哲学とは何か──住むこと、語ること、問いかけること
ここに「すべて」を書いたつもりです。
1. はじめに
哲学とは何か──この問いを、全くの無前提な状態で問うことはできない。哲学とは何かという問いに答える(応える)ためには、その問いに答える者(応える者)が既に有している「哲学」に対する理解がなければならないのである。哲学とはある種の思考活動だと⾔うことができるが、何について、またどのように考えれば「哲学的な思考」と⾔うことができるかは、思考する者の哲学への態度にかかっているのである。つまり、哲学をしつつ、当⼈はどのように世界に居合わせているのかということが問題なのだ。
万⼈にとっての哲学の規定を与えることはできないだろう。可能なのは、哲学という営みに⾃らがどのように⼰の存在を賭け参⼊しているのかという、哲学する者⾃⾝の態度を内省することである。そのような内省によってのみ、哲学というものが⽰されうる。
本稿は、以下のように議論が展開される。まず、⼈間が世界のうちに存在してしまっているという「事実」を表⽴たせる。とりわけ⾒るべきなのは、各⼈は⼰の思考を介して世界と関わっているということである。次に、終わりのないように思われる問題やトピックを論じることにどのような意義があるのかということを検討しよう。というのも、哲学はしばしば「答えのない問いに向き合うものだ」と⾔われるからである。最後に、哲学的思考が⾃⼰を真に「⽬覚めさせる」ということ、⾔い換えれば、哲学的思考が⾃⼰を「⾃⼰⾃⾝」であるように要請するということを主張する。
2. 世界のうちに住むこと
⼈は⼰の⽣を常に伸び拡げているけれども、⼈は⼈として⽣まれた時点で死という可能性を有しており、その存在が限界づけられている(1)。つまり、⼈は有限な存在者としてこの世界に産み落とされ、そしていつの⽇か必ずこの世界から退場しなければならないという宿命を背負いながら⽣きざるをえないのである。
⼈は、世界に投げ込まれるという仕⽅で存在させられる。そのように世界に⾃分の意志が介在しないかたちで放り込まれたにもかかわらず、⼈として存在してしまったがために様々な制約が課されている。ハイデガーの表現を借りれば、⼈は世界内存在(In-der-Welt-sein)という根本体制を有して存在してしまっているのである(2)。根本体制(Grundverfassung)とは、⼈として存在する限りそのような様式で存在せざるをえない構造を指している。
世界に居合わせている(住まう)⼈間は、様々な事物、他者、また⾃⼰⾃⾝と関係しつつ世界のうちに存在する。⼈は意識するにせよしないにせよ、そのような関係を考慮しつつ存在しているのである。ゆえに、ある意味で⼈間は世界に「馴染んで」存在しているといえよう。というのも、⾃分が存在しているという事実が成り⽴っているということが、様々な関係を築きつつ存在してしまっているということを意味しているからである。とくに不都合がなければ諸関係は⽬⽴たない。そのように諸関係が⽬⽴っていないという仕⽅で⽇常を過ごせているということ、そのことが世界内存在している⼈間の実情である。
ところが⼈間存在は特異な仕⽅で世界に存在している。すなわち、⼈は思考しつつ存在する。つまり、思考しつつ世界のうちに住んでいるということ、このような⼈間の性質が⼈間の独⾃性を⽰している。ここで「思考」を、⾃分を取り巻く諸関係を⾔語によって表⽴たせることだとしよう。⼈はただ⽣きるのではなくて、⽣きているということを⾃分で際⽴たせながら⽣きることができるのである。
⼈はいつの間にか⽣きている(⽣かされている)。⾃らの意志で⽣まれた者はいないのである。けれども、⼈はあれこれ苦労しながらも世界に住む。⾃分の⽣活をなんとか維持し、様々なモノや他者と関わりつつ、世界に「馴染んで」⽣きているのである。けれども⼈は奇妙なことに、思考しつつ存在する。ゆえに⼈は⾃分が「馴染んで⽣きている」という事実を、⾔語によって表⽴たせることが可能である。⾔語が⼈間を、特異な動物たらしめているのである。
3. 語りえないことを語る
