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【1996年の短編小説】ボーイズ・ネクスト・ドア

この「ボーイズ・ネクスト・ドア」は、1996年夏に刊行された雑誌『バァフアウト!』(Vol.16「THE END OF BOYSHOOD」特集号)で発表した6ページ約1万字の短編小説です。編集長の山崎二郎氏に「noteで掲載したい」と相談したところ、「どうぞ!」と快諾してくれました。当時27歳だった書き手・中野充浩が、同い年で親交のあったグレイト3の音楽を聴きながら青春期やイノセンスの終わりを描こうと、一晩で夢中になって書き上げたストーリー。街を歩きながら一緒にフォトセッションしたのも想い出。「コギャル」や「渋谷系」が東京ポップカルチャーの最前線だった1996年。あなたはあの時、どこで何をしていましたか? 

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BOYS NEXT DOOR

Written by Mitsuhiro Nakano

「ユカは塾に行ったのか? あのコにはプラダとフェラガモを買ってきたんだよ」

 成田空港から箱崎の東京シティエアターミナルへ向かうリムジンバスの中で、前の席にいた出張帰りの中年サラリーマンが携帯電話でそう話しているのを耳にして、LAのタワーレコードのカントリーコーナーで買って以来やけに気に入って、ノースウエストの機内からずっと一緒だったシャニア・トゥエインを聴き終えたウォークマン片手の俺は、初めて東京(まち)に帰って来たことを実感した。

 窓の外は夏の夕暮れ時ということもあり、他の乗客たちは乱立するビルと戯れながら流れてゆく微妙な色彩で描かれた曇空をぼんやりと眺めていたが、エアコンのせいですっかり冷えきった俺の身体は、都会の生温かい風を早く浴びたくてたまらなかった。

 だが今となってはどうだっていい。俺はターミナルの中を傷だらけの黒いスーツケースを引きずっているところだ。誰か俺のことを覚えてくれているだろうか。

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 ターミナルを出る。重い匂いが風邪気味で鈍った俺の嗅覚を刺激する。横断歩道の手前でスーツケースに座り込んで煙草に火をつけると、最初の煙が風に舞う。それから夜空を見上げてみる。見えない夏の星座についてはきれいさっぱり忘れてしまった。それよりも高層ビルの窓明かりや行き交うヘッドライトを煙草でもくわえながら眺めている方が、都会ではずっとロマンチックな気分に浸れる。

 歩行者信号が青に変わって車の流れが止まる。向こう側にはだだっ広いコンビニエンス。真上の首都高速の喧騒が真夏の東京(まち)の午後8時の暑さをやたらと盛り上げてくれる。1ヶ月前にロデオ・ドライヴのブティックでリバー・フェニックス似の男から勧められて買った黒い開襟シャツには汗が滲んできた。

 コンビニエンスに入ってエビアンを買う。レジのそばで一気に飲み干していると、アルバイト店員は迷惑そうな表情を訴えてくるが、気にはしない。汗が引くまで雑誌でもめくって時間を潰す。有線はマライアやTLCやメアリー・J・ブライジを立て続けに流している。旅疲れの俺にはシェリル・クロウのアコースティックとかホイットニーのピアノバラードがしっくりくるのだが、恐らく聞こえてこないだろう。

 店の前では制服姿の女子高生たちが大声で雑談中。俺は窓越しにチラッと視線を向ける。どいつも茶髪のシャギーだ。自動扉が時々開くので、「ダイエット・テープよりシンディのワークアウト・ヴィデオの方が効果あるかもよ」。彼女たちの足元はルーズソックス。その前にはラルフの三折りが流行ったはずだ。LAに長く居過ぎたが、それくらいは知っている。俺の高校時代はまだハイソックスがクールだった。

 卒業してあれから9年半も経つのか。ちょっとした歳月かもしれない。東京(まち)での俺の高校生活の想い出も、燦々と輝き続けたカリフォルニアの太陽のせいで今にも干し上がろうとしている。何とかしなければ。

