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考えてなかった守田、考え始めた守田【中村憲剛×守田英正|特別対談・前編】

 2022年4月より、「WHITE BOARD SPORTS」でスタートする中村憲剛プロジェクトオンライン講習会「KENGOメソッド」&オンラインサロン「憲剛塾」のサービスを基軸に、中村が培ってきたサッカー観を参加者に共有していくと共に、技術・戦術論から指導論まで中村自身もアップデートしていく場となる。

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 そのオープニングコンテンツとしてお届けするのが「中村憲剛×守田英正」の対談。今、一番深く耳を傾けたい二人のセッションが、ここに実現した。

中村憲剛×守田英正_ZOOM

 サッカー日本代表・森保ジャパンの中盤の要として欠かせない存在にまで上り詰めた、守田英正。2021年10月、カタールW杯アジア最終予選で苦戦を強いられていた日本は、オーストラリアとのホームゲームで起死回生の勝利(2◯1)を飾った。チームを救ったのは、かつて川崎フロンターレの中盤でプレーしていた守田と田中碧の二人のMF。この試合で先発に抜擢されると、 それまで機能不全に陥っていた攻撃ビルドアップがスムーズに回り始め、組織の機能性が向上していった。

 守田は「相手を見ながらサッカーをする」ことの大切さを、よく口にする。敵の立ち位置を試合序盤に察知、把握し、それに応じて自分たちのポジショニングを決めていき、チーム全体でボールを紡いでいく。戦況をしっかり構造的に分析することができる彼らの登場が、硬直していた日本の組織に新風を吹き込んだ。以降、森保ジャパンは現在まで5連勝。完全に流れを一変させた。

 2018年のプロ入り以降、守田が「相手を見ながらサッカーをする」考え方を養い、実践してきた背景に、一人の男の影響が存在する。

 中村憲剛。言わずとしれた、元フロンターレのバンディエラである。誰よりも技術と頭脳を駆使してきたMFとの出会いが、守田にとってのターニングポイントだった。中村がサッカー選手として重要視してきた「止める」「蹴る」「見る」「立つ」。この4つのプレー概念をフロンターレという環境のなかで守田自身が見直し、吸収していった。その作業は、そのまま現代フットボールの重要項目を習得していくこととイコールでもあった。

 中村はなにを伝えていったのか。そして守田はいかに成長、進化していったのか。混じり合うサッカー観のなかで、彼らが大切にするプレーの本質が見え隠れする。3回に渡って掲載する対談の前編は、フロンターレ時代の両者を紐解く。

※中編、後編は近日公開!

インタビュー=林遼平
写真=守田英正提供、ホワイトボードスポーツ編集部

中村「守田はいろんなプレーに手を出すタイプ」
守田「それは今も変わっていない(笑)」 

──「止める」、「蹴る」、「見る」、「立つ」。サッカーにはいろいろな要素があるなかで、流通経済大学から川崎フロンターレに加入した守田選手は、プロに入って大学時代とのどんなギャップを感じていたのでしょうか?

守田 まず流経大からフロンターレに入る前、練習参加をさせてもらったときに、自分の実力がこんなにプロで通用しないものなのかと打ちのめされたのを覚えています。

中村 そうだったの?

守田 若手がやるすごく簡単なトレーニングをやらせてもらったのですが、それすらひどかったです。できないことが多過ぎました。自分の特徴としては「守備」というか「ボールを奪う力」を評価されていましたけど、一方で周りがうまい分、自分のところで失ってはいけないと考えていて……。だから、最初はボールを奪われないことを意識していたんですけど、その能力を高めることに苦労しました。そこを意識し過ぎて自分の特徴である守備、運動量のところも見失うようになって、よく悩んでいましたね。そこで憲剛さんが声をかけてくれるんですけど、そのアドバイスもたまにで、毎回毎回はあえて言わない。たぶん僕がパンクするからと考えてくれていて、そのさじ加減というかタイミングにすごく助けてもらっていました

中村 覚えているよ(笑)。最初に僕が守田を見たのは、プロに入る前の年の函館での夏季キャンプかな?

