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kisaragi

今のわたしたちは昔の日本人が何を感じ
何を大切にしてきたのかを
すっかり忘れているような状態で過ごしてきた。
時を記すカレンダーは新暦になり
自然界とズレを数字の知識脳で埋めて理解しているようなところがある。
昔の人々との繋がりや本当の自分を取り戻すには
古い習慣の中にある些細な事であって薄れてきたもの
昔の人々がやってきた事にもう一度目を向けることが大切なのだと感じているのである。

人間の肉体は祖先からもらったものでもあるので
自分の体にコンタクトしてみれば
大抵の情報は受け取れるものである。

それには先ず今の自分の心を止めて
自分の体に話しかけることをやってみる。
そうすると自分の霊細胞の中で昔の思いを思い出す。

これを書いている今日は二月六日の満月で、
旧暦でいえば一月十六日に当たる。
新月から月の移り変わりを数えれば十五日後の満月で
今日はその満月となりぴったりだ。
そしてまだ昔の暦なら睦月の状態となる。
睦月は陰暦正月の時で、字の如くたくさんの人が集まり
仲睦まじく過ごすときを大切にしてきたことが象形でみられる。
まだ二月の如月(きらさぎ)になっていないのである。

新暦カレンダーでの二月は豆まきや立春などの吉日は通りすぎているが
自分の感覚ではピンときていない。
このタイミングでそれらの大切は行事の意味が違ってくるのではないかと思うところがある。

昔の人たちが「きさらぎ」という時期にどんな意味を感じていたのかを
もう一度わたしたちは思い出すことで
本当の自分が覚醒するように思う。

「きさらぎ」は漢字で如月と書きますが
もうひとつ「鬼」とかいて「きさらぎ」とも読む。
「如月」は如く月だから思う如くになる月とも読み解くこともでき、
いいも悪いも心の持ちようで、鬼を神化することもできるタイミングだよということになる。

では「鬼」とはいったい何かということを先入観無しのゼロポイントに立って
感じてみるとする。

「鬼」は本当は存在しないし、実際見えないものだ。
わたしたちの心の目で人を通して鬼性を感じ捉えている。

実際どこに鬼がいるのかは自分で考えればわかることだが、
外側にある公開された情報や知識ある人に頼って鬼の存在を探しまくっても納得いくようなものに辿り着きにくいものだ。

まずは自然界と同調してみるとする。
今というタイミングで睦月ならば人と仲睦まじく過ごせなかった人はどこか心にこだわりを持ちつすぎていて、自作で心の鬼が住んでいるのかもしれないよ。ということに気がつくね。心を変えていかないとなにかと現世は生きにくくなり、それも自分で作り出していることになる。

自分で思い込みの癖や不安、恐怖感、世間の根拠に乏しいいいかげんな情報や
事件事故に心揺るがされるなどの連続の仕組みが積み重なっていけば
身体の中にいる鬼は増幅する。
鬼が増えれば新しい年に更に鬼を呼び込むことに値する。

うむ。
新年を迎える前にはこの心の鬼(思い込み)を
祓わなければまた鬼が来ることを昔の人は知っていたんだろうな。

そこで鬼退治の「豆まき」行事をするわけだね😀

豆は「魔を滅する」という言葉にかけられたダジャレのような意味を含み
それらを掌で掴み、ハッと手を開き投げ捨てる仕草を通して感じてみると
心の中の鬼や思い込みの癖が一気に指先から解放されていく。
不安や恐怖心や疑う心はここのタイミングで持たず
先に進んでいくわ!と立命を建てる日✨
鬼が神になってわたしたちに力を与えてくれる存在へと変化する。
鬼が神となるかは自分の心にかかっているんだ。

豆まきをすることによって心の祓いになるので
例え「鬼」が近くに来ていたとしても
人から出た気迫を感じ、鬼は怖くてどこかへ立ち去る。
目には見えない世界のことであるが
やるとかなりスッキリするのは本当に不思議なものだ。

自分の心の中に住み着いた不安要素を祓い
また新しい神を迎える器となる自分を作る大切な行事が
日本に脈々と続いていると思う。

祓いは武道の技の中にも組み込まれているのを観ることができる。
大東流合気柔術の我師匠から教わった合気の技のひとつ「開掌伝」と似ている。
手をハッと真っ直ぐに開くことで、どんなに強い相手も怯んでしまい
その瞬間を見逃さずに技をかけるという流れで、
自分にもよくわかない、あっという間に「勝」を取れるものである。

もし心の中に住み着いた鬼をそのままにしていたら
新しい年の神さまは鬼と化し
さらに心に鬼を呼び込むという循環は避けたいものだ。
ここからも二極化が進むといわれていることが感じ取れる。
これこそ「節分」や〜ん。笑

旧暦で如月の月の期間は、今の二月二十二日から三月だから
心の豆まきはまだ間に合うね✨
新しい神さまをお迎えするために
全力でまつりごとをやってみるのもいいよね。

如月(きさらぎ)はさらに着物を着ると書いて
「衣更着」とも表し、年間で最も
寒さが厳しい時期でもあるよと
教えてくれている。
易経から観てみると、この寒さ極まる時期に
肌で感じていない極寒の中で、
まだ見えていないこれから来る春になる兆しを感じる感覚を持たないと
直感は鈍くなることがわかるものです。
春になったな〜とだれもが思うタイミングで行動するには遅いのです!

陽気が更にくる月として「気更来(きさらぎ)」にもあてられています。
春に向かっているという気配を感じる月でもあるので
「生更木(きさらぎ)」ともいわれ、
昔の人は自然界と一体化していたことを
こういった形で残してきました。













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