シェア
繁華街を歩いていた。 小学生だったわたしは、祖父の皺いっぱいの掌の中でぬくぬくとしていた。 時々その中で指を動かしたりずらしたりしてみせる。 そのどの指の形にも祖父は対応してくれた。逃れようとする親指を祖父の人差し指と中指がすぐさま捉えるとわたしを説き伏せるのだ、無言の指で。その度に尿意とは別の何かを感じる。それが心地いいのか悪いのかもよくわからないけれどその現象が嫌いではなかった。 商店街から漂っている縄のれんの向こうからは、コリアンダーのスパイスの香りが、畳屋からは青
仮名や英字、奇妙な図形や流線が節操ない色で光り踊る、夜。 郁にすれば、異星の街。 その店の硝子扉をひらく。 幾何学模様のモザイク壁、艶めく橙の革椅子……最奥には、ピアノ。 客はスーツの膨らんだ男ばかり。煙草と酒に澱む彼等には、乳白の地にあわく杜若の咲く袷を着た清らな訪問者は、それこそ異星人に映ったろう。 店にもう独り、又別の星からの女。 ピアノに撓だれる歌。数多のカラーピンで纏められた要塞の如き黒髪、ゴールドのコンタクトの眼、裸より淫靡なスパンコールドレス…… ……そし
「あの人、ラブレター読んでる」 オープンテラスのカフェで、向かいに座っている妻が突然言い出した。僕の肩越しに誰かを見ているようだ。 「あー振り向いちゃダメ! 気付かれるから!」 90度動かした首を再び正面――妻の方へと向ける。 「なんでラブレターって分かるの?」 「人差し指でこう……文字をなぞるように読んでるの。横にね。私も昔、ああいう風に読んでたから」 「ラブレターを?」 「そう」 一瞬、「いつ、誰からもらったんだ?」と嫉妬の念に駆られたが、とりあえず耐える
紫がかった空を真っすぐにさすその指を 放っておくことが出来なかった。 無言の助けを求めているようで。 子供達のはしゃぐ声の響く公園に、その青年はいつもいた。ただぼっと遠くを見つめる彼は、微動だにせずに隅の木陰に座る。走り回る子供達は誰一人として、彼の事を気に留めてはいないのだろう、それほどに彼の周りだけの時間が止まっているように思えた。毎日毎日同じ場所に座り続けている彼は、時にそっと地面に咲く花に触れたり、ふと揺れる木の葉に目を向ける。 いつから彼がこの公園に来ているのかも
昔からそうだけど、時々自分の誕生日を忘れていることがある。 一日の勤めを終えて郊外へ向かう電車に乗り込むと、いつものようにドア脇に立ってただ通り過ぎる街を眺める。一瞬、暗い映画館にいてスクリーンを眺めているような錯覚にとらわれる。そして、目の前を通り過ぎた桜並木のピンク色の景色が、あの頃の自分に引き戻すスイッチになった。 『NOW & THEN』 そのアルバムはいつも行くレコード屋の壁面を飾るアルバムラックの一番目立つ場所に長い間飾られていた。 真っ赤なスポー
「どうしても人を指さすときは慎重になさい」 成人した僕に、母がかけてくれた言葉。人を指さしてはいけない、と小さな頃から躾けられてきたのに、それを覆す一言だった。 『ばーか』 「何て書いたか当てろ!」 髪をくるりとアップにし、リラックスモードのアキラ。椅子に座る僕の背後で仁王立ちしている。 僕は言われるがまま、ホワイトボード化した背中を自由に使わせていた。 「『ばーか』です。ごめん!」 振り返ると、アキラは頬を膨らませることで不機嫌さを主張していたが、ついさっき食
昔書いた掌編小説で「指の綾子」という話がある。題名は覚えているのだが、内容をさっぱり思い出せない。「綾子」というのは、当時私の勤めていた食品工場の同僚の名前である。彼女は撹拌機に巻き込まれ、指だけを残してその他の体を粉々に砕かれた。親しい同僚の凄惨な最期を見た私は気が動転してしまい、綾子の指を隠し持って早退した。 その後医療の進歩と世界的な倫理観の崩壊と私の借金と引き換えに、指だけの綾子は培養技術により全身を復活させ、私の妻として家にいる。「事故」「工場」「切断」といっ