守田 そうだと思います。(脇坂)泰斗と(三笘)薫と一緒に行きました。

中村 僕的にはそのときの印象が良かったので、逆にそういうふうに本人が考えていたのは意外でした。僕としては「この段階でこれだけやれればいいのでは」と思っていて、毎年、有望な大学生が練習参加に来ますけど、そのなかでもできていないどころか、普通にこなしているように見えた。うちの練習のなかで、学生がそう見える時点で大したものだなと思っていました。守備にしても体が強く、無理が効くのでおもしろい選手だなと感じていましたね。

そのイメージはフロンターレに入ってからも変わらなかったですし、当時、誰かに「夏過ぎには(エドゥアルド・)ネットを食うかもしれないよ、これ」と言っていたほどでしたから。ただ、年間を通してやれることが増え、ルーキーイヤーで日本代表に選ばれたことで、2年目は少し背伸びをしてしまったかなと。個人的にはもう1年遅く代表に選ばれてほしかった。思いのほか早く代表に行ったことで、乗っているときは良かったけど、逆に悩むところも増えたと思う。そのタイミングで都度アドバイスはしてきましたが、守田が言うようにこちらが言い過ぎてパンクしてしまうと良くないので、ギリギリその手前を見計らって話すようにしていました。

あと、早い段階でやれることが増えていったけど、いろいろなものに手を出すタイプでした(苦笑)。そこでリズムを崩し、自分で取り返すという流れを繰り返している時期があって、2年目は一番苦労したのではないかなと。そこを抜けた3年目の2020年は、(田中)碧とアンカーの位置を争っていましたけど、途中からしっかり勝ち取っていった。最後のあたりは、ほとんど言うことなかったよね?

守田 そうですね。全部手を出したいのは今でも変わっていません(笑)。当時のフロンターレは強かったので、自分がこれさえやっていれば勝てるという土台がありました。一方で、それが自分には足枷のようにも感じていて。結果的に今、海外にいるから言っているのではなく、もともと早く海外で活躍したいという思いがあって、独り立ちしてチームを変えられる思考、行動をできないといけないという焦りがありながら、いろいろなプレーに手を出していたところがあります。

中村 途中で、これはもう海外行くのは避けられないだろうなと思っていたよ。年齢的にも大卒3年目でギリギリだったし。それでも本人は、ギリギリまで言って来なかったですけどね(苦笑)。

守田 言えないですって(笑)。チーム愛というか、川崎愛、クラブ愛、ファンもそうですし、いい意味でフロンターレは異質だと思っていました。居心地が良くて、ずっとここにいたいという魅力を感じていました。ただ、自分の生き方を考えたときに、それだと良くも悪くも落ち着いてしまうなと。僕は自分に甘いので、そのままでは厳しさを求められない。だから、環境を変えることが一番のきっかけになると感じていました。

守田「憲剛さんと出会い、サッカーの世界が広がった」

中村 ある意味、大卒でも力をつけたら海外へ行ける事例を、フロンターレが作ることになった。これは逆に、クラブが成熟してきた証拠でもあると思います。ただ、大卒で海外に行かれてしまう事例が出てきたので、同時にクラブに長くいる選手も育てないといけない課題が新たにできたと思います。ちなみに守田はフロンターレでなにを学んだと感じている?

