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政府主導の政策で「ヒト・モノ・カネ」を動かし賃上げを|【特集】価値を売る経営で安いニッポンから抜け出せ[PART4-「政策」を考える]

バブル崩壊以降、日本の物価と賃金は低迷し続けている。 この間、企業は〝安値競争〟を繰り広げ、「良いものを安く売る」努力に傾倒した。 しかし、安易な価格競争は誰も幸せにしない。価値あるものには適正な値決めが必要だ。 お茶の間にも浸透した〝安いニッポン〟──。脱却のヒントを〝価値を生み出す現場〟から探ろう。

賃金の上昇を伴わない物価の上昇に国民の不満は募るばかり。企業努力も必要だが、政府主導の政策による後押しも不可欠だ。

文・滝田洋一(Yoichi Takita)
日本経済新聞社特任編集委員・テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』解説キャスター
1981年慶應義塾大学大学院修了後、日本経済新聞社に入社。金融部、チューリヒ支局、米州総局編集委員などを経て現職。2008年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。近著に『コロナクライシス』(日経プレミアシリーズ)。


 経済協力開発機構(OECD)が9月末に2023年の経済見通しを発表した。突然クイズで恐縮だが、日本、米国、英国、ドイツはA、B、C、Dのどれに当たるか。

 経済成長率 A=1.4%、B=0.5%、C=0%、D=マイナス0.7%

 ヒント。A、B、C、Dの23年のインフレ見通しは次の通り。

 インフレ率 A=1.98%、B=3.37%、C=5.89%、D=7.55%

 最初の経済成長率について、日本はCかDと思ったあなた。メディアの自虐的なコメントに漬かりすぎていないだろうか。日本のインフレ率が5%以上であることはまずない。じらさずに正解を示すと、A=日本、B=米国、C=英国、D=ドイツなのである。

 世界経済が逆風のなか、米欧ほど経済成長が下振れせず、インフレ率も比較的低く抑えられている。日本経済は健闘しているはずなのに、物価について不満を抱く人が少なくない。その理由はハッキリしている。手取りの賃金があまり上がらないからだ。

 8月の日米の消費者物価上昇率で絵解きしよう。物価上昇率は総合で米国が前年同月比8.3%、日本は3.0%。米国の高さ、日本の低さは鮮明だが、実は食料とエネルギーの上昇率をみると、米国2.0%、日本2.3%と日本の方がわずかに高いくらいである。

 問題は食料とエネルギーを除いたコア物価指数の上昇率だ。米国の6.3%に対して日本は0.7%にとどまる。米国は賃金の上昇がモノやサービスの価格に転嫁され高インフレになっているのに対し、日本は賃金が上がらないからコア物価指数も上昇しない。

 賃金が上がらないと家計の財布も厚くならず、経済の主力エンジンである個人消費も活発にならない。焦点を当てるべきは中低所得層のかさ上げである。世帯主の所得を低い方から高い方へ5分の1ずつ分けて、消費の変化をみれば、その意味がハッキリする。

 3~7月の勤労者世帯の消費支出は、コロナ禍前の19年3~7月に比べると1.6%減ったが、所得の低い方から5分の1に属する第1分位の世帯は5.7%減った(下表参照)。以下、第2分位5.5%減、第3分位3.7%減、第4分位4.3%減となっている。そうした中消費が増えたのは所得の高い方から5分の1に属する第5分位の世帯で、7.0%増加している。

所得の高い世帯だけが
コロナ前と比較して消費が増えている

(出所)内閣府の資料を基にウェッジ作成
※「定期収入五分位階級(*)」別における消費支出の変化。2022年3~7月の19年同期比
(*)「定期収入五分位階級」とは全ての世帯を5等分したグループで、 所得の低い方から順次、第1、第2、第3、第4、第5分位階級という

 所得の高い世帯の消費が増えたのは、コロナ禍でたまっていた貯蓄が消費に向かったリベンジ消費だ。おかげで都心部の百貨店は有卦に入っている。その半面で日用品を取り扱うチェーンストアの売り上げはもたついている。所得の低い世帯に食料やエネルギー価格の上昇が直撃しているからだ。

個人消費の活性化のために
政府が取り払うべき「壁」

 岸田文雄政権はガソリン代の支援に加えて、電気代の直接支援に乗り出す。小麦価格も据え置き、パンなどの値上がりを防ごうとしている。国内総生産(GDP)の半分以上を占める消費が腰折れしてしまっては、日本経済が失速してしまうので、こうした家計のテコ入れ策を否定するつもりはない。

 ただし当たり前のことながら、消費の原動力は家計自身の所得であって、補助金など政府による一時的なつっかい棒ではない。とりわけ第1分位や第2分位の世帯について、所得そのものの底上げが重要な課題になってくる。

 こういうと、政府からは時給1000円に向けた最低賃金引き上げに力を注いでおり、22年の最低賃金は全国平均で前年比31円増の961円になった、との反論が返ってきそうだ。事実、人手不足を映して派遣やパートなど非正規労働者の賃金も上昇傾向にある。ならば時給の上昇に伴い、非正規労働者の年収は増えているのだろうか。

 残念ながら答えはノーである。1997年を100としたパート労働者の「時給」は2021年には130近辺まで増加した。ところが「年収」は105くらいまでしか増えていない。時給と年収の伸びのギャップを解くカギは「労働時間」の短縮である。1人当たり月間総実労働時間は80近辺まで減ってしまったのである。

