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色彩は、世界は、容赦がない

どうかこれが、己自身にも、何かの慰みになったらと、祈っている。

気が付いたら生きていて、気が付いたら憂鬱だった。
初めに思ったのはぬいぐるみのごわごわとした不思議な感触と光に透けた障子の繊維がとてもうつくしく、台所の窓から降る真昼の明かりが見事な金色、銀色、その光たちが狭い家を、光の届く範囲のものの輪郭を悉く染め上げて、影を濃く、長く伸ばしたことだった。そして、焼き付いた母の背。
世界はあまりに煌いていて鮮やかで鮮烈だった。
僕には鮮やか過ぎた。押し潰されて、身動きすら出来なかった
それから、僕はずっと憂鬱だ。
だって母は殴るし引っ張るし怒鳴る、物事をきちんと説明もしてくれない。
父はそも家にいないし、子供心に状況とプレッシャーに正気でなかった。
祖母は優しかったけれど、おばあちゃんと孫でしかなかった。僕はもっと仲良く、分かり合いたかったけれど。
祖父は陽気で活発だったけれど、小心故に怒鳴るし沢山酒を飲むからあまり距離をつめることは出来なかった。
曾祖母は僕の気が大きく狂う頃いなくなってしまった。
父方の家族は母の苦手意識もあってあまり近くなれなかったように思う。悪く言われたり、苦手だと言われると支配下に置かれた素直な子供はどうしてもうまく身動きがその人物に(勉学などの事象などにも)対して取れないというか、取らないようになる気もする。馬鹿正直な自分は後ろめたくて仮面を取ることもできなかった。
弟妹は気が狂った後に、猫は諦めきった頃に来た。
友人はいた。自分には勿体無かったとすら思う。

つまるところ、僕はあまりにも孤独だった。
それを共有したり、適切な詮索をしてくれる人間がいなかった。
でもそれは自分のせいでもあった。蒙昧な幼いころの自分は、世界の人間がこの息も詰まるような劇的なうつくしさの奔流、宝石窟であり星雲の中で生きていると、皆気が付いた時から死にたいのだと、万物は己を超越し、己は足元にも及ばず、己は人間ですらない恥知らずの人間モドキの幼体としてお母様お父様に育児ごっこの為に飼われ、愛玩動物のように使って頂いているのだと思っていたのだ。己の未熟な感性も思考も稚拙故に理解された上で否定されていると思い込んでいた。

どうやらそうではないらしいと、気が付いたのは着たくもなかった振袖に袖を通した時だったか。兎に角、急に大人になれと言われるあの時だ。
どうやら、違うらしい。普通蹴られたり、殴られたり、引っ張られたり、嗤われたり、無下にされたり、そういうことは常ではないらしいのだ。

憂鬱だった。気が狂って、崩れ続けて、遂に壊れてしまった。必死に掻き集めているのを指差された。それが僕の現実だった。

だけど、いつも月は昇った。星は瞬いた。木々は騒めいた。花は咲いたし、夕暮れ時、黄金に川が煌いていた。
紅葉しようとする盛りの際の木々の呼吸、木陰が育てた豊かな土、実ろうと朽ちようと支度をするあらゆる草花、空へ帰る途中の小さな水の子達を吹き下ろす風が濃厚に丁寧にブレンドして秋と名付いている「味」という、何とも暴力的なものを惜しげもなく提供してくる。
胸にはとめどなく郷愁が湧いている、襲ってくる。
息も出来ないそこに、黄金の輝きで跳ね、遊ぶ川がある。
水面の黄金、光の大きな性の銀、緑を孕んだ影、活きた白の化粧。壮大、しかし決して騒音などではない流水達の斉唱、絶妙な陰影の岩々、ゆらゆらと微睡む背の高い草たち、機嫌の良さそうな葉達の内緒話、愛すべき澄んだ水の香り。
涙が浮かんだ頃に、そう、もう秋なのだと思い知らせるものたちが飛び交っている。
黄金を弾いて、水面のように。瞬き始めた星のように。静かに熱い線香花火が終わる、あのか細い光線のような速さで。
番う、沢山のアキアカネが飛び交っている。

どうしようもないのだ。動けない、圧殺される。
肉眼に脳に肉体に神経に、もう兎に角僕と言うあらゆるものを殺す様に世界はうつくしいのだ。
例えば月光の青銀が、例えば朝靄の遠景が、青々とした葉に乗った露鏡が、透き通った乙女の頬の桜たち、若草のあたたかな香り、冬の遠い白い香り、気付きのペトリコール、秋虫のコンサート、快活な子供たちのはしゃぐ声、急いで去ってゆく電車、不意に鳴く夜明けの鳥たち、幽かな虎落笛、硬質な脆い霜、打楽器奏者の雨、とろりとした硝子細工の冷たい優しさ、透ける様な紙、まんまるのプラスチック、少し驚くような陶器の椀の底、極上の布のような花弁、存在を実感する流水の抵抗――――。
どうして、涙を流さずに。
どうして、苦しまずに。
どうして、それを素通りして。
ああ、生きることが出来るだろうか。
世界はこんなにうつくしい、世界はこんなに鮮やかだ。
色彩は残酷なほどに胸を裂いて切り付け、刻み付けてくるというのに、背筋を正して「まとも」に生きれる筈もなかった。
色彩の多さに絶望する、出血が止まらない。胸が痛い、頭が痛い。
溢れかえる極彩、飽和した脳は世界を遠ざけて、実感という手段を僕から奪ってしまう。努力すれば嗤った母親のように、例えそれが本人からの他愛もない慈しみだったとしても、そうして少しずつ手足を奪われたように。
生きれば生きるほど、うつくしいものは増えて、僕は世界に沈んで浮き上がれない。

色彩は、世界は、容赦がない。
僕はどうすればいきてゆけるのだろう。
僕はどうすればここから出られるのだろう。
どうすれば、これを無下にせずにいられるのだろう。

偽るのも、演じるのも、誤魔化すのも、嘘を吐くのも、もういい。
うつくしいからうつくしいと、いとおしいからいとおしいと言いたい。
僕はせめて、あらわすことだけでも解放されたい。
もう縛られるのは、嫌だ。

そうして、出来ればこの言葉を、誰か、貴方へ。
何らかの認識を得ることによって、改めて見てほしいと思う。

世界は本当にうつくしい、色一つとっても、すべて。


きっとこれは、悪い事じゃないと願っている。
貴方に、どうか。

#エッセイ #散文 #心 #感情 #生きづらさ #夕焼け #自然

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