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漠然とした死への渇望と考察


Twitterにとある動画を投稿しました。 
それは2020年に自殺を謀った場所で、今の恋人に救われた、と言った内容です。 
動画↓
https://twitter.com/Y142P/status/1507341874952286208?t=aq9eECC-Ucp334tu6B8-5A&s=19

これは、自殺しようとしたその日に、
自宅に帰ってから書き殴ったもの。
その時太宰治読んでたからな…

いつからだろう。死ぬ事について、淡々と考えるようになったのは。
元来垢抜けた性格では無かった。どちらかと言えば、黙って耐え忍び、その場の空気を読んで愛想笑いをする様な…可愛げの無い人柄だったと思う。

何故こうなってしまったのかを、詳細事細かに説明するとなると骨が折れるので割愛するが、他人が思う最悪の状態の大凡は経験があると言える。

特に私を苦しめたのは、この忌々しい褐色の肌だ。
一目みただけで異国の者だとわかるこの色を好ましく思う事は、恐らく墓に入ったとしても有り得ないと断言出来る。

4歳まではネグレクトをされ、来日した5歳からは酷い差別を受けた。両親は小学2年生の頃に離婚。その間も虐めを受け、時には命に関わる事もあった。新しい父親となる男からは酷い暴行を受けていたが、それは家を出る19歳まで続いていた。学校に味方はおらず、詰られいたぶられ、虐められ、レイプをされ、裏切られ、助けてくれる大人も居なかった。食事さえもまともに与えられない環境で毎日奴隷の様に生きていれば卑屈で臆病な自己肯定感の低い人間が出来上がっても可笑しくは無いだろう。

あなたよりも苦労している人が居る、と人は言うが、私の苦労を理解する事も出来ないのだから黙っていろと常々思う。下を見て安心しろとでも言いたいのだろうが、まるで見当違いだ。

から笑いが出てしまうような人生を送っていた私は当たり前のように複数の精神病を患い、人格解離や躁鬱、不眠、不安障害等を同時に抱え気が付けば人として最底辺の生活をするようになっていた。

堕落し、閉じこもり、疑心暗鬼になりながらも誰かに認めて欲しくて自己犠牲を繰り返し、利用され捨てられる。そこから歪み、大切なものすら手から離れてしまった。それも乗り越えられたつもりでいたが、根底にある闇は中々払拭できず、笑顔を作り、人にとって都合のいい人間でいる事ばかりが上手くなった。

思えばあの頃の「死にたい」は形だけのものに思える。子供の駄々のようなもの。生きたくないから、死にたい。傷付きたくないから、死にたい。
 
生きる事を辞めたい、と言うよりは「消えたい」という言葉の方が適当だったように思う。ただ忽然と存在を消してしまいたかった。私という痕跡を消したくて仕方がなかったのだ。私さえいなければ…では無くて。
 私はいなかった。そう思いたかったのだろう。
 
 時は流れ、もうすぐ三十路になろうとしている。
痛烈な自殺衝動ではない、漠然とした「終わり」を渇望する心が芽生えた。

長くなったが、これからが本題となる。
今日は少しツイていなかった。前回ブルーブラックに染めた髪は色落ちして緑になり、黒染めしようと思った所に「清楚感のある髪に」と言われたので、癖の強くなってしまった髪を渋々美容院で縮毛矯正を掛けたのだ。液剤のせいで、更に色が抜けて新しい仕事場では受け入れ難いハッキリとしたアッシュグリーンになってしまったので黒染めをしたいが自分でやると失敗するし、どうしようかと考えあぐねていた。健康診断も自腹を切らなければいけないのに新しい職場の制服も自分で購入しなければならず、食費をゼロにしても首が回らないと言った状況だ。
だが、それ等が死にたいという気持ちに直結するかと言えば、全くもって否だと断言出来る。こんな事はよくあるし、嘆く事だが何とかなる希望もある。

本当に、今日はなんでもない日のはずだったんだ。
死にたいなんて、そんな事思っていなかった筈だった。
 
 よく、死神に惑わされた、と言った表現を聞くことがあるが、死神というものが存在すると思った事は無い。
非現実的な事に関して理解はむしろある方で、世間で言うスピリチュアルな世界にはどっぷりと浸かっている。
それでも、死神とは?と聞かれれば、人間だと答えるだろう。
人を殺すのは何時だって人間だ。今でもそう信じて疑わない。病原菌が萬栄している世界でこんな事を言えば目くじらを立てて批判してくる輩が多いだろうが、私にはそんな事は関係が無い。
免疫力が無くて死ぬ。不摂生から死ぬ。対策をせずに死ぬ。生きるか死ぬか、その境を決めるのは結局人間自身の行動に起因する。
だから、死神の迎えというものにはあまり…ピンと来ない。