⼈間は⽣物である。だから⼈は(意識するにせよしないにせよ)常に⾃⼰保存と⾃⼰複製に駆り⽴てられている。⼈間の思考活動は脳の⼀部が担っているので、⼈間の思考は、⾃⼰を維持しつつ拡張しようとするために働いてしまうのである。というのも、脳が現在のような機能を有しているのは、⽣物学が⽰すような進化論的背景があるからである。つまり、ヒト(ホモ・サピエンス)の現在の脳の仕組みは、私たちの祖先の環境において⽣存と⽣殖に有利になるように機能してきたものなのである。
⾼度な知能を持つことは必ずしも個体の⽣存と⽣殖の利益になるとは限らないが(なぜなら⾼度な知能の維持にはコストがかかるからである)、⾼度な知能を持っているほうが居合わせている環境に対応しやすいことは確かだろう。地球上の⽣命体のなかでおそらく最も⾼度な知能を有する⼈間は、環境に順応するだけでなく、環境を⾃⾝が⽣きやすいように形成することができる。この環境を形成する⼒を⽀えているのが、「いま・ここ」に現れていない事柄を想像する⼒なのである。
⼈間の想像⼒は、映像的な想像もなしうるが、際⽴っているのはやはり⾔語をはじめとする記号による想像だろう。記号によって推論できる──このような特徴を有しているからこそ、⼈間は他者と(誤ることはあるにせよ)情報量に富んだ効率的なコミュニケーションがとれるのである(3)。また⾔語記号は⾃分を取り巻く世界の、また⾃⼰⾃⾝の認知を可能にしている。⼈間は⾃らが諸々の事柄を認識していると認識しつつ存在しうる存在者なのであり、その意味で他の存在しているもの(das Seiende)より卓越している。
⾔語記号による思考が、⾃⼰⾃⾝の直接的な経験を超えた事柄を思考することを可能にした。このような⾔語能⼒を獲得したことは進化⽣物学的には、遺伝⼦の複製にある程度有利であったか、認知機能の副産物(by product)であったかを意味するにすぎない(4)。しかしながら、⽣きている各⼈からすれば、⾔語を習得していることは決定的な意味がある。というのも、⼈間は思考する際にどうしても⾔語を⽤いざるをえないし、何かを認識する際には習得した⾔語が影響してしまうからである(5)。いかなる背景によってヒトが⾔語を有したかは論争が続いているけれども、重要なのは、いまこの世界のうちにいる⼈間が⾔語の影響を受けつつ存在しているという事実である。
⾔語によって、⼈は「形⽽上学」的なことを考えられる。「形⽽上学」とは何か。この問いは⾮常に問題を含んだ問いである。ここでは、形⽽上学の⼀つの側⾯を⽰すような規定を与えよう。すなわち、形⽽上学とは、問いによって既存の⾔語表現を越えようと試みる知の体系である。形⽽上学的な議論では、当⼈の直接的な経験を超えた事柄について語られる。つまり、⾔葉を介してしか決して理解しえないもの──存在、真理、精神、神などといったもの──が語られるのである。それらは既存の語では⼗全に説明しえない(またおそらくこれからも⼗全な表現によって⾔表されることはないだろう)。というのも、それらについての命題は有意味な命題になりえないからである(6)。この世界のうちにある事柄を根拠としては形⽽上学的な命題の真偽はつけられないのである。
けれどもウィトゲンシュタインによれば、命題の形で「語りえない」形⽽上学に関わる事柄を語りたがる衝動を、人は有している。というのも、形⽽上学的で扱われるようなトピックを⼈が避けることができないからである。どうしても関⼼を寄せてしまうからである。形⽽上学は、絶対的価値について探究する(7)。絶対的価値とは、他の何かのためではない、それ⾃体の内在的価値、究極的価値のことをいう(8)。真に価値のあるものは何か、⼈⽣の意味とは何か、⼈⽣を⽣きるに値するものたらしめているのは何か、正しい⽣き⽅とは何か──ウィトゲンシュタインによればこれらの問いは意味がない(ナンセンスである)。けれども彼は次のようにも述べる。もしそれらの問いがやむにやまれず問われるのなら、切実な問いであるならば、それらを問う者には真に重要なことが⽰されている、と。⼿段と⽬的の連鎖をそれ以上遡⾏することができないと各⼈が確信するところ、そこに「絶対的価値」がある。「絶対的価値」が各⼈の⽣の意味の「地盤」なのである。
語りえないことを語ろうとすること、そして実際に語ってしまうということ──このような試みは、⼈間が⾔語を有し⾃らの経験を超越した事柄にも⾔及しようとする欲望(形而上学的欲望)から⾏われる。それは⼈が⾔語の限界と正⾯から衝突しつつ、限界を超えてゆこうとすることに他ならない。
