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たいていはバーにいるから


 死ぬほど眠いのにどうしても寝つけなかった。じっとして眠る努力をするのも、諦めて寝床を出るのもそのいずれもが面倒だった。夜の砂漠に降る雨のことを考えた。何故だか自分の人生で自分自身の一番の親友であろうとしなかった。そのことに気がついてからも特に態度は変えなかった。自分を救うために何かすることを、いつでもひどく億劫がった。そうして斜に構えて、皮肉屋を気取って、でもとてもシャイだから誰かと話していると恥ずかしそうにちょっと笑った。いつもウイスキーを静かに心愉しく、しかし大量に飲んだ。そうしてたいていはバーにいた。

 しんどい時を、頭を低くしてやり過ごす術なら知っていた。少なくともそのつもりだった。けれど近頃は少し勝手が違ってきた。底に錐で穴を開けたMJBのコーヒー缶でスイートバジルを育てたり、求められればいつでも踊れるようにチャールストンを覚えたり、抵抗は形だけ続けていた。たまの休日の昼下り、ベランダのディレクターズチェアに陣取って、霧雨で乳白色に煙った池袋の街並みを眺めながら、手すりに置いたショットグラスから雨の混じったテキーラを飲む。中島らもだったかな、ビートニクのろくでもない連中の誰かだったかも、アル中の作家が面白いことを言っていた。もし肝臓に人間の言葉が話せたら、きっと悲鳴を上げて喚き散らすだろう。いい加減にしやがれ、殺す気か! 一度肝臓とじっくり腹を割って話をしてみるのもいいかもしれない。肝胆相照らすってのを地で行くわけだ。テキーラを注ぐ。上空を飛ぶ飛行機の数を数える。目を閉じる。ソ連の女性宇宙飛行士テレシコワが言ったとされるコール・サインを呟いてみる。
 ヤー・チャイカわたしはカモメ
 別に意味はないけど。


 仲良くしている女の子と仕事終わりに新宿 でごはんを食べて、いつもの自分の行きつけのバーへ寄った。ボブカットで垂れ目が可愛い彼女は眉も髪と同じ栗色に染めていたが別に派手には感じなかったししっくりと落ち着いてよく似合っていた。店の女の子達や店長やら馴染みの常連が僕にいちいち軽く挨拶をするので、彼女はおかしそうに笑った。あ、俺、たいていここにいるからさ。その後も何軒かはしごして、二人とも酔った。一緒にタクシーを拾って帰る。僕には全くその気はなかったし彼女には彼ちゃんがいた。だから、本当にただ単に偶然だった。シートの上に乗せた彼女の右手に僕の左手が重なってしまった。すぐに引っ込めるだろうなと思ったのに何故か手は引かれなかった。僕が指にごく僅かだけ力を込めると、絶妙に同じだけの力が指二本で返ってきて、指が絡んだ。お互い別の車窓から別の景色見て言葉少なに話しているのに、手はずっとそのままだった。ああ、そうか、と思った。今夜で、今で、今日の俺で、この星回りで、リラックスと緊張が微妙に釣り合っていて、彼女は明日休みだし(俺は仕事だけど)、好きではなくても一緒にごはんする程度には嫌ってないし、彼ちゃんとはあんまりうまくいってないし、それに満月だし、とにかく今なら、どこか静かなとこに誘っても大丈夫なんだな。僕は彼女が欲しくなったし、そう言えばずいぶん長い間女とも寝ていなかった。でも何故だかだるく、どこか他人事染みた。自分でも本当によくわからない。結局彼女はきちんとお家に無事送り届けてしまった。僕らはこれからもごはんしたりお酒飲んだりするけど、あれは多分一度だけ訪れる幸運で、その後二度と二人の間にあの雰囲気が戻ることはないんだろう。有難う、ごちそうさまでした。いいんだ、また飲もうね。俺はたいてい、あのバーにいるし。


 彼女の背中を見送る僕に、おいおい、いいのかよ、と肝臓が言う。絶対後悔するぜ。いいんだよ、と僕。うるさいよ。

 もちろんあとで死ぬほど後悔した。



 ヤー・チャイカ。仕事が終わるとたいていはバーにいて、いつもウイスキーを静かに心愉しく、しかし大量に飲んだ。頬杖をついて文庫本を読んで、読むのに疲れると灰皿の置いてある店の前のスペースで壁に凭れて煙草を吸った。数ヶ月前までは普通に席で吸えた。このまま世界はどんどん清潔に、ますます健全に、ぎゅっと生真面目になっていくのだろう。いいことだ。お好きにどうぞ。勝手にやってくれ。俺はとても付き合えないが。度を過ごすといっても騒いだりはしないし、迷惑をかけることもない。いつでもきれいに飲んで、払いはきちんとし、静かに穏やかな声で話す。トイレを汚したりグラスを割ることもない。時々お店のスタッフにビールを奢ることも忘れない。かといってこれみよがしの常連面をすることもない。女の子達を困らせない程度につまらない冗談を言う。ごちそうさまを言って、あまり長居になり過ぎないうちに帰る。周囲からは案外愛された。時折肝臓と話をしたりすることだけが玉に瑕だ。


 たいていはバーにいた。そうして着実にますます追い詰められていくのに、手を上げて自分の身を護るかどうかなんてことを、まだ迷っていた。

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