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怒りという「生きよう」

オラオラ(気が大きくなる)のはアドレナリン?ノルアドレナリン?ドーパミンみたいなハナシをしていて、、、昔から、よく浮かんでいたことを思い出しました。

悲しみで人は死ぬが、怒りでは死なない

いやいや「怒り」で死ぬこともあるだろう(気が大きくなったり、その攻撃性から突発的なおもいきったことをして、、、亡くなることもある)

でも、怒りで自殺することはないよな、、、って

これがよくよく、時折、浮かぶのです。

そういう意味では「怒り」というのは、
「それ」を怒りに変換することによって
「生きよう」としているのだなあ、、、、て

怒りという「生きようとするエネルギー」

なので、それ以来、、、
怒っていたり、怒っているなにかをみると

「 ああ、生きようとしてる 」

っておもったりします。

悲しみや自己否定によって自死してしまうぐらいなら、
「怒り」というのも捨てたもんじゃない(使いよう)

悲しみなどの
消極的なエネルギーの攻撃性は
「内=じぶんに向かいがち」
自己否定、自己憐憫、被害者意識、、、、

これではマズイぞ(消えちゃうぞ)っていうときに「外向きの攻撃性(怒り)」が出てきたりするんじゃないか?

だから「 ああ、生きようとしてる 」

生きようと奮い立たせている、、、

わたしの父は、いまとなっては年齢とともに大人しくなりましたが、ずっとイライラ怒っている人でした。いま思うと、、、生きることにいつもギリギリで一生懸命「生きよう」と「そんなふうに怒って」頑張っていたのかもしれません。

で、パッと燃えたかとおもったら、
またシュン、、、としたり、、、

そういう感情のプロセス(いつもの流れ)をみていると、、、、

ああ、ここで「怒り・外向きの発散」が出たから、次の展開としては「消極的な自分」がでてきて、、、、みたいな行動パターンもみえてきたりします。

悲しみが「怒り」となって溢れでてきたりもしますね。悲しくて、つらくて、わかってもらなくて、さびしくて、、、怒っている。うまく甘えられずに怒っていたり、、、

内向きの攻撃性は「じぶん」に向き、、、
外向きの攻撃性は「外・誰か・なにか」に向く

自分は傷つけていないけど、
その代わりに、、、誰かを傷つけたり、
誰かは傷つけていないけど、自分を傷つける。

この行ったり来たりも起きがちです。

やって⇄後悔⇄やって⇄後悔

こういう「発散のサイクル」が出来上がってしまうと、DVや暴力的なことが習慣化して「歪んだ補正行動」をしないと「じぶん」が居た堪れない、保っていられない。

そうしないと
「保てないココロ」がそこにあるのかもしれません。

その堂々巡り
ベクトルが向く方向の違いでしかない
憤りからの攻撃性

「 なんの解決にもなっていなさ 」

というジレンマをかんじたりもします。

苦しみというエネルギーの発散

二元性の「わたしとあなた」の世界で起きがちなことであり、それが「わたし」、、、家庭、、、、世界規模で起きていたりします。

このオチ、、、、まったく「前向きなまとめ」が 
いまの時点で浮かびません(笑)

わからなーい

に、、、くつろいでみようとおもいます。

▶︎ YouTubeチャンネル🦜
非二元エッセイ じぶん って なんだろう?
https://www.youtube.com/c/wrsayaka


ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp

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