"親の愛情"と毒親の定義 #14

「親の愛情にまさるものはない」は、愛情の受け取り手にとって一概に言えることなのか。

たとえば、過干渉な親や亭主関白的な親に育てられた子供が自分の足で歩むことを覚えなかった場合、親の愛情は他の何よりもまさっていると言えるのだろうか。


"親の愛情" がタイトルになる時によくある美談のひとつとして
「自分の家はお金に恵まれてはいなかったけれど、受験の時に親がなけなしのお金とたくさんの支えの言葉をかけてくれて一緒に進むことができました」
というのがある。

"お金" という「形のある愛情」にはあまり恵まれなかったけど、それに勝る程の「形のない愛情」を注いでもらったパターン


自分の場合はその逆で、ありがたいことにお金には恵まれていた。

(ここにおいて、今からする話は母を失ってからの10年間に限り、尚且つおじいちゃんおばあちゃん子になって数年後には祖母も寝たきりになってしまった為、主に祖父に関する話になる。)

最終的には親にお金を出して頂いて進学や一人暮らしができている。
欲しいものは買ってくれたし、別にいらないものまで買ってくれたし、色んなところにドライブにも連れて行ってくれた。


でも今に至るまでの10年間「形のない愛情」に関しては、精神的な支えをひとつずつ削がれた記憶しかなくて。


たとえば日頃かけられたのは

「自分の子供は何もできない」
「子供は親の言う通りに育たなければいけない」


といった、過干渉な親や亭主関白な親によくありがちな言葉の数々。


"ジェネレーションギャップ" という言葉でまとめてしまえばそれまでだが、趣味の否定、人間関係の否定、やりたいことや行きたい人生の方向も大抵否定、他者との比較は日常茶飯事。

考え方や意見がぶつかった時には全て "我が儘" の一言で片付けられる。(←これに関しては従姉妹や叔父、叔母に対しても同様。)

更に祖父本人も自らの意見を二転三転させる為、家族だけでなく家族以外も巻き込み手を焼かせることも多い。

祖父と、同居していた従姉妹や叔母との喧嘩も絶えなかった。




次第に生まれてきた、

「祖父に従わなければいけない。機嫌を取らなければいけない。」という感情と「このままだと個性を失いかねないからもっと自分で好き勝手にやりたい」という感情の狭間で押しつぶされそうになる状態

に正直今でも苛まれている。


↑このシチュエーションを

「結局はお金を出してくれてるわけだし、なんだかんだ愛されてるじゃん〜ツンデレなだけだよ〜」

と捉えるか、

「どんなにお金をかけてくれても、自分が辛いと思ったらそれは毒親だよ。親子間でちゃんとした人間関係ができてなかったらダメじゃない?」

と捉えるか。


正直自分は "親の愛情" に関する話が出る時、毎回そこに引っかかってしまう。


「お金を出しているんだから、余計なことを言うな」「人生自由に歩むのは間違いだ」という姿勢の祖父を、「それでも自分の親だから」という感情でどこまで見ればいいのか。
答えが見つかる日は来るのだろうか?

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