 アラニス・モリセットが聞こえ、俺は少々苛立ちながら別の雑誌をラックから取り出す。開いたのは音楽欄。懐かしい顔ぶれと名前が飛び込んできた。

片寄明人(vo、g)、高桑 圭(b、vo)、白根賢一(ds、vo) のメンバーからなるグレイト3の新作『メタル・ランチボックス』には3つの物語が存在する。これは去年のデビュー作『リッチモンド・ハイ』にも共通する点で、第一に彼らは何処にでもいそうな同世代の連中を語り手に現在・過去・未来を疾駆してゆく。特に過ぎ去って散らばった時代に関しては、何度も駆け巡る楽しかった日々、時々想い出す切ない瞬間、できることなら忘れてしまいたい出来事といったものが強烈な郷愁の中で整理され、決してぼんやりとしたモノクロにはならずに、はっきりとしたカラーのままで綴られる。第二に眩い光を放つ病んだ都会の情景や空気が漂っている。それらは車の中や駐車場やマンションのロビーといった何気ない場所で謳われる。そして第三。ある者は全く予測できない恋愛の行方に心を痛めたり、ある者は前向きな人生の動機を懸命になって探していたりする。このような控折的青春を爽快さや危険さだけで表現してくれる他のポップバンド群と一線を画すのは、確実に汚れた経験があるからこそ悩み、一方で純粋(イノセント)な感情を完全に失ってはいないからこそ傷つくんだという、相反するあの孤独で長く辛い夜の感覚が全編に渡って流れていることだ。以上の3つの物語が彼らの音楽性と見事に融合した曲を個人的に挙げるとすれば、デビュー作からは「アンダー・ザ・ドッグ」「ジェットコースター日和」「エデン特急」「マイ・バニー・アイズ」、ニューアルバムでは「ラストソング」「ナイト・ラリー」「崖」「ビーチボール」といったところだろう。また同アルバムには「Gサーフ」「スター・ツアーズ」のように、ゲームセンターでハンバーガーやドーナツ片手に思わず口ずさみたくなる魅力を持ったナンバーも収録されている。(by M.N.) 

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 茅場町のウォールストリート・バーで、コンビニエンスの公衆電話から連絡を入れたこの近くに住む昔のクラスメイトと白ワインを傾けながら喋(ダベ)っている。どうやら奴の記憶に俺は残っていたらしく、不安は消えてくれた。

「どうだよ? リービングLAの気分は?」
 青と白のストライプBDを着た昔のクラスメイトは、ヴィックス・インヘラーを鼻にあてながら言う。
「あっちの大学にたっぷり7年もいれば、頭の中は狂ったみたいにコカイン漬けだな」
「クスリはそんなにやってないよ、マジで」
「じゃあ、何やってたんだよ? 肌もあんまり焼けてないぞ」
「お勉強だよ」
 俺が一言呟くと、昔のクラスメイトは興味なさそうにヴィックスを吸い込んではまばたきを繰り返す。コカイン漬けはこいつの方かもしれない。
「お前こそ、今何やってんの?」
「俺か? 俺は商社マン。皆ほとんど企業でサラリーマンやってるよ。コンピュータとか旅行とか、税理士もいるけどな。Cクラスにいた江崎って覚えてる? あいつなんか代理店入って名刺バラまいてモデルと付き合いまくってるんだ。秀才お坊っちゃんも典型的なアホになっちまったよ。広告連中は自分が世界の中心にいると思い込んでる奴が多いからな」

  バーテンにワインのおかわりを告げた俺は明人たちのことを振る。
「あいつらはバンドやってるよ。それしか知らないな。俺はもう疎遠だから。お前の方が仲良かったじゃん」
「我ながら信じられないけど、この9年半は誰とも一度も音沙汰なかったんだよ。毎年一回は帰国してたけど、実家はもうこっちじゃなかったから」
「それはお前が引越先を俺たちに教えなかったからさ。知らなくて当然だろ」 

 高校卒業と同時に中学まで住んでいた神戸に親と移り戻ったのが、そもそもの間違いだったかもしれない。教えるタイミングを外しただけで、こんなことになってしまった。昔のクラスメイトはビールを飲んで続ける。
「高校卒業してLA留学するまでの2年半、神戸で一体何してたんだ?」
「別に何も」
 本当に何もしていなかった。
「『別に何も』か......震災は大丈夫だった?」
 俺は適当にうなずく。大丈夫なもんか。
「で、これからどうするつもり? 仕事に就くんだろ? あては?」
「来月からこっちで暮らすことに決めてるんだ。職探しはそれからだな」
「そっか。まあ、頑張れよ」

