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荒涼館は名作だけど……岩波文庫の訳が読みづらい

 チャールズ・ディケンズの小説『荒涼館』(Bleak House)は、昨年読了した。大江健三郎や筒井康隆などが口をそろへて名作だと言ってゐて(筒井康隆『読書の極意と掟』講談社文庫)、私も高い期待を寄せてゐた。小谷野敦も名作として挙げてゐる(『「こころ」は本当に名作か』新潮新書)。だから私は地元の本屋で岩波文庫版を買ひ、挑んでやらうと決心した。
 しかしはっきり言って難儀、ものすごく読みづらかったのである。これはなんでだらうと思ひ、今度は旧訳のちくま文庫版を読んでみたら、ものすごくおもしろい。
 そこで両者をくらべてみたら、岩波文庫の佐々木徹の訳が凝りすぎて堅苦しくなってゐることに気がついた。
 だからこの記事では絶対ちくま文庫版をおすすめする。しかし、まづは公平にどちらの長所も短所もとりあげておかう。

ちくま文庫版の長所/短所

○訳がこなれてゐて読みやすい
△挿絵がない
△地図がない
△登場人物一覧がない
△文庫をまたぐときの簡潔なあらすぢがない

岩波文庫版の長所/短所

△訳が凝りすぎて堅苦しく読みにくい
○挿絵がある
○地図がある
○登場人物一覧がある
○文庫をまたぐときの簡潔なあらすぢがある

 かう列挙するとなんだか岩波文庫のほうがいいのではと思へてくる。
 しかし、訳はなににもましてきはめて重大である。挿絵も地図も登場人物一覧もあらすぢも、すべて付属品でしかない。と口を酸っぱくして言ったところで「なんだかなあ」と伝はらない気がするので、例を挙げる。

「え!」ガッピーさんはあっけにとられておっしゃいました。「それは受諾を意味するのでしょうか、それとも拒絶ですか、あるいは考慮中ということで?」
「はっきりいいますと、断固たる拒絶です」
 ガッピーさんは信じられないという表情で、おともだちと、突然不機嫌になられたおかあさまと、床と、天井を順番にごらんになりました。
「なるほど。おい、ジョブリング、歓迎されないところにかあさんをおいとくわけにはいかん。おまえ、おれのほんとうのともだちなら、かあさんを退廷させてやってくれないか」
 ところが、おかあさまはいうことをきかず、どうしてもいやだと強くこばまれました。そしてジャーンダイスさまに、「ちょいと、ひどいじゃありません? どういうことなんです? うちの子じゃ不足だっていうの? 恥を知りなさい。ででおいき!」とおっしゃいました。
「おくさん、ここはわたしのうちです。そこからでていけというのは理不尽ではないでしょうか?」
「知りませんよ、そんなこと。でておいき! ガッピー家が不足なら、でてってだれかいいひとをさがせばいいでしょう。さっさとそうなさい」
 あれほどうれしそうにしておられたおかあさまが、うってかわってひどく立腹されたので、わたしはおどろいてしまいました。

岩波文庫版『荒涼館 4』「第64章 エスターの物語」

「ええっ!」ガッピーさんはぽかんとした顔をして、「これはいったい、承知の意味と了解すべきなのですか、それとも断りの意味ですか、それとも考えさせて下さいの意味ですか?」
「はっきりとお断りの意味です!」
 ガッピーさんは信じられないといった顔で、お友達を見、床を見、天井を見、それからお母さんを見ました。お母さんは急に怒り出しました。
「そうですか。それじゃジョブリング君、友達がいにお母さんを連れ出すのに手を貸してくれや。お母さん、頼まれもしないのに、ここに居つづけたってしようがありませんよ」
 ところがガッピー夫人は断固として出てゆかないというのです。だれがなんといおうとだめだというのです。
「おい、ちょいと旦那! どういう了見なんだい? うちのせがれじゃ役者が不足だっていうのかい? 恥を知るがいいや! さっさと出てうせろ!」
「奥さん、ここは私の部屋なのですから、出てうせろといわれても無理ですよ」
「そんなことかまやしないよ。出てうせろ! もしあたしたちで役者が不足だっていうんなら、どっかへいって立派な役者を連れて来るがいいや。さあ、いって連れて来い!」
 さっきまであんなに愛想がよかったガッピー夫人が、こうも急転直下憤激に変るとは、私は思ってもいませんでした。

