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【短編】すずめのなみだ

「すずめ、おぼえているかい?」と、お婆ちゃんは私を呼んだ。冬のこたつが私たちを一つの部屋に釘付けにしていたから、私は急な会話でもすぐに聞き返すことができた。
「何のこと?おばあちゃん。」

「すずめは小さい頃、私を助けたことがあるんだよ。覚えていないでしょう?」とお婆ちゃんが言った。
「助けたってなんのこと?」と私は聞いてみた。
「すずめはねぇ、小さい頃、本当に可愛かったんだよ。本当に小鳥の雀のようでねぇ。わたしはまぁ甘やかしたから、お母ちゃんには叱られたんだよ。」
「お母さんが?私のお母さん、お婆ちゃんに怒るんだね。」
こたつの中が何だかもわっとしてきたから、私は足を引っこ抜いて体育座りをした。お婆ちゃんはじっと姿勢を変えずに話し続けた。
「それでね、ある日のこと。このこたつの中のように暑い日があったんだけどね。急にすずめは泣き出したんだよ。そばには私しかいなかった。私はすずめの方に近寄ろうと腰を上げたんだけど、その時に倒れちゃったの。後でわかったんだけど、脱水症状が出てたのよ。軽い熱中症だったのね。二階で洗濯物を干していた父ちゃんが、すずめを心配して降りてきたら、わたしが倒れているからびっくりしちゃって。すぐに救急車を呼んでくれた。わたしは半日ほど入院して、少しの点滴だけで済んだの。」
お婆ちゃんはこっちをゆっくり見て、「そんな事があったの!ふふふ。」と笑いながら、お茶をずずずっと飲んだ。

当時のわたしは高校生。その話を、「なんだか変な話ね」と思いながら聞いていた。そしてその数日後、当時付き合っていた彼にその話をした。
「すずめ、多分それ今でもそうだぞ。」と彼は言った。
「え?いっくん、それってどういう意味?」とわたしは聞き返した。「いっくん」というのが彼のあだ名だった。クールというわけではないが、どこか繊細で、優しいけどどこか近寄りがたい雰囲気のある人だった。モテるわけでは無かったが、どこか人の気を惹くところがあった。
「すずめって、なんて言うかその、うーん、そう。予感に敏感なんだよ。」隣に座っていた彼がわたしの方に顔を向けた。「たとえばこの前、担任の香山先生が俺らの目の前で蜂に刺されて、びっくりした弾みで腰をやっちゃった時があっただろ?でも、その日の朝からすずめは何かを感じ取って、元気がなさそうだった。まるで今日何か嫌なことが起こることを、なんとなくわかっているみたいだった。そういうことって、君は自分で自覚したことってないの?」と彼は少し興奮気味に、わたしに言った。わたしも彼の方を向いてから「全く知らなかったわ」と言った。

「あ、でも」とわたしは続けて「そういえば、お母さんが、すずめはよくわからない時に泣いていたって話をしてくれた事があったわ。」と言った。それから、わたしはそのことを思い出そうとして、顔を下に向けた。履いているローファーの先が見えた。そこがまるで凍っているみたいに、指先が痛いと思った。
こたつに入りたいな、と思うとお婆ちゃんの姿が自然と浮かんだ。お婆ちゃんのこたつの上にはみかんが置いてあって、お婆ちゃんがそれを食べながらお茶を啜る姿が浮かんできた。わたしは「なんでこんなことを急に考えているんだろう」と思いながら、口だけはちゃんと、さっきの話の続きを喋っていた。お母さんが、わたしになんて言ったのか、それをちゃんと思い出しながら、いっくんに話していた。いっくんは、わたしが上の空になっているのに気がついていたけど、ずっと黙って聞いてくれていた。
でも、急に彼はわたしを抱きしめた。あまりそういうことをする人じゃ無かったから、わたしはびっくりした。「大丈夫、大丈夫、落ち着いて。」といっくんは言った。
「え、何が?」とわたしは言って、その時初めて自分の声が震えているのに気がついた。いっくんは、わたしの顔をのぞきこんで、それからそっと右手の人差し指でわたしの頬の辺りを撫でた。わたしはその指を見て、自分が泣いていたことに気がついた。どうしてかはわからなかったけど、わたしのなみだは、一粒だけ瞳からこぼれ落ちていた。
「いっくん、いっくん」とわたしは言った。
「一緒に帰ろう。家まで送る。すずめのことを信じてるから、わかるんだ俺。多分だけど、何かあったんだと思う。」
それから、いつもはゆっくり進む小径を、足速に私たちは歩いた。いつもは隣の肩から感じる体温が、今日はわたしの一歩先で、積もった雪を溶かしていた。わたしはもう泣いてなどいなかったけれど、涙の跡はちゃんと頬にこびりついていたし、いっくんの右手は、人差し指だけが赤くなっていた。
「いっくん、わたしこたつに帰りたいな。早く帰りたいな。」とわたしは言った。いっくんは、立ち止まって振り向いた。「そのこたつって、さっきの話に出てきたこたつか?」と彼は聞いた。「お婆ちゃんが座っているこたつのことか?」

もう、あれから五年も経った。いっくんは、今ではわたしの旦那さんになっていた。
あの後のことはあまりよく覚えていない。ただ、「うん」とわたしが返事をすると、彼が急にわたしの手をとって、引っ張りながら歩いてくれたことだけは覚えている。家に着くと、みんなの騒がしい声が聞こえてきて、いっくんは口を動かしてから(何か言っていた)、わたしの手を離した。わたしは靴を脱ぎ捨てて走った。いつもは律儀に締められている居間に繋がる扉を、やはりわたしも閉めないまま通り抜けて、こたつの中で雪のように冷たくなっているお婆ちゃんに駆け寄った。周りを囲っていた家族が、「すずめ、すずめ!顔、顔!」と言った。わたしが顔を上げると、お婆ちゃんの閉じた瞼から、一粒のなみだがこぼれ落ちるのが見えた。私はそのなみだを、右手の人差し指で掬い取った。それからわたしは、わんわんと泣いた。今までで一番大きな声だったと思う。
その後、お母さんが、いっくんにお礼を言ってから、車で彼を家に送った。車の中でわたしは、右手の人差し指を、彼の同じ指にひっかけて、彼の肩に頭を任せていた。家に着くと、わたしも一緒に車を降りて、彼の家の前で、彼を抱きしめた。わたしは、右手の人差し指が痒くなるのを感じた。

その時の痒みのことをよく覚えていて、今でもよく思い出す。たとえば今日のような蒸し暑い日でも、思い出すのだ。お婆ちゃんのお墓の前で、わたしは右手の人差し指を、同じ手の親指で少し掻いている。
わたしはあれから滅多に泣かなくなった。だけど、知らない間に涙が流れているかもしれないな、とお墓の前で思う。というのも、今日はからっと晴れた日なのに、合わせた手を解いて目を開けてみると、自分のしゃがんだ影の真ん中で、砂利が水を弾いているのだ。
「いっくん、人差し指かして!」とわたしは立ち上がって叫ぶ。彼は桶を向こうに置いて、ちょうどこっちに戻ってくるところだった。彼は歩くのをやめ、小走りになる。
彼も、あの日のことをちゃんと心に刻んでいるんだと思って、わたしは嬉しくなる。「お婆ちゃん、大好きだよ!」とお墓に向かって言ってから、ようやく触れられる距離にきた彼の指の前で、わたしはそっと目を瞑った。

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