 7年掛けての卒業。しかも帰国子女という個性主義を掲げる面倒なレッテル付きで、27歳という変わり種。お偉方に相手にされる確率は極めて低い。逆に個性を活かそうか。だが都会は夢や目的を持って生きる野郎にはとてつもなく厳しい。

 とにかく俺には何か原点とすべき帰る場所が必要だ。でなければこのメガロポリスの中で精神的ホームレスか、虚飾に溺れた快楽追求の夜を重ねる軽薄者になるのがオチだ。要するに俺にはこの東京(まち)では、高校時代のあの3年間しか頼るものがない。落ち着いた大人の世界に生きたければ、自分の居場所を探せ。かつての自分を取り戻せ。

「人の話、ちゃんと聞いてんのか?」
 左耳から声が大きく聞こえた。
「何が?」
 俺が問い返すと、昔のクラスメイトは60年代は自由を求め、70年代は破壊に徹し、80年代は消費に明け暮れた時代だったと言う。
「じゃあ、90年代の今は?」
「知るかよ、そんなこと。せっかくの土曜の夜なんだ。クラブにでも繰り出して、いい女お持ち帰りしない?」
 いい女はクラブなんかにいない。家にいる。
「こっちじゃ、何処が流行ってるの?」
「俺たち向きなのは西麻布のリングとか青山のアポロとか、そんな感じか」
「忘れてたよ。従妹のところに行かなきゃならないんだ。取り敢えず二泊してから神戸に戻るから......あのさ、高校の時の話でもしないか?」
 俺がおもむろに提案すると、
「悪いけど昔話はしたくないんだ。俺たちにもここ数年いろいろあってさ。状況が変わったんだよ。LAでよろしくやってたお前には分からないだろうけどさ」
 昔のクラスメイトは灰皿に煙草をもみ消す。またマライアが流れ始める。結局、居場所は見つからなかった。 

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「お兄ちゃんとこうやって会うのもホント久し振りだね。前はまだ私、小学生だったんじゃない?」

 薄いピンク色のパジャマに着替えたばかりの従妹は、ソファーに横になったまま窓の外を見つめている俺にアップルティーを注いでくれる。洗った髪の香り、エアコンの音が妙に心地いい。
「ねえ、明日の夜は一緒に食事でもしない? 青山のロイズに予約入れておくから」

 神戸の親元を離れて女子大に通う従妹は、一口坂のマンションに一人暮らしして二年目の東京(まち)の夏を迎えている。周囲は千代田区特有のあの物悲しさに覆われ、遊んだり働いたり住んだりする生活イメージを焼き付けることはLA帰りの俺には難しいが、ここが都会に埋もれる寂しい街だということくらいはすぐに分かった。人気のない土曜の夜なら尚更だ。どうして彼女はこんな所に部屋を借りたのだろう。今夜はやけに感傷的な気分になる。

「こっちでの暮らしは慣れた?」
「うん。楽しいよ。充実してる。学校にもちゃんと行ってるし、適当に遊んでるし」
 従妹はベッドに腰掛けると微笑んだ。
「何して遊んでるの?」
「友達と美味しいお店探したり、休みには旅行したりね。先週末は誘われてクラブに行っちゃった。でも私はああいう場所だと浮いちゃうみたい」

 俺は思わず部屋を見渡す。本棚のフィッツジェラルドの小説、壁に貼られた黒いラブラドールのポスター、大切に飾られたウェッジウッドのワイルド・ストロベリーのティーカップ、そしてフレームに入った家族写真。死んだ俺たちのおじいちゃんの姿も見える......