4. 自己解釈としての哲学
存在するものはすべて、「⾃⼰」に現れるものではないだろうか。というのも、存在していると⾔いうるすべての事柄は、「この私」(つまり各⼈)に対して⼰を⽰す(sich zeigen)ことでしか認識されないからである(9)。確かに⼈間に認識されずとも存在しているものはあるだろう。けれども、そのような「⼈間の思考から独⽴したもの」が存在している/存在していないと判断するためにもある種の存在了解が必要なのである(10)。
とすれば、何かを思考することとは、ある意味で⼰⾃⾝に問いかけることだと⾔えないだろうか。つまり、「⾃分は〇〇についてどのように理解しているだろうか」と問うこと(Fargen)こそが、「思考」だと⾔えないだろうか。思考とは⾃分を取り巻く諸関係を⾔語によって表⽴たせることだった。⾃分に関係する事柄を⾔葉にもたらすために、⾃⼰が当の事柄についてどのように理解しているかと問うのである。その際、問いかける者も、問われる者も「この私」である。
このように⾃⼰⾃⾝に問いかけ、⾃⼰が答えて(応えて)いくこと──この問いと応答の循環うちに、⼊り込んでしまうこと、どうしようもなく巻き込まれてしまうこと、これこそが「哲学すること」である。⾃⼰が、絶対的な価値に向かって⾃⼰⾃⾝を問い質すという「問答(Gespräch)」、この思考の運動が哲学に他ならない。
そのような哲学的な思考には「居ても⽴っても居られなさ」や「問わずにはいられないという切迫さ」が伴うだろう。というのも哲学的な問いが⽴てられるということは、⼰の全存在が、また⾃分を取り巻く状況⼀切が関わるようなものが問題になっていることを意味しているからである。⾃分の存在をまったく気にかけない⼈間など、存在するのだろうか。「⼀切(Alles)」を⽀えている意味や地盤を問い確かめずに、気にも留めずに⽣きてゆくことなどできるのだろうか。各⼈にとって形⽽上学的な事柄が、(ふだんその関⼼が前⾯に出てきていなくとも)実際のところ気がかりであり続けているはずなのである。
問いの円環のうちに⼊ることは、真の⾃⼰に「⽬覚める」ことを意味する。というのも、哲学においては「⾃⼰がすでに理解していること」を解釈することが求められるわけだが、それはつまり⾃⼰解釈を徹底することであるからだ。すでに漠然と理解している「⾃分の究極的な関⼼事」を問いによって明るみに出す(⾔葉にもたらす)という哲学は、「⾃⼰⾃⾝」であることを⽬指すことだとも⾔えるのである。
5. おわりに
哲学とは何か。哲学とは、⾃⼰を解釈することである。というのも、哲学する者は「絶対的価値」を問い求めるようとするわけだが、そのような問い求めは⾃⼰がどのように事柄を理解しているかということにかかっているからである。
私たちは世界内存在している。だから哲学するきっかけは、世界から、つまり他者から与えられることもある。ところが、哲学を遂⾏するのは思考する存在(者)としての「この私」でなければならない。哲学においては「⾃⼰」──事柄に問いかける精神、状況そのもの、思考をなす⾔語、思考の基盤となる⾝体──が思考の限界をなすからである。
哲学する者は孤独である(11)。なぜなら、⾃⼰は様々な事物や他者と関係しているものの、「問う」という意志ないし精神は⼰のものでしかありえないからである。
哲学する者はある種の信仰を有している(12)。それは、「ホンモノ」への信仰、つまり「真理」への信仰である。「馴染んだ」⽇常の価値観を投げ捨てて、それ⾃体「絶対的価値」であるところのものを求める信仰である。
⼀⼈でも多くの者が、⾃⼰⾃⾝が賭けられている事柄を問い、⾔葉にもたらそうと哲学することを願う。
脚注
(1) Heidegger、1927 年、⾴参照。
(2) Heidegger、同書、53 ⾴参照。
(3) ヒトの⾔語には⾳声コミュニケーションと世界の認知という2つの機能がある。つまり、⼈類であれば誰でも(何らかの⾝体障害がなければ)そのような⾔語を習得し、操作するということである。⻑⾕川眞理⼦・⻑⾕川寿⼀、2000 年、263-264 ⾴参照。
(4) ピンカーはヒトの⾔語能⼒は⾃然淘汰の産物であるとするが、チョムスキーは⽣得的であるけれども認知機能の副産物であると考えている。⻑⾕川眞理⼦・⻑⾕川寿⼀、同書、263-264 ⾴参照。