(読了目安2分/約1,200字+α) 眠る彼を起こさないよう、そっと起き上がる。空が白みだしている。 鏡に映る顔には、目の下に隈がある。ほうれい線も目立ってきた。二十代の終わりに差し掛かり、明らかに年齢が表れている。私は顔を洗い、メイクをする。 コーヒーメーカーに三杯分の水を注ぐ。朝一番に彼はコーヒーを飲む。 ウインナーをボイルし、スクランブルエッグを作る。スライスしたライ麦パン。これらはすべて一人分。 皿に盛りつけテーブルに置くと、マグカップに自分のコー
お題「ゆび」 【やりなおし】 「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん、のーます」 子どもの頃、そうやって歌いながら何度も小指を絡めあったけど、私はその約束を全て守ってきたかしら?まったく覚えていない。 「小説家はうそつくのが商売だからねぇ」 そう言いながら、アシスタントの早耳うさぎが後ろ足で耳をかきながら器用に資料整理をしている。 アシスタントにうさぎ?またそんなー、あはは。それAIの名前ですか? 編集者にそう言われて以来誰にも話していないが本当に私のアシスタント
「次はトド先輩、やりませんか?」 その声を聞き、柔道部三年、東堂(とうどう)が無言で新入部員の田原(たはら)に目を向けた。 田原は高校生に上がったばかりの一年だが、中学で全国ベスト16という結果を残している。 その田原と組んでみたい、という声が部員から上がるのは自然なことだろう。 すでに数人の上級生からあっさり一本を奪ってしまった田原が、逆指名したのは三年の東堂。 入部して半年ほどの東堂に、輝かしい成績はない。 部員不足に喘いでいた柔道部顧問の私が、彼の巨躯に目を
妹の指は丸い。 赤ん坊のように膨らみがあり、ぶよぶよしている。脂肪ではない。動かすことがないので、浮腫んでいるのだ。 不自由なのは右手だけで、健常である左の指はそうではない。五歳の子に相応しい長さと器用さを備え、そちらであればピアノを弾くのに支障はない。 「お兄ちゃんとレンダンしたい」 何がきっかけか、急に妹はそう主張を始めた。僕と同じ教室を選び、同じ先生に師事。当然ながら演奏できるのは左手のみで、通常僕らが右でなぞる主旋律を、妹はそちらで辿々しく鳴らす。 次の発表
ざわめいていたフロアは、ようやく凪の時間を取り戻した。 「閉店間際にまさかだったよね」 横の社員が呟く。 普段は人もまばらな紳士用品売場。 閉店30分前となれば来客も見込めない。 レジ締めの準備をしつつ、舐めてかかっていた。 まさかの出来事だった。 駆け込みの客が、ハンカチコーナーから20枚ものハンカチをつかみ取り「1枚ずつ箱に入れて包んで」と来た。 カウンターの果歩だけでは手が足りず、社員に応援を頼んだのだ。 2人で商品を箱に詰め、デパートの包装紙で包む。のし紙がなかっ
転校してきた美少女は家も近所。友達になりたいのに、地味な私には近寄りがたい存在だった。 その彼女が目の前で冷たく笑いながら、小箱の中身を見せる。 「指切りできる?」 彼女が越してきてから私は時間を合わせて登校している。 でも、どうしても近寄れない。 仲良くなりたいのに、最後の一歩が踏み出せず黙って後ろを歩く日が続いている。そんな奇妙な朝が続くなか、急に彼女が振り向いた。 「私と仲良くなりたい?」 「え……うん!」 あまりの幸運に心臓が飛び出しかかった。 「じゃ