 なのに彼女は先週末の夜クラブにいた。下心たっぷりの連中にナンパされたのだろうか。身体を馴々しく触られたのだろうか。吐気のするハウス、薄汚いトイレ、卑猥な落書き、ドラァグクイーンの叫び。彼女のメールボックスに来る日も来る日も投げ込まれるピンクチラシ。通学で乗り込んだ地下鉄の中吊り広告に刷られた週刊誌の合法ドラッグ特集。何だかむしょうに悲しくなってきた。これ以上、怖くて聞けやしない。

「電気消そうか?  明日の昼は人と会う約束があるんでしょ? お兄ちゃん疲れてるみたいだから、もう寝た方がいいわよ」
 何も言わずに目を閉じると、
「おやすみ」
 従妹はタオルケットにくるまった俺に静かに告げた。

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「でも元気そうで良かったわ」
「君の方こそ。綺麗になってたから驚いたよ」 

 恵比寿ガーデン・プレイスのバロック音楽が響くカフェテラスで、高校3年の夏休みに付き合っていたユウコと落ち合って1時間が過ぎた。

 彼女がトイレから戻ってくる前、日曜の昼下がりの太陽をもろに見上げてしまったせいか、俺の目には赤い斑点がまだチラついて消えてくれない。今朝目覚めた時に気分は悪くないという消極的な朝を迎えてしまったことや、ここに来る前に動く歩道でホームレスの老婆と擦れ違ったことと何か関係があるのかもしれない。

  「一つ聞いていい? どうして突然、私と会う気になったの?」
 彼女は銀のシガレットケースからメンソール煙草を取り出すと、店のマッチで火をつけてから言った。
 「君とは最後の方は曖昧だったから。自然消滅なんてはっきりしないだろ」
「十年も前の話よ。あなた、変わってるわ」
 笑うと煙が吐き出される。ユウコは黒い半袖ワンピースを気にしながら脚を組むと、テーブルに置いたサングラスを掛ける。俺は目を細めながら言う。 

「あの時のこと覚えてる?」
「どの時?」
「最後の日。君から電話があった時」
「......覚えてないわ」
「ぼんやりとも?」
「ええ、覚えてないわ」
 バッハの「G線上のアリア」が聞こえてくる。「もう一 度やり直さないか?」なんて、とても切り出せない。 話題を変えよう。
「君は男には何を求める?」
「男には、そうね...... 経済的保証よ。だって愛なんてそのうち冷めると思わない? もう子供じゃないんだから」

 あの夏休み。俺たちがよく喋(ダベ)り合った広尾のホームワークスや自由が丘のカスタネット。渋谷のソニプラで買った三穴バインダーや彼女がいつも持ち歩いていたルイセットの袋。横浜の山下公園でずっと手を握り合ったこともあった。雨が強く降った後の夕暮れで、 人数はまばらだった。

「スチュワーデスの仕事はどう?」
「さっきも同じこと聞いてなかった? そっちこそLA留学の成果はどうなの? 就職するんでしょ?」
「ああ、多分......」
 俺は自分の影を踏みながら呟く。隣のテーブルでは小さな子供がフォークについた生クリームを舐めている。母親はハンカチ片手に見守ったまま。
「来週、私、結婚するの」
 今度はアイスティーを飲み干したユウコが呟いた。
「えっ?」
 しばらくの沈黙。子供がなぜか泣き始める。
「正直言って、ここに来てあなたを見た時は懐かしかった。でももう疲れたわ」 

 これが最後か。彼女は無口になってゆく。遠くの方を見つめるだけだ。俺は何とかこの場をつなげたい。できるだけ平凡な会話で。
「結婚のことはおめでとう。最初に言ってくれれば良かったのに」
 彼女の左手。細い指先にはエンゲージリングが光っている。俺はずっと見逃していた。ウェディングドレスを着たユウコの姿が脳裏を横切る。

「彼が待ってるの。もう行くわ。お金ここに置いとくわね」
「あのさ」
 俺は急ぐ彼女を呼び止める。
「何?」 
 彼女は振り返った。どうしてあの時、俺たちは別れてしまったのだろう? 
「別に、何でもない」
「......じゃあね。さよなら」
 ユウコが去ってゆく。伝票を握りしめようとして手を伸ばすが、氷水が入ったグラスにうっかりブチ当たり、グラスは床に落ちて粉々に割れる。東京(まち)の午後。人々の視線が一瞬だけ俺に集まった。


────高校3年の11月の金曜だった。その日の授業は終わったのに、俺たちは世界史の補習を教室に居残って受けていた。明人はテキストの空白にスケボーに乗っかったスヌーピーを描き、賢一はシャーペンの先で机に“CLASS OF '86”と彫り込むのに忙しく、窓際の俺は校庭のケヤキ並木の揺れを眺め、圭は一番後ろの席で下敷きの中のリサ・ボンダーやグラフにキスしたまま眠っていた。

