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大学におけるオンライン授業の問題点

「オンライン○○」
2020年新語・流行語大賞のトップ10に入った言葉である。感染症対策として、会議、授業、飲み会までオンラインで行われているが、その中で、大学生の僕が1番身近なのはオンライン授業である。大学の授業がオンラインで行われるようになって約半年が経ったが、感染状況を踏まえれば、現在も、そしておそらくこれからしばらくの間も、オンラインでやれるものはそうせざるを得ない状況が続くだろう。オンライン化による利点もあるので、今の状況を鑑みれば利点を挙げてオンライン化を推奨するのももっともなことであるが、そのようにしたことで授業のオンライン化に伴う弊害が見えなくなるのは避けなければならない。今年の約半年間オンライン授業を受けて感じたことと、これまで約2年間、対面授業を受けてきた経験を踏まえて、オンライン授業の短所を考えてみた。

分かりやすい生活面の問題

大学生にとって、授業がオンラインで行われることの弊害はどのような点にあるだろうか。おそらく最初に挙げられるのは、特に今年入学した1年生に関して「大学に行かないので友達ができない」であったり、「ずっと画面を見なければならないので疲れてしまう」というような、主に生活面の問題だろう。確かに1年生は、極めて新しい友達を作りにくい環境に置かれている。授業もオンラインだし、サークル・部活のガイダンスだってオンライン。今までは多かった人と接する機会が、一気に失われてしまった。この点は、本当に「オンライン化の弊害」であるし、1年生は本当にかわいそうである。しかし、オンライン化の弊害はこうした生活面にとどまらない。学業の面でも、深刻な弊害が生じているのである。

学術コミュニケーション

「コミュニケーション」と一口に言っても、そこには場面ごとに様々なコミュニケーションがあるだろう。たとえば両親や友達と日常生活の中で話すときは、必ずしも厳密なニュアンスまで精確に伝わらなくてもいい。必要最低限のことが伝われば、あとは仲良くやれればそれで良いのである。しかし、学術の場においてはコミュニケーションにおける精確性が極めて重要である。術語はその定義をしっかり理解して適切に用いる必要があるし、自分の考えを説明するときには、そう考えた契機、理由、そう考えることの妥当性といったことを論理的に述べなければならない。生活におけるコミュニケーションでは、受け手の側が相手との関係性、それまでの出来事といった文脈を踏まえて内容を理解することができる。しかし、言わば「学術コミュニケーション」の場面ではどうかというと、「論理的に」述べるためには、その文脈自体を述べる側が作り出し、言葉で伝えなくてはならないのである。大学生は、そのような学術コミュニケーションのスキルを習得するために、まずは授業で教授の話すことを精確に理解すること、つまり学術コミュニケーションの上手な「受け手」になることが目指されるのである。

上手な「受け手」になるために

そうした学術コミュニケーションにおける上手な「受け手」になるためには、対面授業で教授の話を聞くということが非常に大きな役割を果たしているように思うのである。教授の話を、そのニュアンスといったレベルまで精確に理解するためには、教授が説明においてどのような言葉を選んでいるか、という「言葉選び」の現場に遭遇することが非常に重要である。たとえば、「○○というよりは△△」という言い方がなされれば、「○○と言い換えてはならない」「言いたいのは△△ということにに近い」ことが把握でき、教授の言おうとすることのニュアンスをより限定していくこと、つまりはより精確に理解することができるのである。また、説明者である教授自身による補足的な「言い換え」に出会うことも、上手な受け手になるために有効である。1つの言い方だけではなく、複数の言い方で表現されたものを受け取ることにより、1つの言い方では曖昧だったものがより明瞭に見えてくる場合があるのである。言葉を選ぶことと、言い換えにより言い方を増やすことがどちらも精確な理解に繋がるというのは、矛盾しているようにも思えるが、言葉の足し引きを調整しながら、適切な部分を浮かび上がらせていくようなイメージと言えば良いだろうか。

オンライン授業では、同機型といって対面授業とほぼ同じように授業を展開する場合もあるが、非同機型で、一方的に教授が話す動画が公開されたり、授業の内容を説明したファイルがアップロードされてそれを読むだけという形で行われている授業も少なくない。そうなれば、教授による「言葉選び」の現場に遭遇する機会は少なくなっているし、アップロードされた文字資料には「言い換え」がほとんど見られない。そうした環境にあっては、授業の内容を精確に理解することは難しくなっていると言えるのではないだろうか。

