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【短編】父と弔辞と新聞紙

うちの親父は変な人だった。信号が赤になった時に僕は親父のことを考えていた。車の後部座席には新聞を束にして積んでいた。

「いいか、付き合った女をどれだけ好きだったのかなんてのは、別れなくちゃだ。一番は離婚。」
なんでお母さんと結婚したの?と質問した幼き頃の僕にたいして、こんなことを言うような人だった。
「しょうもない理由で別れる奴らなんてのはな、そもそもしょうもないんだぞ。でも、愛が深いとな、きっとなぁ、味があるもんだぞ。」

親父とお袋は晩婚だった。僕が成人して間も無く母は病気にかかった。しかし生活が大きく変わるような事はなかった。ふたりは相変わらずだったし、母しか読まない(父はメディア嫌いだったので)新聞も、まだ取っていた。
だから、先月母が亡くなった時に、翌朝届いた新聞が、僕の知る限り初めて、一日中郵便受けに刺さったままになっていたのは、この家始まって以来のイレギュラーだった。その新聞を取り上げたのは親父だった。
「弔辞は、親父が読むだろ?」
「馬鹿言うな。弔いに来ちょるみーんなのまえでラブレター読めっちゅうんか。」そう言って逃げるように立ち上がった。それから、郵便受けの戸が、がしゃんと音を立てた。

親父は離婚したことなんてなかったし、若い頃に大した恋愛もしていなかったと聞いている。いつだったか、「最後まで売れ残っちまったからなぁ」なんて親父は言っていたが、お袋は、僕のあの質問に対して「お互い、勝ち抜けてきたんよ」とこっそり答えてくれた。

とにかく、弔辞は僕が読むことになった。でも実際は、親父が弔辞を夜遅くまで書いていたのを僕は知っていた。ただ親父は、みんなの前で読むもんじゃない、と繰り返し僕を説得した。親父はとにかく、手紙やら葉書はなるべく自分の手で人に渡す人だったから、あまり変だとは思わなかったが、よほど恥ずかしがっていたということも事実だと思う。耳が赤かったから。

そしてその三日後に親父はお袋の後を追った。朝になっても起きてこなかった。だから、味噌汁温めながら、そうかなとは思っていたけど。
お袋が最後に残した味噌汁、最後の一杯だけ残して置いたのは正しかった。お供物はこういうものがいいよな。

当たり前だが、ひとり残された僕はその後の仕事をきちんと全部やった。こんな僕を育ててくれた両親が、いきなりいなくなるというのはあまりにも実感が湧かなかった。だから、あまり寂しくはなかった。むしろ、やっぱり、すぐにそっち行くんや、親父。くらいに思っていた。親父は妻が大好きだった。

親父の遺体を火葬しているとき、強烈な印象が僕を襲った。人の焼ける匂い、それは想像していたのとは随分違った。親父が死ぬ二日前に、最後に口にしたお袋の味噌汁の匂いがした。お袋はよく味噌汁を作る時に新聞を読みながら作っていた。たまに、味噌を焦がしたときの香ばしい匂いは、お袋が新聞を読み耽っているという我が家のサインだった。

親父、あんた、何か、お袋が読み耽るようなものをあの世まで持って届けに行ったんじゃないやろな。

でも、お袋もそんなすぐ来ると思わなかったんだろ。だからお袋、気長に作ろうと思ってた味噌汁、焦がしたんじゃないのかい。あっちには新聞も届かないだろうしな。たいそう読み応えのあるものをお袋は受け取ったんだねえ。この世までそれが立ち込めるって…味噌丸ごと焼いたくらいしたってことかい?
自分で考えていて、可笑しかった。それから、火が消えて、がしゃん!と、音が鳴った。親父の骨を拾う時、僕は自然と笑っていたと思う。

朝が来て、郵便受けの音が鳴る。
まだ三日分、たまっている。
それを親父に持って行かせよう。
そのために今、僕は車を走らせていた。
八月半ばの陽炎を突き抜けるように。
今でもたまに思うのだが、親父はもう少しくらいがんばって、新聞を読んだり、味噌の焦げた匂いを嗅いだりした時のことを思い出して、その余韻を味わってからでもよかったと思う。これはこれで勿体無いような気がする。

何度か見逃したかもしれないと思ったが、ちょうど青になったので、アクセルを踏んだ。後部座席で音がしたが、もちろん振り返ったりはしなかった。

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