ちくま文庫版『荒涼館 4』「第六十四章 エスタの物語」

 まったく印象がちがふではないか。私には明かに後者のほうがいいとしか思へない。前者の訳では骨抜きだ。
 なにより、岩波文庫版のエスターの文章では漢字をひらがなにひらいてゐて女性っぽさを出さうとしてゐるが、いささか読みづらい。ここはアマゾンレヴューでも指摘した人がゐた。

登場人物の一覧、ロンドン地図、原著初版の挿絵を使うなどは大変うれしい。

しかし、なぜ主人公のエスタの一人称で物語が進むときに、漢字の熟語をひらがなで表記しているのか?訳が分からない。
「ここに滞在しているあいだはなんのめんどうも」
「お金のしんぱいも」
「しごとにとりくむことができません」
試しにp171だけでひらがな表記が連発である。全編を通したらもう読めるものでもない。

岩波文庫は民衆のために創刊したのではないのか。訳者の自己満足な訳のためにあるのか。

ひらがな表記に文学的な芸術性があるという考えなら、そう説明すべきだ。
岩波文庫は大好きだが、今回はちくま文庫訳の荒涼館のほうがいいと思う。

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よんでてほんとうに話がながかった。でも、ただながいばかりでなくて、ちゃんとたのしい。たのしいけど、ながい。ディケンズはほかのもだいたいこれくらいのながさなので、ディケンズをよむのはあるいみ体力勝負だとおもいました。
へんなひとがたくさん出てくるのが醍醐味で、わき役でもそのひとが出てくるとほんとうにたのしくなります。
ほかのひともかいていますが、サマソンさんが語ってきかせる章でのひらがなは、ここでも両論あるようですが、ぼくには残念ながらよみにくかったです。はやくよめたっていっている人は、ぼくのこの文章もよみやすいとおもうんでしょうか。ちょっとしんじられません。サマソンさんだけではなくて、その章ではなすぜんいんがこのかきかたなのでなかなかたいへんでした。それと、ひらがなにするいみですが、サマソンさんは設定じょうはべつに教育に欠如があるというのでもないし(チャーリーがかたるならまだしも)、ナレーションのちがいはすでにですます調でくべつされているし、ちょっとそこがなんでなのかふしぎでした。

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 これは訳を凝りすぎて解りづらくなり、小説の魅力も半減してしまった例である。
 ほかにも、

悪臭は一時激甚の域に達し、J・G・ボグズビー氏雇用下の喜劇歌手スウィルズ氏自ら記者に語ったところでは、ボグズビー氏監督のもとジョージ二世陛下の法令に従ってソルズ・アームズ亭において開催されていると思しき「音曲の集い」あるいは「音曲の会合」と称せられる一連のコンサートにおいて歌唱を披露すべくやはりボグズビー氏雇用下にある、相当の音楽的才能を誇るM・メルヴィルソン嬢に対して、スウィルズ氏は自分の声が大気の不純な状態によって深刻な被害を受けていると陳述したほどである。同氏は当時の体調を「肥料のなくなった田んぼだよ――コエナシさ」と剽軽に表現した。

岩波文庫版『荒涼館 3』「第33章 侵入者たち」

〔…〕一時はその臭気が余りにも強烈なため、J・G・ボグズビー氏に専門家として雇われている道化歌手のスウィルズ氏が本紙記者に語ったところによれば、スウィルズ氏はM・メルヴィルソン嬢に向って――同嬢は同氏と同じくJ・G・ボグズビー氏に雇われて、ジョージ二世法令によりボグズビー氏の監督下に「日輪亭」で催されているらしい、「音楽の集い」または「音楽会」と称する連続コンサートで歌っており、自分の音楽の才能をかなり自負している女性である――空気が不潔なために自分(スウィルズ氏)は声をすっかり駄目にしてしまった由で、その時使った同氏のおどけた言葉は次の通りである。「おれはからっぽの郵便局みたいだよ、だっておれには手紙(ノート)一つないものな」

