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カメラを持って北九州の山と歴史を巡ってみた - 皿倉山祈願塔

皿倉山には不思議な場所が2箇所あります。

ネットでも、本でも。

情報が少な過ぎるように思うのです。

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一箇所目は、煌彩の森コースを通って、巨石と看板が目印です。

階段をのぼった右手には。

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巨木の根っこに小さな石仏たちが現れます。

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よく見ると、新しい石仏も、古い石仏も混じっています。

右端の石仏の首付近には切れ目のような線も見えます。

ここがどういった場所なのか、皿倉山のホームページにも、北九州市のホームページにも見当たりません。

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さらに山頂方面に進むと、赤い布が目立つ「修行大師」が現れます。

「修行大師」とは、弘法大師・空海が若い頃、修行時代の姿です。

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修行大師像の周辺と、右手には、建物と多くの石仏が見えます。

住宅もありますが、誰も住んでいないようです。

Googleの地図には「法輪禅寺」とあるが、レビューも星のみで詳細は分かりません。

ネットで調べると「高野山真言宗法輪禅寺」「旧松広寺」とだけ分かりました。

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さらに山頂方面へ進みます。

石段を登り切ると、表登山道と合流。

表登山道沿いに少し登ると、右手にひらけた場所が出ます。

そこが二つ目の不思議な場所です。

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祈願塔八十八ヶ所 お砂踏場。

お砂踏場とは
各霊場のご本尊様の写し仏をお祀りし、持ち帰った八十八ヶ所霊場のお砂を踏みながら礼拝することで、お四国を巡ったことと同じ功徳をいただけると考えられてきました。
この「お砂踏み」を用いた「写し霊場」は盛んに日本各地に設けられ、今でもお遍路に出掛けられない人々を迎えています。

四国八十八ヶ所霊場会ホームページから引用
https://88shikokuhenro.jp/osunahumi/

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お砂踏場の逆側には石仏や石碑が並びます。

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右は弘法大師、左は子安観音像です。

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馬頭観音像。

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女性のよう?

何の石仏かは分かりませんでした。

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不動明王。着色がまだ少し残っています。

突き当たりを左に曲がると

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頭だけの石像が、他の石仏と一緒に屋根付きで大切に祀られています。

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一番奥には祠も。

ここは一体どんな場所なのか、以前調べたことがあります。

ネットで調べてもほとんど情報がなく、たどり着いたのが民話でした。

ふるさと"やはた"=子どものための郷土民話=第二集「忘れられた皿倉山祈願塔」に。

情報はそこで止まっていたのですが、さらに詳しい情報が最近別の本で見つかりました。

祈願塔(番外札所奥之院)
この祈願塔は皿倉三合目の台地にあり、本尊は祈願大師である。
昭和八年の初夏、古今未曾有の大旱魃があり、豊前、筑前の大小無数の河川は悉く枯渇し、湖沼の底は干割れ、東洋一とされた八幡製鐵所も休業の止むなきに到った。また村落の者は田植の水を求めて呆然と天を仰ぎ、雨の降らんことをこい願った。
時に誰言うことなく、昔弘法大師が神泉苑で雨乞いをし、甘露の雨を降し、五穀の種を結ばしめ給うた故事に習い、皿倉山三合目の台地に於て、千把焚きの雨乞い祈願を行なおうということになり、各地より薪を背負って続々と登山し、三七、二一日間一心に祈念した。萬人の至誠に天も感応されたのか満願の日、東風と共に一陣の黒雲現れ、忽ちの内に天を覆い、雷鳴と共に沛然たる豪雨降り出し、その夜より甘露の慈雨となって、三日三晩降り続いた。依って筑豊の山野、田畑は豁然と緑新に蘇り、商工の人も亦巳が業務の再開を喜悦して拝謝した。
ここに千把焚の世話人相集まり、弘法大師の霊験に対しその恩徳を深謝し、報恩と爾後人々に対し守護給わらんことを念願して浄財を募り、祈願大師並びに不動明王、子安観音菩薩、六地蔵尊等を勧請して祈願塔と名付け、三国第一の霊地と崇信した。八幡大師講信者一同 昭和九年七月一三日建立。この時より帆柱四国奥の院とした。
昭和二〇年の大東亜戦争終結と共に人々の信仰心が薄れるにつれ、番人を救ったこの聖地も何時しか竹木繁り覆いて、御本尊の尊容も拝めず、あまつさえ一歩だに足も入れることの出来ない程荒廃した。
千把焚の世話人は、情操回復の為にも一日も早く霊地の再開を願っていたが、昭和二八年五月二〇日に観音寺に住職として来られた豊後国山香の天住山小武寺の次男徳永大空師に、此の霊地の維持管理を委託した。大空和尚は信徒と協議し、賛成を得て各々鉈、鎌、鋤を持って祈願塔に集り、数日にして旧に倍する祈願の霊場とし、月詣りのみでなく、春秋二度の大祭を盛大に執行するまでになった。
昭和三九年三月、本四国八十八ヶ所を巡拝しつつ、高野山真言宗本山の布教師講習会が行われたのに、徳永大空師も推せんされて参加することになった。大空師は用意した八八の袋を持ち、四国八十八ヶ所本堂の聖砂を敷いて帰り、同所に四国八十八ヶ所のお砂踏場を完成させた。

出典
北九州の史跡探訪
152ページ 八幡西区 32番

この本に書いていることを時系列にすると

昭和8年 大旱魃(千把焚きの雨乞い祈願)
昭和9年7月13日 祈願塔建立
昭和20年 大東亜戦争終結 祈願塔の地が荒廃
昭和28年5月20日 豊後国山香(現・大分県杵築市山香町大字小武)の天住山小武寺の次男徳永大空師に、維持管理を委託
(昭和28年6月には北九州大水害)
昭和39年3月 四国八十八ヶ所のお砂踏場を完成

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北九州大水害については、祈願塔入り口にある看板に説明がありました。

昭和28年、北九州大水害以前は小さな滝があり、小さな寺と不動明王の石像の下で滝にうたれ合掌念仏する善男善女の姿を見ることがあった。この樅の木はお寺のすぐ前にあり、樹齢百年を超え、『大師樅』といわれた

小さな寺とは、最初の「法輪禅寺」のことだったのか、それとも別の寺なのか。

詳しくは分かりません。

ただ、真言宗、不動明王が関連するということは、修験道の場所だったのかもしれません。

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ネットや本でもこれ以上知ることはできませんでしたが、花や水が替えられたりと、誰かが手入れをしているようです。

また何か分かることがあれば、追記していきたいと思います。


おわりに

今回のカメラは、購入当時最軽量の一眼レフ「Canon EOS kiss x7」です。

登山用カメラはSONYのRX100M7を使っていましたが、歴史史跡や山はこちらの方が、自分の好きなイメージで撮れました。

ちょっと重たくなるけど、こちらメインで撮っていきたいですね。

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それと今回は祈願塔までだったので、モンベルの登山靴(ラップランドブーツ)ではなく履き慣れたスニーカーで行きました。

そしたら足がラクなこと…。

ローカットの登山靴がいいのか、単にこの靴が私の足に合わなかっただけなのか。(モンベルの靴はネットでは評判がよかった)

低山登山用に靴探しを始めるつもりです。

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