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オクリモノを哲学する

noteって、オクリモノを可能にするvehicle(輸送手段・媒介)のようなモノではないだろうか?その「発想」「切り口」を、山下義弘さん(ドケットストア店主)の、『noteはたぶん、「贈与」でできている』という記事からいただきました。ありがとうございました。

これからみなさんに読んでいただくことは、以前から「書きたいなぁ」とか、「書かなきゃなぁ」とか、思っていたことです。でも、なかなかそのきっかけをつかめず、ずっと引き出しにしまっていました。

先日、noteのこんな記事に目が留まりました。

なるほど、なるほど。確かにそうだなぁ。noteってオクリモノじゃないかなぁ… そのとき、私は山下さんから何かをいただきました。おそらく、それは「発想」とか「切り口」だと思います。おかげで、モヤモヤとしていたアイディアがかたちになります。

1.noteは、オクリモノを可能にする

私も、noteで利他的な贈与行為(altruistic gift-giving)が可能だと思います。利他的な贈与行為だなんて、かたぐるしいですよね、以下、オクリモノで統一します。それは、こんな意味です。

①なんらかの見返りを期待しなくてよい

もちろん、自分の書いた記事に値段をつけて販売することもできます。(私もやってます!)また、投稿した記事が評価されて、なんらかの仕事に発展することもあるようです。(その期待はあります!)

でも、自分の記事を読んでくれた方に、直接、何らかの返礼を期待することはありません。読んでくれればうれしいし、スキをいただけたらもっとうれしい。コメントがいただけたら励みになる。ただ、それだけです。

なかには、スキをくれた読み手にスキのお返しをする書き手もいるでしょう。でも、そうしなければならないルールも不文律もありません。そうしたい人はそうするし、そうしたくない人はそうしない。それぞれの自由です。

②おくったり、おくられたりするのは、質。量の交換にとりこまれない

日本には贈答の文化があります。オクリモノと言ってもそれはそれ、お返しが欠かせないと思うものです。ご祝儀には引出物のお返し。香典には香典返し。それぞれに相場があり、カタログギフトには値段がついています。ギフトという名の経済的交換。

でもnote記事は、ただおもしろかったり、おもしろくなかったりするだけです。何らかの価値を与えたり、受けとったりしているんだろうけど、数量評価はできません。そこに値段がついていないかぎり、投稿の後にも先にも等価交換は生じません。

③書き手と読み手のあいだに力・利害関係が生じない

noteクリエーターには「anonymity (匿名性)」が約束されています。ですから、自分の投稿記事がどこの誰に読まれているのか、ペンネームと記事の内容以上のことはわかりません。記事の書き手と読み手のあいだには、今どきの「ソーシャル・ディスタンス」が保たれていると言えます。

「anonymous relationship(匿名の関係性)」って大事です。アノニマスって言うと、名前が知られないからネットで言いたい放題…って悪いイメージがつきまとうけれど、いいアノニマスもあります。書き手が読み手に政治的な圧力をかけたり、負債感で支配したりすることはできません。お互いに独立した関係性を維持できます。

たとえて言うなら、献血です。自分の血液が、誰かの生命を助ける。誰かの血液が、自分の生命を助けてくれる。でも、それはどこの誰なのか、お互いにわからない。わからないから、そこに力関係も利害関係も生じない。

サンタさんのプレゼントにも、それに似たところがあります。お父さん・お母さんがわが子の欲しいものを聴き出して、夜中にそっと枕元に置いておく。なんでそんな面倒くさいことを… って思ってたけど、親が子に直接手渡してしまったら、大きくなったら恩返ししなきゃ、っていう貸借関係になってしまう。年に一度くらい、誰だかわからない存在から、見返りを期待しないプレゼントがあってもいいじゃないか!そのために、匿名の関係性を演出しているんだそうです。なるほどなぁ… サンタクロースの解釈はいろいろとありそうですが… そんな話をイギリスで耳にしました。

2.オクリモノってほんとうに可能なの?

「何をまた、あらたまって!」「オクリモノなんて、そんなもんでしょ!」そう感じますか?でも、オクリモノ(altruistic gift-giving)って、研究すればするほど、そんなのムリ!ってことになるんです。「案ずるより産むが易し」ってことかもしれません。 実行してみれば意外と簡単なのに、あれこれ思い悩むときりがない。以下は、よくある「オクリモノ不可能説」です。

A. タダなんてありえない説

「free gift(無料ギフト)」とか「pure gift(純粋なギフト)」ってことばは、「白い黒」とか「四角い丸」みたいなもの。「reciprocity(互酬性)」という本能が人間に備わっている以上、お返しのないギフトはありえないし、それによって力・利害関係が生じるのも必然。

文化[経済]人類学者は、たいてい、オクリモノ(altruistic gift-giving)なんてありえないって考えます。マルセル・モースの影響です。でも、ギフトといえば相互的なギフトの交換(gift-exchange)と決まっていて、一方的なオクリモノ(gift-giving)なんて論外、とは言えません。そういうのもあれば、こういうのもある。

B. 人間ってのはもともと利己的な生き物なんだ説

人間っていう生き物は、結局は、自分の私利・私欲に動機づけられて行動するものでしょ。オクリモノにしたって、他人のためのようでいて、実のところは自己満足が目的なのよ。ギフトを受けとる側は、もちろんよろこぶかもしれないよ。でも、与える側はそれを見てよろこびたいわけよ。でも、それが、結果的には世のため他人のためになるんだから、いいんだけどね… っていう説。