「質問」の場について

ここまでは学術コミュニケーションにおける「受け手」になるための視点から考えてきたが、それでは大学生はどのように「述べ手」のスキルを習得するのだろうか。思うに、それは①レポートを書くこと、②質問をすることに拠る部分が大きい。①レポートを書くことは、自分の考えを論理的に述べる訓練ということで、「述べ手」になるために重要な場であること当然である。それでは、②質問をすること について、ここでは授業の内容に関して質問する場面を想定してみたい。授業の内容について、理解できなかった部分を質問するということは、より精確な理解をするための1つの方法であると同時に、「自分は何が、どのようにわからないのか」を教授に説明するという点で、学術コミュニケーションの「述べ手」になるための訓練の場の1つであるように思う。根本的な部分に関する説明であれば、質問するのも簡単かもしれないが、細かな表現、ニュアンスの理解についての質問をするためには非常に高度な表現技術を要するということは、3年間大学生をやっていて僕自身が痛感したことである。
対面授業の場合、授業終了後に先生のもとに伺って、直接質問をさせてもらえる場合が多い。直接質問する場合、1回で質問の意図が伝わらなかったら何回か言い直して伝える努力ができるし、そのようにして質問を丁寧に説明しようとすれば、もしそれが「述べ手」として未熟な説明であっても、頭のいい教授はその質問の意図を汲み取って、質問を言葉にして確認してくれる。そうした経験をすることで、自分の伝えたいことを精確に伝えるための方法を体得することができる。一方のオンライン授業では、上に述べたような非同機型の授業では直接質問できる機会は皆無であるし、教授と対話する機会は極めて少なくなってしまっている。

また、オンライン授業でもネット上に「質問コーナー」が設けられる場合もあるが、それは教授と対面して直接質問することに比べて効率性が低い。これはメールでのやり取りと電話でのやり取りを考えてみればすぐに分かるだろう。質問を文章で「書く」ことと、それを「読む」ことは、その場で声に出して話し、それを聞くよりも時間が掛ってしまうのである。こうした効率性の問題から、オンライン授業では「繰り返し質問しにくい」という側面もある。対面の場合、学生が教授の回答を上手く理解できなかったら、更に質問を続けることができるだろう。しかし、オンラインではもう一度、文字入力を含めた一連の質問プロセスを経る必要があり、繰り返して教授に質問を投げかけることは、時間を費やしてしまう点で教授に対して少し申し訳なく思う部分がある。また、単純に質問すること自体を面倒に思ってしまう節もある。優しい教授方は、気にせず何度も質問していいよ、と言ってくれるかもしれないが、実際、僕自身も繰り返し質問することを躊躇したことがあった。もしそこで「なんとなくの理解」のまま質問をやめてしまったら、それこそ上手な「受け手」になることを諦めてしまったことと同じであるし、質問しないことは「述べ手」になる訓練の場を1つ失っていることでもある。

「オンライン授業生」が上級生になったとき

以上を踏まえると、オンライン授業では学生の学術コミュニケーション力を養成する力が低下している。それは「述べ手側」「受け手側」のどちらにおいても言えることであり、論説を精確に理解し、そして自分の考えを伝えるための力が充分に養われない可能性がある。これは学問を本業とする大学生にとっては非常に深刻な問題である。今の大学の方針では、講義形式の、「理解」が求められる授業はオンラインで実施して、ゼミなどの「議論」「対話」することが目的の授業を優先して対面で行う傾向にあるが、そうなると、入学時から講義形式のオンライン授業ばかりを受けさせられて、学術コミュニケーションのスキルを充分に習得していない「オンライン授業生」が、上級生になった途端いきなりゼミや研究室に入れられて「理解しろ」「述べろ」「対話しろ」と言われることになる。それはとても無理な話である。特にゼミでは、発表者の発言をすぐに理解して、それを踏まえて議論を進めていく力が必要とされる。学術コミュニケーションのスキルが未熟であれば、仮に時間をかけてコミュニケーションを取ることができたとしても、瞬発力が必要とされるゼミでは歯がゆい思いをすることが想像されよう。
「友達ができない」という生活面のことだけでなく、こうした学業の面にもなお、オンライン授業しか受けられない1年生が「かわいそう」な理由があるのである。

しかし、冒頭にも書いた通り感染状況を踏まえればオンラインを推奨せざるを得ないのも現状だ。オンライン授業の中で、学術コミュニケーションのスキルをいかに養うかを問うべきではないだろうか。

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