〔注釈〕原語noteの別の意味「(音符のあらわす)音」にかけたしゃれ。

ちくま文庫版『荒涼館 3』「第三十三章 侵入者」

 どうだらうか。ぱっと見て岩波文庫版の《肥料のなくなった田んぼだよ――コエナシさ》のしゃれがわかっただらうか。
 私はわからなかった。ていふか、突然この文が出てきて意味不明だった。ちくま文庫版の注釈を見てやうやく「肥無し=声無し」だと気がついたのだ。
 要するに、岩波文庫版には注釈がないので、そっけないはずのちくま文庫版よりギャグがわかりにくくなってゐるのだ。翻訳者の柳瀬尚紀や佐藤良明、若島正のやうにわざわざ英語のギャグを日本語にうつしかへるのは結構だが、はたしてそれがどれほど效果を上げてゐるのか、私には疑問である。

 さて、ここまで読んでちくま文庫で読んでみたけど、やっぱり読みづらかったといふ人がゐるかもしれない。
 しかしそれはもうディケンズの作品自体、あなたには向いてゐないとしか言へないのである。
 実際、私も恐しく長大な社会派エンターテイメントの『荒涼館』を読んでかなりじれったく感じ、いくぶん尻込みした。なんど残りの頁をぱらぱらめくって、こころのなかでため息をついたことか。まあ大半は訳文のせいで、最後の巻にさしかかったところで思はず投げ出しさうになり、ちくま文庫版に手を出してみたら、なんとすらすらと夢中になって一日で読み終へてしまった。いままで何ヶ月もかけて岩波で読んだのはなんだったのか。さういへば大江健三郎も筒井康隆も小谷野敦もみな、ちくま版で読んだのである。後悔した。
 ツイッターでも似たことをつぶやいた人がゐて、おほいに共感したものである。

 が、じれったさのある程度は、やはりディケンズのくどくどした語りのせいもある。
 私は最近、大岡昇平の『現代小説作法』(ちくま学芸文庫)を読んでゐて、そこにディケンズについてかう書いてあった。

 よかれあしかれ、小説が現実の模写を志すかぎり、こういう部分は不可避なので、現代でも新聞や週刊雑誌の小説の大部分がこういう場面で埋められています。作者に時間がなくなったり、あるいは定められた枚数を埋めるために、「今日は」とか「しばらくでしたね。お変りありませんか」とか、無意味に近い会話で行を変えるのはしょっちゅうです。あるいは先の趣向が立たない間に合せに、主人公なり女主人公なりを、乗り物へ乗せてしまうなどという手段も行われるので、新聞や雑誌の連載物が一冊の本になると、とかくだらだらした読物となってしまうのは、このためです。
 これはなにもわが国に限ったことではなく、ヨーロッパにも十九世紀に中頃からあったことは、前にも引いたモームの本に書かれています。
「出版社は流行作家の小説を何回かに分けて毎月連載して行くのが得策であることを知った。(略)こうした連載物の作者たちが、中でも一流のディケンズ、サッカレーといった連中さえもが、一定の期日までに一回分の原稿を渡さねばならぬことを、時に呪わしい重荷と考える場合があったことは、彼ら自身が告白しているところから明らかである。そうだとすれば、彼らが作品の執筆に当って水増しを計ったのも不思議ではない。本筋と無関係な挿話をむやみやたらに詰め込んだのも不思議ではない。〔…〕」

 なるほどと膝を打った。
 前回の記事にも引用した大江健三郎の「文芸時評」で、大江が《出版社がこちらは利潤をあげる場合もある単行本を作り出す意図で、細切れの長編を永ながと連載するのと並行して、多くの短編が月々掲載されること。その慣行が、わが国の短編の水準を高めるとともに、欧米では一般的な書き下ろし長編を例外的なものとしていること。》と言ってゐた底意に、私はすこし気がついたのである。連載といふやり方も、今後はよくよく考へねばなるまい。

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