チャールズ・ディケンズの小説『荒涼館』(Bleak House)は、昨年読了した。大江健三郎や筒井康隆などが口をそろへて名作だと言ってゐて(筒井康隆『読書の極意と掟』講談社文庫)、私も高い期待を寄せてゐた。小谷野敦も名作として挙げてゐる(『「こころ」は本当に名作か』新潮新書)。だから私は地元の本屋で岩波文庫版を買ひ、挑んでやらうと決心した。
しかしはっきり言って難儀、ものすごく読みづらかったのである。これはなんでだらうと思ひ、今度は旧訳のちくま文庫版を読んでみたら、ものすごくおもしろい。
そこで両者をくらべてみたら、岩波文庫の佐々木徹の訳が凝りすぎて堅苦しくなってゐることに気がついた。
だからこの記事では絶対ちくま文庫版をおすすめする。しかし、まづは公平にどちらの長所も短所もとりあげておかう。
ちくま文庫版の長所/短所
○訳がこなれてゐて読みやすい
△挿絵がない
△地図がない
△登場人物一覧がない
△文庫をまたぐときの簡潔なあらすぢがない
岩波文庫版の長所/短所
△訳が凝りすぎて堅苦しく読みにくい
○挿絵がある
○地図がある
○登場人物一覧がある
○文庫をまたぐときの簡潔なあらすぢがある
かう列挙するとなんだか岩波文庫のほうがいいのではと思へてくる。
しかし、訳はなににもましてきはめて重大である。挿絵も地図も登場人物一覧もあらすぢも、すべて付属品でしかない。と口を酸っぱくして言ったところで「なんだかなあ」と伝はらない気がするので、例を挙げる。
まったく印象がちがふではないか。私には明かに後者のほうがいいとしか思へない。前者の訳では骨抜きだ。
なにより、岩波文庫版のエスターの文章では漢字をひらがなにひらいてゐて女性っぽさを出さうとしてゐるが、いささか読みづらい。ここはアマゾンレヴューでも指摘した人がゐた。
これは訳を凝りすぎて解りづらくなり、小説の魅力も半減してしまった例である。
ほかにも、
どうだらうか。ぱっと見て岩波文庫版の《肥料のなくなった田んぼだよ――コエナシさ》のしゃれがわかっただらうか。
私はわからなかった。ていふか、突然この文が出てきて意味不明だった。ちくま文庫版の注釈を見てやうやく「肥無し=声無し」だと気がついたのだ。
要するに、岩波文庫版には注釈がないので、そっけないはずのちくま文庫版よりギャグがわかりにくくなってゐるのだ。翻訳者の柳瀬尚紀や佐藤良明、若島正のやうにわざわざ英語のギャグを日本語にうつしかへるのは結構だが、はたしてそれがどれほど效果を上げてゐるのか、私には疑問である。
さて、ここまで読んでちくま文庫で読んでみたけど、やっぱり読みづらかったといふ人がゐるかもしれない。
しかしそれはもうディケンズの作品自体、あなたには向いてゐないとしか言へないのである。
実際、私も恐しく長大な社会派エンターテイメントの『荒涼館』を読んでかなりじれったく感じ、いくぶん尻込みした。なんど残りの頁をぱらぱらめくって、こころのなかでため息をついたことか。まあ大半は訳文のせいで、最後の巻にさしかかったところで思はず投げ出しさうになり、ちくま文庫版に手を出してみたら、なんとすらすらと夢中になって一日で読み終へてしまった。いままで何ヶ月もかけて岩波で読んだのはなんだったのか。さういへば大江健三郎も筒井康隆も小谷野敦もみな、ちくま版で読んだのである。後悔した。
ツイッターでも似たことをつぶやいた人がゐて、おほいに共感したものである。
が、じれったさのある程度は、やはりディケンズのくどくどした語りのせいもある。
私は最近、大岡昇平の『現代小説作法』(ちくま学芸文庫)を読んでゐて、そこにディケンズについてかう書いてあった。
なるほどと膝を打った。
前回の記事にも引用した大江健三郎の「文芸時評」で、大江が《出版社がこちらは利潤をあげる場合もある単行本を作り出す意図で、細切れの長編を永ながと連載するのと並行して、多くの短編が月々掲載されること。その慣行が、わが国の短編の水準を高めるとともに、欧米では一般的な書き下ろし長編を例外的なものとしていること。》と言ってゐた底意に、私はすこし気がついたのである。連載といふやり方も、今後はよくよく考へねばなるまい。