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字引を読む

 字引が好きでよく読んでいる。字引と書く通り、字を引く、調べる為のモノだから、読むモノではないという向きもあるかも知れないが、なかなかどうして、字引は面白くて読み出すと止まらない。大体が、字引という言い方も最近では見かけなくなって、辞書とか辞典とか、言葉でなく事柄を収載した事典と区別する為に、辞典は「ことばてん」、事典は「ことてん」と言い分けるのは、きっと業界通の御仁で、いずれにせよ、字引という名前は、あまり使われない。ただ、理屈ではなく、辞書や辞典と呼ぶよりも、字引という言葉、音感が好きである。もっとも、字引をよく読んでいると言ったのは、もちろん、字引という言葉が好きだからだけではなくて、字引を開けば、そこに言葉の小宇宙が広がっているからで、要するに、ある言葉を調べる為に引いたところが、隣の言葉に目移りして、気が付けば頁をめくって、言葉の連鎖、言葉の森から抜け出せなくなる。仕舞いには、一冊で飽き足らず、こちらの字引には何と書いてある、あちらの字引には何と書いてある、そんな調子で、見回せば堆積した字引が意匠を凝らした金文字の背表紙でめいめい自己主張している。

 字引の世界にも色々あって、言葉の意味を知る為の使い方が普通だから、普通と言ったのは、字引の中には、アクセントや書き順に特化した専門的な字引もあるからで、言葉の意味を知る為の字引に限って言えば、お馴染みの国語辞典や古語辞典、また英和辞典といった、学生時代にお世話になった字引が揃っていて、視点を変えて、その探している言葉へのアクセスの仕方、アプローチによって、類語辞典や逆引き辞典などの変わり種もある。知っての通り、国語辞典は検索の便を考えて五十音順に言葉を並べているから、まるで関係の無い言葉同士が隣に並んで、それはそれで仕方の無いことだけれど、「読む」という趣旨からすれば、つまらない造りになっている。その「読む」という目的で愛読しているのが、変わり種と言った類語辞典で、これはその国の言葉の豊かさを可視化するという点においても、抜群に面白い字引である。

 例えば、類語辞典で「雨」という言葉を引いてみる。そのもの「雨」に始まって、急に降り出せば「驟雨」、すぐに止むなら「村雨」、収穫に必要な「瑞雨」と、一つの頁、紙面の中にこれでもかと「雨」を表す言葉が詰め込まれていて、降り方の強弱や降る季節、時間帯といった差異、また雅語と認められる詩句で扱われるような美しい言い回し等々、誠に多くの言葉が紹介されていて興味は尽きない。我が国には「梅雨」があるくらいだから「多雨」の気候帯に属していて、それで「雨」にまつわる表現が多いのかも知れず、それなら「スコール」に見舞われる熱帯の国の言葉もまた「雨」を表す言い回しが豊かなのだろうか。タイやカンボジアの言葉は門外漢だから計り知れないけれども、これだから言葉の探求は面白くてやめられない。

 大きな書店の字引の売場に行ってみれば、汗牛充棟、目移りするほどの字引で棚が占められていて、変わり種の類語辞典でさえ幾つも種類があって、時たま新刊が出ると聞けば、棚の前で引き比べて愉しんでいる。とりわけ愛用している類語辞典は、四十年近く前に発行されたものだから、大変なロングセラーで、日に200冊の新刊が上梓されるという目まぐるしい業界で、それだけの歳月を生き残り、返品もされず、棚に並び続けているということは稀有な話で、類語辞典の市場は狭いという事実を差し引いても、その一冊は読者の評価をそれなりに得ているということなのだろう。まとまった文章を書く時は、つまり今もまた、座右に置いて頼りになる相棒で、前に書いたように、知りたい言葉を調べたところが、次々と言葉たちが襷を渡して、いつの間にやら読み耽り、何を知りたかったのか、思い出せなくなって振り出しに戻ることなどざらである。これが普通の国語辞典であったなら、「雨」の次は「飴」だから身も蓋も無くて、想像の翼も拡げようがない。

 ちなみに、類語辞典のことを、英語では「thesaurus」(シソーラス)と言って、元々はギリシア語で「宝典」を意味する「thesauros」だった。だから言葉探しは、宝探しなのである。面白くない訳がない。

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