そんな私が、今日初めて死神と遭遇したような気がする。
意味もなく自転車を漕いだ夜道。
偶然みつけた、人が2人すれ違える程度の細さの歩道橋。下には数車線分もある線路。
薄暗い街灯がぼう、と階段を照らし、少し雰囲気のある場所。飛び越え防止のフェンスはせいぜい、1.5メートル程あるかないか。…正直ここで自殺があったと言われても驚かない。
少し歩くだけでグラグラと揺れる錆が目立つその場所を、汗を垂らしながら自転車を押して登った私は、暫く自転車を止めて路線を見下ろした。

夫婦やサラリーマンやOL、ランニングする人が反対側に向かうのに行き交う。
よく使われている場所らしい。ここに住んで一年以上経つが、初めて知った。

ヘッドホンから流れる音楽が心をどんどんと仄暗く沈めていく。
私の中の何かを、得体の知れない存在が撫で付けたような、そんな気さえした。

きっと、これが"死神"なんだろうな。
 
 カタンカタン、と電車が過ぎるのを私は何度目で追ったのだろう。
写真を撮り、動画を撮り、人と目が合っては意味ありげに伏せ、また動画を撮る。
無理もない。特に何も無かったんだ。何も無いのに、今の私は死のうとしている。静かに、淡々と、当たり前のように、死のうと思っていた。
ここから身を乗り出せば、私の投げ出された身体は鉄の線路に打ち付けられ、金切り声を上げる電車にズタズタに肉を引き裂かれ救われる余地も無く絶命する。
 
 「なんでかなあ」
 
純粋な疑問が私の口から零れた。美容院を出てから初めて漏らした言葉かもしれない。数時間前まで、明日の仕事の手続きの為の書類を集め、来週始まる勤務のために黒染めの液剤を購入して、生に執着していたのに。
今週は好きな舞台を見に行く。来週は好きな友達が会いに来る。それなのに。それなのに。
 
 「今だよなあ」
 
ぼんやりとした口調で、焦点の合わない眼差しでそんな事をぼやいている。こんな漠然とした自殺衝動は初めてかも知れない。まるで何も不愉快じゃなかったから不思議で仕方がなかった。

頬を撫でる風は程よく涼しい。空は晴れて、星がよく見えた。遠くに見える駅前のビルの光はまるで蛍のように浮かんでいて美しかった。
 
 だから、死ぬなら今が丁度いいと思った。

心から思ってしまったんだ。今この瞬間が死に時なんだ、と。自転車の荷台を足台にしてフェンスをいとも容易く登り、その縁に手をかけ腰を据える。重たい身体も今はとても軽く感じた。手元にはスマートフォン。呑気に写真まで撮る始末だ。風が髪を薙いで気持ちがいい。今日は涼しいな。台風の影響のせいだろうが、とても過ごしやすい。そんな私を横目に見る人も、決して目を合わせようとはしない。私が身を投げるかもしれないと察してはいながらも、関わりたくないんだろう。
好都合だった。涙もこぼれないし、なんの感情も湧き上がらない。心が死んでしまったようだ。
恐怖心というものがまるで機能していない。全てを美しいとしか感じられなかった。
 
  きっと、これが"死神"なんだろう。悪い気はしないな。こんなにも穏やかに連れていってくれるのか。なら、逝くしかないじゃないか。だって、世界はこんなにも美しくて、こんなにも残酷で、こんなにも暖かくて、こんなにも遠いのだから。
 
 目を閉じて眠るように身体を傾けた時にスマートフォンが振動して目を開いた。画面が光っていた。
…友人からのLINEだ。内容は本当になんでもないものだったけれど、のそりとその場から降りてLINEのトーク画面を開く。音1つしなかったその場所に、夏の夜に相応しい虫の鳴き声が響き、心地よい音として耳に届いた。

 死神の気配は消えていた。
 
薄く笑いながらその子にありがとうと送ったら不思議そうにされた。
何事も無かったかのように歩道橋をこえ、ぼうっと自転車を漕ぎながら家に戻ると、服を脱いで暫く辞めていた煙草に火をつけた。
やっぱり臭いな。でも、悪くない。
 
日払いの仕事をネットで探しながら煙草を肺に入れ、気が付いたら涙が止まらなかった。
 
なんで泣いているのか、私にも分からなかった。

2020.9.


今の私は、このLINEの向こうの相手に救われ、愛され、生きています。大丈夫だったよ、私。

2022.3

支えてくれようとして頂ける事に深い感謝を。