心からよろこんでもらえるオクリモノって、意外とむずかしいですよね。おしつけがましくなってしまったり… ですから、個人的には、そうならないように気をつけてます。でも、そうした心掛けとは別に、利己的なオクリモノがあるからといって、利他的なオクリモノが不可能とは言えません。そういうのもあれば、こういうのもある。

C. お返ししないのはよくない説

もらったらもらいっぱなしってどうなの?どんなことでも、もらったらもらっただけお返しするのが常識でしょ。そうすることによって、バランスのとれた公正・公平な人間関係が保てるんじゃない?オクリモノは不可能っていうよりも、倫理的に望ましくないんじゃない… っていう説。

オクリモノには質的な価値があるだけで、数量評価はできません。もらったらもらっただけお返しする、というのは困難だし、不可能です。果たして、ひとつひとつのやりとりを均衡させる必要はありますか?情けは人の為ならず。差し上げた人からではなく、別の誰かからまわりまわって返ってくることもあるし… それでいいのではないでしょうか?

D. オクリモノとして認識したとたん、オクリモノではなくなってしまう説

オクリモノは、本来的に「パラドックス(矛盾)」をはらんでいます。一方で、非経済的な行為と定義されながら、もう一方で、お返し・交換・貸し借りといった経済性にからめとられてしまう。与える側にも、受けとる側にも、それがギフトと認識されてしまったら、ギフトの一方向性が無効になってしまう。だからオクリモノをすることは不可能なんだ、ということではなく、オクリモノという概念的に不可能なおこないが、実践的には可能なんだ… っていう説。

なんのこっちゃって思うかもしれないけれど、ポスト構造主義者の考えです。ジャック・デリダの影響です。これについても同感です。オクリモノって、ことばで定義すれば矛盾しているけれど、実際には何の気なしにやっている。まさに、案ずるより産むが易し。そういうことって、オクリモノ以外にもけっこうあるんじゃないかな…

3.「お金モード」は「お金じゃないモード」に支えられてる

実は、「オクリモノ不可能説」には、有力なヤツがもう1つあります。それは、「market regime(市場体制)」と「non-market regime(非市場体制)」の共存をあやぶむ哲学の議論です。いかにも、むずかしそう… ここでは献血を例に、「お金モード」と「お金じゃないモード」でご説明いたしましょう。

献血は身近なボランティア。献血ルームには感謝の意味を込めて、お菓子やドリンク、マンガが用意されているようですが、日本では基本的にタダで協力します。お金じゃないモードです。でも、個人が自分の血液を売ることのできる国もあります。もし日本でも血液が市場化されて、お金モードで簡単に売れるようになったら、どうなるでしょうか?

①オクリモノの意味が違ってくる

それまでは、ただ単に、他人の利益のためのおこないだったオクリモノが、他人の利益のために自分の利益を犠牲にしたおこない、になります。

②お金じゃないモードがお金モードに追いやられる

血液市場で、それまでは数量評価されなかった血液に値段がつくと、お金じゃないモードの献血であっても、お金モードで評価されるようになります。約1000円分の血液の寄付とか… そうすると、わざわざ血液をオクリモノしようとする動機がうすれていく…

それまでお金じゃないモードでオクリモノしていた何かが、どこかで市場化されると、ドミノ倒しのごとく、どんどんお金モードで売り買いされるようになる。だから、オクリモノは不可能になってしまうんだ、っていう説です。「ドミノ議論」って呼ばれます。

確かに、モノによってはそうだなぁ… って思います。note記事については、ドミノは倒れにくいのではないでしょうか?記事の内容や目的によって、販売したり、無料公開したりできそうです。でも、以下に挙げるような価値は、どこかで市場化されるとドミノがバタバタって倒れかねない…

倫理的価値(幼児・子供)
医療的価値(代理母・ヒトゲノム情報・血液・臓器)
環境的価値(多様な生態・景観)
歴史・文化的価値(建造物・絵画)
社会的価値(プロ野球・サッカーチームの株式上場・公共事業の民営化)
教育的価値(大学の経営危機・国立大学の法人化)

それは、お金じゃないモードだけの問題ではありません。お金モードがお金じゃないモードを食いつぶしていけば、お金モード自体の持続可能性すら危うくなるんです。

それは、容易に想像がつきます。お金モードの仕事にばかり時間をとられると、お金じゃないモード(たとえば家事・育児・家族のさまざまな都合・趣味・健康など)が足りなくなる。家族が幸せで、趣味がいい気分転換になって、十分な睡眠で体調を整えるから、また明日も元気に働けるのに… 毎日毎日、職場で戦ってこれるのは、家でカァチャンに仕事の愚痴や同僚・上司の悪口を聴いてもらえたり、わが子の安らかな寝顔が見られたりするからだし。 

なんだか、「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」みたいな理屈ですね。どちらも欠かせないのに、お互いに反発しあう…

世の中は、お金モードだけでは回らない。かといって、お金じゃないモードだけでも回らない。山下さんも示唆するように、「経済」が「倫理」にとってかわられるようなユートピアニズムは机上の空論です。全ての経済活動がオクリモノにとってかわられたら、経済システムどころか、世の中が崩壊します。

そういうことではありません。むしろ、こう言いたいんです。お金モードはそれだけで成立しているのではなく、お金じゃないモードの下支えがあって成り立っている。そこにおもしろさがあるんだ、ってことなんです。

資本主義は歴史の終焉ではないし、もっとも理想的な経済システムなんかじゃありません。でも、何でもかんでもお金モードにしないからこそ、お金モードが活きてくる。逆説的ですが、そうした「あそび」とか「すきま」に支えられているところが、資本主義の強さであり、優しさのように思えます。

そう考えると、noteの時間って大切なひとときですよね。

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