 補習が終わると俺たちは放課後の渋谷へ繰り出した。スクランブル交差点を駆け抜け、プライムでコーラを飲みながらナインボールの技について喋(ダベ)り合った。明人は流れてきたジョン・ウェイトやチャーリー・セクストンを一緒になって半分本気で口ずさんだ。女子校のコたちがずっと見ていたので俺がその気になると、賢一と圭はNGサインを頻繁に送ってきた。 

 自由が丘の俺の家に着くと、部屋の中で明人と賢一はファミコンや『ファミリー・タイズ』やMTVのダビングテープを観るのに夢中で、俺の方は『プリティ・イ ン・ピンク』のポスターの中のモーリー・リングウォル ドと強引にキスしようとする圭を壁から引き離すのに必死だった。FM(ラジオ)からティル・チューズデイやモーテルズが聞こえてくると、時計は8時を知らせた。

 近所のアンナ・ミラーズで空腹を満たすことになった俺たちは、片隅のボックス席でスカート丈の短いウェイトレスや俺の部屋から持参したJJの水着特集のバックナンバーを眺めながら、フレンチトーストやオムレツを口にしていた。ジルでのパーティーの話題の後、流れてきたローン・ジャスティスやロマンティックス。賢一と圭が口笛交じりに歌っていると、ジーンズ姿の女のコたちがやって来て「暇だから一緒に遊ばない? 外で待ってるね」と微笑んだ。

 一人はワンレングスで、サーファーっぽいもう一人はカラーコンタクトのせいで瞳は青かった。女のコたちが出て行くと、俺はでき過ぎた話はヤバイから断ろうと切り出したが、3人は上の空だった。

 10時。合流した俺たち6人は、賢一が運転する俺の親父のメルセデスに乗り込んで青山トンネルを潜っていた。不思議がる女のコたちに、助手席の俺は「親父は海外出張でお袋は旅行中」と説明しなければならなかった。後部座席では明人が俺の部屋から持参したリッケンバッカーでFコードをかき鳴らし、圭は窓から見え始めた六本木の街並みや路上に立ってチケットを配るホステスやディスコの従業員を眺めながら、スピーカーから控え目な音量で響くアンディ・テイラーやスキャンダルでリズムを刻んだ。賢一はレイバンを掛けると、片手でハンドルを切った。 

 六本木通りをゾロゾロ並んで歩いていると、明人がムーンウォークを披露して、賢一は捨てられたジャパン・タイムズを蹴飛ばし、圭は路上の誰かのハーレー・ダビッドソンにまたがった。俺は「ジャクベかイタトマかストファで喋(ダベ)ろう」と提案したが、女のコたちに応えて俺たちはディスコへ向かった。けれどスクエアビルのどのフロアにも入る事ができなかった。ラルフの白いBDシャツ、スクールセーター代りの紺のVネック、茶色のローファー。俺たちは制服姿のままだった。遠くに見えた東京タワーがやけに眩しかった。

 裏通りのセブンイレブンの近くのビルの地下で偶然見つけたディスコは、そんな俺たちを歓迎してくれた。金曜の夜だというのにガラ空きだったが、貸し切りのように思えて楽しかった。ユーロビート好きの女のコたちはマイケル・フォーチュナティやバナナラマをDJにリクエストした。俺たちはビール片手に、明人と圭のチークに大笑いした。ターンテーブルに最後に乗ったのは、ボーイズ・タウン・ギャング。 

 俺のスウォッチが零時過ぎを示した時、俺たちは飯倉片町に停めたメルセデスに再び乗り込もうとしていた。「負けたコが後ろのトランクね」とワンレングスのコが言ったので、6人でジャンケンをした。圭が入ろうとすると、通り掛かった警官が「キミたちは何をやってる?」。俺たちは手にしたシャンパンを背中に回した。青い瞳のコが「そんなにせめないで」と泣き真似で呟くと、警官は「早く帰って寝なさい」と言って坂を下って行った。

 エンジンを掛けたまま、皆で立ち話をしていると、女のコたちは「残念だけど、そろそろタクシー拾って帰らなくちゃ」と微笑んだ。俺が連絡先を教えてくれと言うと、
「明日、成田を発つの。LAに行くのよ、私たち。向こうで女優になるの。プレタポルテの人生はもうたくさん。これからはオートクチュールね」
「東京でのいい想い出ができたわ。制服姿の高校生の男のコたちと夜遊びしたんだもん。キミたちはまるで“ボーイズ・ネクスト・ドア”ね。隣の部屋に住んでるみたい」

