見出し画像

「こころ」を殺し続けている

自分の、人の、こころや思いがわからない。
人と関わる中で、感じることや思うことがあったとしても、どうやって伝えていいのかわからない。

自分が好きな人、嫌いな人、おもしろいと思う人、つまらないと思う人が、わからない。
なんとなく感じることがあっても、どう言葉にしたらいいのかわからない。
言葉にする前に、合っているのか合っていないのか、正解なのか不正解なのか、そういう「どうでもいいこと」を考えてしまう。

そうして、言葉に詰まり、思考が止まり、気持ちが止まり、止まったエネルギーは身体に積もり、澱み、また動きを鈍くする。

幼い頃、早々に折れてしまった自信を取り返せずに、わたしはずっと人との深い関わりを避けてきてしまった。

自閉スペクトラム、発達障害のようなところがあると思う。
こだわりがあったり、物事の切り替えが下手だったり、マルチタスクが苦手だったり、完璧主義だったり、自分の世界観が強かったり、触覚や聴覚が過敏なところがあったり、逆に鈍麻な部分があったり。

それに対して、自閉スペクトラム受動型であろう母親は、自閉スペクトラム積極奇異型であろう父親は、わたしの見えている世界など全く分からなかったと思う。

保育園に生後3ヶ月から入っていたが、発達障害が今ほどメジャーではない世代なので、「ちょっと変わった子」くらいの扱いだったと思う。
そして、困ったときにフリーズすることはあったと思うが、癇癪を起こしたり暴れることはなく、外面がよかったので、気付かれることも、特別な配慮を受けることもなかった。

「母(人)とのこころの繋がり」をつくれない経験、生活は、静かにゆっくりとわたしのこころを沈ませ、奥に奥にしまい込ませた。

自分のこころの機微がわからない、他人のこころの機微もわからないから、何とか社会生活を送るために「正解」を求めた。

わかりやすいルール、わかりやすい決まり。
表面的な条件で繋がる仲間。

学校なら、同じクラス、部活で、会社なら同じ部署、同僚で。
そういう枠を超えて繋がってくれる人はいたのに、わたしは「自信のなさ」から自分から動けず、相手に求めてばかりだった。

相手のことなど考えられず、表面的な「繋がり、枠組み」や「言葉」だけに囚われて、言葉にならない「仕草、行動、振る舞い、感じ」を見ることができなかったり、なんとなく違和感を感じても、スルーしてしまう。

そうしてまた、「表面的な繋がり」をズルズルと、続ける。

本当は、息苦しい。
上辺だけをなぞることも、上辺だけを見ることも、上辺だけで繋がることも。

私が、私自身が、沈めてしまった自分を、深くにいる自分を、ずっと殺し続けている。

取り繕えば取り繕うほど、沈んでもがいて感じている自分を、殺して、奥底に押し込み続けている。

自分しか、その自分を救えない。
自分に会いに行くしか、方法がない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?