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生きること、死ぬこと、応えること

昨日、バイトの同期の一人が亡くなったことを知った。死因は、不整脈による心停止であるらしい。突然の死だ。

彼とは知り合って2年以上経つが、雑談をするようになったのはつい最近のことだ。というのも、彼は深夜で僕は早朝のシフトであり同じ時間に一緒に働くことはほとんどなく、事務的に仕事を引き継ぐことが多かったからである。

1か月ほど前になってようやく、砕けた話をするようになった――そんな矢先の出来事だ。


現代における「信仰」

僕を含めて多くの現代人は、「明日以降もしばらく生き続けるだろう」という前提のもと、日々様々な活動に従事している。今日勉強するのは、働くのは、家庭を持つのは、健康を維持するのは、将来も生活が営めるだろうと期待しているからこそできるはずだ。

明日以降も自分は生きているだろうという信念。これこそが、現代で最も強固な信念だろう。


僕にはどうしても「生命至上主義」が馴染まない。「ただ生きてさえいればいい」という信仰が、人間を生存の奴隷にしているとどうして気づかないのだろう。

ただ、そのように生へと盲目的に駆り立てられる動物的・奴隷的な生は、「生存の倦怠感」を麻痺させる。この点を考慮すれば、「楽観的に」生きたいと望み、実際に「楽観的に」生きている個体にとっては生命至上主義を採用することが妥当だと言うことができるだろう。「自分は自由に生きている」と思いながら、柵の中で「幸せ」に生きればいい


問題なのは、自らは「身体的・社会的な制約=柵」に取り囲まれているのではないかと疑念を抱き、思考して確信し、どうすることもできなくなった者はどのように生きるべきなのかということだ。


「死」が思考に含まれていない人間は「軽い」

これは本当に個人的な意見なのだが、「死」を思考の基盤に取り入れているかどうかがその思考や行動の「重さ」を規定しているように思われる。

死について考えられるのは独り人間のみである。「死の観念」は人間にしか存しない

そしてそれ故に、人間のみが「死者」と連帯することができる。例えば、現代日本に生きているという事実を考えてみよう。その時点で、数多くの日本人の死の上に自分は立っているとみなすことができる。なぜなら、社会制度、身体、言語(日本語)というあらゆる事柄が、人間という能動的に思惟できる存在が保持してきたものだからである。

社会制度は、人間の言語によって生み出されたという点で本質的には虚構(fiction)である。身体は、祖先が代々子どもを産み育ててきたという事実がなければ存在しえない。言語、とりわけ個別言語は、話し、受け継ぐ個体がいたからこそ話され続けている。

死んでしまった彼らは「もういない」が、その生の痕跡は確かに認められる。

「確かに彼らが存在したという痕跡」——これを見出し、自らの生に組み込み、生存しようと意志しているか? 


「この自分の幸せ」=「この個体の幸せ」という視点に縛られた家畜的思考を有する個体は自分が幸せだと思いつつ死ぬのであるが、するとその個体は限りなく「動物」であるように思われる。なぜなら、「死者=絶対的な他者」に応答するという視点が含まれていないからである。当個体は、制約に絡めとられて失命する。


絶対的な他者に応答しようとする意志を欠いているために、現代的「信仰」は、人間を「幸福な家畜」にしてしまった。「幸福な家畜」は、自己欺瞞を続けるだろう。

もし「人間的に生きること」を望むのならば、「人間の死」を思考に組み込まなくてはならない今生きている者だけでなく、もう生きていない「他者」とも共に生きることが「要請」されている。

応答するか否かは、「あなた」が決めることだ


さらに一言

本記事では「死」を進化論や脳神経科学的なところから説明しなかったのですが、また別な機会にしようと思います。ただ、僕としては言葉によってつくられた「観念的な死」と「生物学的な死」は別であると考えたいです。

また本記事では「他者の死」が重要視されましたが、「自己の死」を捉えることも「生」を際立たせるために必要なことだと思います。


思考の材料

参考文献

その他

サムネは、カンディンスキーの主張曲線という作品です。


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