 ビジネスホテルの前でポケットに手を入れて有り金を出し合っていた時は、4人の欠伸は止まらなかったし、自由が丘へ戻る気力も失せていた。賢一は「あのコたちは幻だったんだよ。明日は遅刻だぜ」とシワだらけの千円札を数えた。1万5千円、ツインルーム1室分。デフ・ジャムのTシャツ姿になった明人は煙草を夜空に投げた。アスファルトに落ちてゆく一瞬の灯。

   遅いチェックインを何とかクリアした俺と明人と賢一は、部屋に入るなりベッドに倒れた。俺はスクールセーターを脱ぎながら備え付けのFM(ラジオ)のスイッチを入れた。トミー・ショウが「ロンリー・スクール」を歌っていた。すると「開けてくれ! 開けてくれ‼︎」。煙草を買って戻って来た圭が一体何処で拾ったのか、 赤毛のマネキンを抱えながらドアを騒がしく叩き始めた。俺はやっとの思いで起き上がった。酔い潰れた賢一は床に転がり落ち、明人が長い寝言を呟いた。夜の静寂だった。「何かが変わったり、何かが終わったりするのは辛いことさ」────

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 昨日のことがとてつもなく昔のことのように思える。この東京(まち)にやって来たばかりなのに、何もかも失ってしまったような気がする。左胸はどんよりとした憂鬱(ブルー)に染まった。飛び込んでくるのは色とりどりのきらびやかなネオン。だが何処にも俺の色はない。閑散とした日曜の夜の六本木。今夜は人の流れに逆らいたくなる。休日の孤独は何よりも最悪だ。

   地下鉄への階段から吐き出されてゆくカップル。交差点の大型ヴィジョンに繰り返し流れるインターネット・パソコンのCM。路上にへばりついたクラブのフライヤー。アマンド前の時計が8時を示す......

 何か忘れていないか。今夜は従妹と6時に食事の予定だった。信じられない。俺はユウコと別れてから数時間も街々をさまよい続けたことになる。明人たちに何度も連絡したが誰も出なかった。

 六本木の電話ボックスの扉を半開きにして受話器を握った女を、俺は5分も眺めたまま。どのボックスにも空きがない。都会ではいつも誰かが誰かに電話を掛けている。駄目だ。店へ走ればまだ間に合うだろうか。ひょっとしたら彼女はもう怒って帰ったかもしれない。無駄な時間を過ごした以上に、大切な約束を破ったことに重い罪を感じる。馬鹿なことをした。天使と同じテーブルで向かい合えば、すべてを忘れ去ることもできたのに。

 通り過ぎるコンバーチブルからまたマライアが響いている。クラブへでも繰り出して、一夜限りの快楽の小道具どもを手に入れようか。違う。モラルこそが新しい始まりではなかったか。俺は急に歩けなくなってしまう。歩きたいのに一歩も進めなくなる。

 本当なら壊れたくないさ。こんな時、お前たちならどうする? “ボーイズ・ネクスト・ドア”か。早くお前たちの曲が聴きたいよ。 

FIN

*noteの機能上オリジナル仕様にならなかった点。1、東京やFMなどにルビが打てずカッコ内で表現しました。2、回想シーンが斜体にできず、通常のままにしました。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。あれから小説を書いたり(発表しないまま)、書かなかったりしているうちに、25年近い歳月が過ぎました。チャンスがあったのにどうして世に出さなかったのか、もっと書かなかったのかと言われることがあります。それについてはもう今となっては話したところで意味がありません。ただ、この25年間は、生きることの哀切甘美を数多く学んだ気がします。小説を再び書く時。その日が来たらnoteで発表したいと思います。


最後までありがとうございました。最初は誰かの脳に衝撃が走り、左胸をワクワクさせ、やがてそれが何人かに伝わって周囲を巻き込み、みんなで動き出しているうちに同じ血と汗と涙となり、最後には目に見えるカタチとなって現れる。そんなことをやり続けます。応援よろしくお願いいたします。