守田 「考えることをやめない」ことです。

中村 なるほど。それはみんなが言っていることでもある。特に中盤はオンのところだけではなく、オフのところでも相手と味方のことを常に考える。それが今も残っているのはうれしい。

守田 あとは、「止めて、蹴る」もそうですし、憲剛さんもよく言いますが、自分はそもそも「フリーの定義」に衝撃を受けました。「止めて、蹴る」は、みんなイメージできると思いますけど、それに加えて、フリーの作り方、ボールを受けるタイミング、受ける場所が非常に難しい。これは言葉にするのが難しいですね……。あとは憲剛さんに任せます(笑)。

中村 おい、そこをあなたに言語化してほしいんだけども(笑)。端的に言うと、「普通の人たちからするとそこはパスコースではないというところが、僕らからするとパスコースになる」ということですかね。例えばですが、背中に相手を背負っていても、それを「フリー」と思うかどうかで状況が大きく変わってきます。

他にも、相手DFの間にパスを通そうとするときに、そこの間がかなり狭くても、そこを狭いと感じるか、十分通せる間隔だと思うか。あとは、普通は出さないような3、4mの短い距離でも細かいパスをつなぐこととか。他から見れば、「そのパスいるの?」となるかもしれないですけど、僕たちには自分たちのリズムを作るために必要なこと。風間(八宏・元川崎フロンターレ監督)さんが当時言っていたのはそういうことですね。

最初の例で言えば、要は背中に背負っている状態でも、ボールを当てて、そこに自分が入っていけば相手と2対1の数的優位になるから、イコールもうそれはフリーだろと。最初に言われたときはみんな「?」と思いましたし驚きましたけど、そのあと言われた通りに受け手が相手を背負っていても、出し手が関係なくパスを出してサポートに入っていくと、相手マーカーからするとその瞬間に対応すべき選手が受け手と出し手になるので、守備の選択肢が2つになるわけです。

それで、相手も的を絞りにくくなり、いい崩しができたりする。実際にやってみると、「なるほどな」となりましたね。「フリーの定義」はたしかに新加入・新卒の選手が最初にびっくりするポイント。今までやってきたサッカーでは「奪われたり、危ないから出すな!」と怒られるようなプレーだったのが、ここでは「そこはフリーだから出してね、ちょうだい」は衝撃ですよね。ただ、そこに入れないと僕らのサッカーでは違いを出せないので。そういうことかな、感じたことは?

守田 ありがとうございます(笑)。今の話を聞いてもわかりますよね。こうやって僕が話しても「憲剛さん、全部知っているじゃないですか」となるんですよ(笑)。だからあまり僕が話す必要があるかどうか。

中村 いや、それを守田の口から聞くことが大事なんだよ。

守田 憲剛さんにちょっとだけ上から言えるのは、守備のところくらいです(笑)。

中村 ちょっとどころじゃないよ。デュエルのところはお任せしていましたから。だけど、見ていて楽しかったな。守田はすくすく伸びる側面と同時に、わかりやすい危うさがあって。たまに反抗的だったり、結構、おもしろかったです(笑)。

守田 全部、的を射ているし、納得できます。以前にも“危うさ”と仰っていましたが、俯瞰して自分で見てもそうだなと思います。

──ちなみに以前、守田選手は「憲剛さんがいるといないとではチームは違うサッカーになる」と話していたことがあります。その発言にはどんな意味が含まれていたのでしょうか。

守田 憲剛さんが試合に出ているだけで、相手が脅威に感じてくれるんです。今の神戸でいうイニエスタ選手みたいな感じです。ボールを持っているだけで、そこにいてくれるだけでパスコースができる。もちろん持っていなくても、相手が持たせたくないから他の選手が空いてくる。あと、2020年のコンサドーレ札幌戦で自分がミスをして失点して負けた試合を今でも覚えているんですけど、僕はマンツーマンの守備が苦手なんです。でも、憲剛さんはどこまで自分が降りたら誰がついてくるのか、またどこまでついてくるのか。そういう見極めがすごくうまくて、そこが自分には足りていなかったです。相手がマンツーマンで来たときに、限りあるスペースをどう使うかは当時のチームでも憲剛さんと(大島)僚太くんにしかできなかったと思います。