(5) ⾔語を明⽰的に使⽤していないときでさえ、習得した⾔語によって認知の仕⽅が異なる。例えば、⾊の認識は習得した⺟語の体系に⼤きく依存している。⼈間の思考は彼/彼⼥の習得した⾔語に決定されていると結論付けるのは早計だが、習得した⾔語が認知に影響を与えていることは確実である。だからこそ私たちがなすべきなのは、「私たちの⽇常的な認識と思考──⾒ること、聞くこと、理解し解釈すること、記憶すること、記憶を思い出すこと、予測すること、推測すること、そして学習すること──に⾔語がどのように関わっているのか、その仕組みを詳しく明らかにすることである」(今井、2010 年、214 ⾴)。
(6) ウィトゲンシュタイン、2003 年、147-148 ⾴参照。
(7) 古⽥徹也、2019 年、255-258 及び 266 ⾴参照。
(8) 絶対的価値は「相対的価値」と区別される。相対的価値は、特定の⽬的によって条件づけられた価値、⼿段としての価値である。古⽥、同書、255 ⾴参照。
(9) Heidegger、前掲、28 ⾴参照。
(10) 最も極端な例を挙げれば、「無」である。ふつう⼈は「無」というものが有ると理解しているだろう。
(11) Nietzsche、1887 年、103-105 ⾴参照。
(12) Nietzsche、同書、152-156 ⾴参照。
参考文献
Friedrich, Nietzsche, Zur Genealogie der Moral (1887), Hamburg: Felix Meiner 2013. (フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』中⼭元訳、光⽂社古典新訳⽂庫、2009 年
Heidegger, Martin, Sein und Zeit (1927), Tübingen: Max Niemeyer 2006.(マルティン・ハイデガー『存在と時間』全四巻、熊野純彦訳、岩波⽂庫、2013 年)
──, Grundfragen der Philosophie, in: Gesamtausgabe 45, herausgegeben von Friedrich-Wilhelm von Herrmann, Frankfurt am Main: Vittorio Klostermann 1984. (マルティン・ハイデッガー『哲学の根本的問い』⼭本幾⽣、柴嵜雅⼦、ヴィル・クルンカー訳、創⽂社、1990 年)
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野⽮茂樹訳、2003 年
プラトン『饗宴』中澤務訳、光⽂社古典新訳⽂庫、2013 年
五百部裕・⼩⽥亮編『⼼と⾏動の進化を探る』朝倉書店、2013 年
今井むつみ『ことばと思考』岩波新書、2010 年
道元『正法眼蔵(⼀)』増⾕⽂雄訳、講談社学術⽂庫、2004 年
⻑⾕川寿⼀・⻑⾕川眞理⼦『進化と⼈間⾏動』東京⼤学出版、2000 年
古⽥徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』⾓川選書、2019 年
増⾕⽂雄『釈尊のさとり』講談社学術⽂庫、1979 年
渡邊⼆郎『⼈⽣の哲学』⾓川ソフィア⽂庫、2020 年
短い文章の後の、微妙な長さのあとがき
これは僕が大学を卒業する直前に書き上げた、「哲学とは何か」という名の短い文章です。
この文章が読者であるあなたに何か遺せたなら、僕の22年間の苦悩は報われたのかなと思います。(当然よくわからないな、と思った方もいらっしゃると思いますが笑)
この文章を書き切ったことで、僕の「人生の目的」は果たされたと勝手に思っています。
「人生(の意味)とは何か」という問いに答えることが僕の「人生の目的」でした。つまり、どんな人にも当てはまる人生の構造・特徴を知りたかったんです。雑な記述であると思われたかもしれませんが、このnoteに「すべて」を書いたつもりです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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