 もう十分に収入が増えたので、パート労働者は働く時間を短くしたのだろうか。いやそんなことはない。ここで出てくるのが税や社会保険料の負担という「壁」である。年収が税や社会保険料の負担の対象外に収まるように、自らの労働時間を調整するパート労働者が多く存在するのである。

 家計を支えるために働く女性は増えたが、どのくらいの割合で就業調整が行われているかを、野村総合研究所がアンケート調査した。それによると、配偶者のいる女性のパート労働者の実に61.9%が、働く時間を抑える就業調整をしている。年収103万円を超えると所得税を、106万円に達すると社会保険料を支払わなければいけなくなるため、そうなる前に働く時間を抑えているというのだ。

 こうした年収の「壁」が取り払われるなら、年収が増えるようにもっと働きたいか。そう問うと、「とてもそう思う」が36.8%、「まあそう思う」が42.1%と、合わせるとおよそ8割の人が労働時間を増やすと回答した。

 壁を越えるとドンとのしかかるのは、税金より社会保険料の負担だ。年収104万円の場合、所得税負担は年500円くらいだが、年収106万円以上になるとおよそ年15万円の社会保険料負担がいっぺんに降りかかる。

 つまり年収106万円まで働くと、手取りはかえって年90万円余りに減ってしまうのだ。この「働き損」の解消こそが重要な政策課題になってくる。年収の「壁」がなくなれば、家計の収入が増えるうえに、企業の人手不足が緩和され、生産、所得、消費の拡大が実現する。

 例えば、その社会保険料の一定部分を財政資金で補填すれば、年収の「壁」はずっと緩和されることになる。財務省は財政負担を嫌うだろうが、労働時間の増加に伴って、家計の所得や消費が増えていけば、その分の所得税や消費税の税収で元は取れるだろう。

 「壁」の突破は、将来の実入りに期待する先行投資と言い換えられる。働く人を重視する「新しい資本主義」を掲げる岸田政権にふさわしい政策といえるのではあるまいか。

 円安で日本は生産や輸出の場として競争力を回復しつつある。その機会をとらえて、日本に投資を呼び込む戦略も欠かせない。

 日本はもはや高賃金の国ではない。ドル換算の平均賃金をみても、21年には日本が4万489㌦、韓国が3万7196㌦だった。前提となる21年平均の対ドル相場は、円が109円75銭、ウォンが1143.95㌆だった。

 ところが22年7月の平均では、136円72銭、ウォンは1307.95㌆。対ドルでの下落幅は円の方がウォンよりもはるかに大きい。22年7月の対ドル相場で日韓の21年の平均賃金を計算し直すと、日本が3万2503㌦、韓国は3万2532㌦と、僅差ながら日本が韓国を下回る。日本貿易振興機構(JETRO)はそう試算する。円安による日本の賃金低下を嘆くよりも、賃金コストの面で国際競争力を増したととらえるべきだろう。

 外国企業の直接投資に頼るばかりが能でない。日本企業が海外で蓄積した内部留保を、国内に引き戻せないか。経済産業省によると海外子会社の内部留保は20年度末時点で37兆5677億円。北米に10兆8006億円、アジアに19兆3066億円を保有している。

 増え続ける巨額な内部留保の国内還流を促すには、企業にインセンティブを与えることが欠かせない。利益を日本に戻す際に、課税されては企業にとって元も子もないからだ。そこで、海外子会社の内部留保を日本に還流させた場合に、税の優遇を講じるのが「リパトリ(本国への資金還流)減税」である。

 日本でも海外からの受取配当の95%を非課税とする制度が採用されている。ここではさらに一歩を進めて、配当の全額非課税化、資金を還流した際の源泉徴収免除の拡大を求める声もある(9月28日付『日本経済新聞』朝刊、大機小機欄)。米トランプ政権が恒久措置として海外からの受取配当を非課税としたことなどを踏まえた提言だ。

KLAUS VEDFELT/GETTYIMAGES

原子力の最大活用を進め
日本の産業を後押しせよ

 経済安全保障の観点からサプライチェーン(供給網)の意識が高まり、重要産業の国内シフトが進んでいることも、こうした投資の国内回帰を促すことになろう。ただ、その際に障害になりかねないのは、「エネルギーの壁」だ。電力コストの上昇や電力の需給逼迫といったエネルギー環境の厳しさは、円安のメリットを帳消ししかねない。

 今年の夏は老朽化した火力発電所の再稼働でなんとか乗り切ったものの、今度の冬の電力需給は一段と綱渡りとなる。電力の供給不足をお願いベースの節電で乗り切るような手法は、エネルギー政策の名に値しない。事態の打開には原子力発電は避けて通れない。

 岸田政権は原子力の最大限の活用を打ち出した。原子力発電所の再稼働であり、原発の新増設であり、次世代原子炉の開発である。当面の課題は原発の再稼働であり、政府は地元自治体への説得に全力を尽くすときである。

 資源価格の上昇と円安で日本からは巨額の所得が流出する。貿易条件の悪化による所得の流出(交易損失)は、内閣府によれば4~6月期には年換算で15兆4867億円。これは資源輸出国に取られる税金のようなもの。本腰を入れたエネルギー政策で日本の産業を後押しすることなしには、賃金と物価の好循環を実現させるのは難しい。

 賃上げはまず企業努力だが、政策による後押しは極めて重要だ。政府が一歩乗り出して、「ヒト・モノ・カネ」を動かし、賃上げを実現する。的を絞った経済政策の出番である。

出典:Wedge 2022年11月号

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