中村 イニエスタ選手なんて、お世辞にしては出た名前がすごすぎるわ。ありがとう。でも、そこはペップ(ジョゼップ・グアルディオラ監督)のバルセロナを見たときからずっと意識していたところだね。[4-3-3]のバルサと違って当時のフロンターレは[4-2-3-1]で自分はトップ下だったけど、左右のハーフスペースに降りたり、立ったりしてプレーするのは意識していました。守田がアンカーで僚太が少し前に出て逆三角形を作るやり方があって、それこそ相手マーカーがどこまでついてくるかは常に見ながらやっていました。

2020年はチームのシステムが[4-3-3]になり、主に左のインサイドハーフだったので、ビルドアップ時に左CBの(谷口)彰悟から縦パスを僕がもらってアンカーにいる守田に斜めに落とせば相手がやりたい守備が崩れると話していた。「そこに立ってくれていれば勝手に相手が崩れるから」と戦術練習の時から言っていた記憶があります。

守田 覚えています。落としのボールに対して若干、距離が遠くて、「(アンカーの位置から)1、2歩前に出て来い」とよく言われていました。

中村 そう。でもその1、2歩が「怖い」と言っていたよね。「そこは慣れて」と話していたと思う。

守田 今、自分がインサイドハーフをやっていて、例えばアンカーの選手が前に来てくれないと、落とす選手のほうが怖いという感覚がわかりました。落とす立場は自陣のゴール側に向かってボールを下げるので、多少アンカーの選手が感じてくれないと奪われたら速攻を食らう。インサイドハーフをやって、ようやく「落とす側が怖い」という感覚を理解しました。

中村 そういう意味でも、本当に試合中から細かな指示はかなり出していたと思う。「もうちょい前に来て」とか「今は来るな」とか。あれだけ言われたのに文句を言わずによくやってくれました(笑)。ただ、その数メートルで相手の守備組織が崩れるか崩れないかが決まってくることは理解してくれたと思う。

守田 いや、本当にありがたかったです。それができるようになって、今ようやくサッカーが楽しいです。そういった一つひとつの感覚はできるようにならないとわからないと思っていて、もちろんまだ100%ではないですけど、サッカーがわかるようになってすごく世界が広がりました。

(中編につづく)

中村憲剛(なかむら・けんご)

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1980年10月31日生まれ、東京都小平市出身。小学生時代に府ロクサッカークラブでサッカーを始め、都立久留米高校(現・東京都立東久留米総合高校)、中央大学を経て2003年に川崎フロンターレ加入。2006年10月に日本代表デビュー、国際Aマッチ68試合出場6得点。2010年には南アフリカW杯メンバーに選出される。川崎の中心選手として2017年、2018年、2020年とJリーグ優勝、2019年にルヴァンカップ優勝と数々のタイトルをもたらす。個人としては2005年から2019年まで15年連続Jリーグ優秀選手賞、Jリーグベストイレブン8回選出。2016年には歴代最年長36歳でJリーグ最優秀選手賞。2019年に左ひざ前十字靱帯を損傷し、長期間のリハビリを強いられながらも10カ月後に完全復活を果たす。2020年限りで現役引退。

守田英正(もりた・ひでまさ)

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1995年5月10日生まれ、大阪府高槻市出身。金光大阪高校から流通経済大学に進学し、2017年の4年時に関東大学選抜、ユニバーシアードサッカー日本代表に選出。複数のJクラブのオファーを受けるなか川崎フロンターレを選び、在学中に特別指定選手に承認。同年12月にはインカレで優勝し、大会最優秀選手に輝いた。2018年、鳴り物入りで加入した川崎では、プロ1年目ながら定位置を確保。さらに同年9月、日本代表に初招集され、森保一監督の初陣で代表デビューを果たした。2019年は苦しいシーズンを過ごしながらも、3年目はJリーグベストイレブンに選出される出色の活躍を示した。2021年1月、ポルトガル1部のサンタ・クララへ移籍すると、デビュー戦でゴールを奪うなど、すぐさま存在感を示した。W杯出場を狙う日本代表の中盤のキーマンの一人。

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