣の部屋や家の外、屋根の上、あちらこちら行きたいところに。面白いし、楽しい。いまいる場所も解るし、寝ている自分の身体も同時に解る。ゴム紐みたいなので繋がってて、戻るときは一瞬。それに引っ張ってもらえばいいから。

夢と違って、身体の感覚もちゃんとある。ゼラチン質みたいな、面白い質感。軽いけど、身体のかたちがちゃんとあって、重さも無いわけではないっていうのかなあ。今思うに、それはサイキカル体なわけですが。

身体から抜け出して、自由自在におさんぽが楽しめる、夜が来るのが毎日とても待ち遠しかった。
でも、いつからか上手く出来なくなっちゃったんですよね。たまに意図せず、抜けてしまうことはあったけれども、天井で引っかかっちゃって、前みたいに通り抜けることが出来ず、臨死体験みたいに寝ている自分を見下ろすだけで終わっちゃって。

なんで出来なくなっちゃったんだろう。私にとっては自転車の乗り方を忘れてしまったような、そんな感覚です。逆上がりが急に出来なくなってしまったような…そんなところ。

視ているものに対して、100%肯定出来ないのも、そう。昔と同じような視え方では無いから…というのがありますね。

昔はそこにあるものと同じに視えたわけですから。ようするに、頭の中に視えるのでは無くて、この目でちゃんと視ていたわけです。そこにあるものとして、現実世界の物質と同じに捉えられる形で。
霊やエレメンタルに関しても、生きている人や生き物などと同じ存在に視えたし(間違えてしまうというか)、三次元の存在と区別がつかなかった。
過去や未来の映像にしてもそうです。実際に視たり、体感してた。
起きている状態で、目を開けている状態でね。目(視界)に映るものとして…
過去に関しては、タイムスリップしたみたいな感じで、取り巻いている空間も景色も360度そこになっちゃって、自分がそこにいるって状態(体験)で体感してた。未来に関しては、頭の中に映像で観させられることもあったけど。

他人の家の中も透視することは出来たし、頭の中の考えも心の声も読むことは出来た。良くないものが近づいてくるときは空気が変わるから、それがよく解ったし、それらを追い払うのに他人に助けを求める必要はなかった。自分の氣の力を圧縮したり広げたりすることで、ちゃんと対処出来てたから。

でも、ある日突然に出来なくなってしまった。
肉眼で、目を開けたまま、リアルにそれらを視ること、話をすることも何もかも出来なくなってしまった。もちろん「もう視たくない」「聞きたくない」って目や耳を塞いでしまったのは、誰でもない私自身なんでしょうけど。

今はまあ…頭の中で視ているだけですし。クライアントさんにも視てもらって、他人も自分と同じものを視ているってことで確認(安心)して、それで「間違いではないんだな」と精査する形をとっていたりする。
だからまあ…心の目で視ているものを「疑う」ことは、徐々に無くなってはいるのだけども。

でも…昔の自分と比較して…いやさ昔出来てた自分を知っているからこそ、「自分だめぢゃん!」って思ってしまうわけですよ。
何も出来てないとは言わないけど、この程度のことしか出来ていないのに「出来ているとは言えない」と思ってしまうわけ。自分の仕事を中途半端というか、まだまだ未熟者というか、そこまで価値のある能力を所有していると自分を評価出来ないのですね。認められないって言うのかなあ。

「この程度のことしか出来てないもんな…」って。

色んな事に対するアプローチとしては、ガイドさんたちにお願いしてやってもらっているのが実状ですし。

念写とかスプーン曲げとかは出来ませんでしたけどね

でも、まあ…その代わり、人間力?って言うのかな。それはまあ、育てられたとは思います。経験値みたいなものは身に付きましたよね。出来ない子なりに、知識とかスキルはそれなりに頑張って習得したかと。

最初から…出来ないでいたならば…普通からのスタートだったなら、今自分が出来ていることを素直に価値ある能力と受け止めて、評価も出来たんでしょうが。今の私は子供の頃に出来たことの半分のことも出来ない。いやさ、半分よりももっと下、五分の一? いや十分の一かも。

歯がゆいですよ。視えなくなった目、聴こえなくなった耳。出来なくなったいろんなあれやこれや。

うん。両手を失って、足でそれを代用していたような、そんな気分。まあ、それはあくまで例えで、能力は部位では無いけれど…失くしたものがあったことには違いない。まるで羽をもぎとられた鳥のようなもので。

とは言うものの、逆にずっとそれらを有していて、使えていたならば…どうだったろう。そのままで行っちゃって、他の学びをしなかったかもしれない。慢心さに溺れて、生意気な子供のまま、大人になって、クライアントさんの立場や心に寄り添わない、上から目線のエラソーな人間になっていたのかも。実際、そんな人生もあったから。

一人の人間としての成長の機会を得られたり、様々な仕事をする機会を得られたり…一人で生きる力や世間のこと、社会性を養ったことは無駄では無く、むしろ必要な経験だったし、幼少期からその道に秀でていて進んでいたならば、そういう機会を逃していたかも知れないな…とも思ったりする。
まあ、この道に進むことをずっと拒絶し、抵抗していたわけだけれども。

とりあえず、私自身の個人として、人としての問題点を矯正するためには、これまで経験してきた挫折や失敗や恥、回り道などは必要なことだったというわけだ。

いずれにしても、それまで出来ていたことが出来なくなったり、解っていたことが解らなくなったり…な、他人とは共有出来ないこと、他の人には理解されないことを抱え込んでいたせいで、出来た経験もたくさんあったし、学んだことや身に付いたことがたくさんあったということ。これは貴重だろう。その意味では、その経験こそが唯一「信じられる」ものかも知れない。

そして、そこに例えようもない価値と意味を見出すことも出来る。

自信を持つことが出来るとするならば、その点であろう。

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