賢者とは誰か?
賢者といえば、髭をはやした老人男性がまず想起される。(このイメージはもちろん、今まで触れてきた物語に影響されているのだろう。)
経験を積み思考を巡らせることで、人は老成する。そのような人が、賢者と一般に呼ばれてきたのであった。
だが、いま僕たちが生きる現代社会にあっては、賢者=髭をはやした老人男性ではないだろう。場合によっては、賢者だと思われていた人のアドバイスが役に立たない、さらには害になってしまうということも見られるようになった。
なぜだろうか。理由を挙げるとすれば、経験による知恵が通じない新しい状況が多くなったこと、人々のライフスタイルが多様化したことなどが挙げられよう。つまり、賢者と一般人の差異である経験と知識が適用できない事柄が増えたのである。
となれば、これからはますます「今まで上手くいったから」だとか、「ただ知っている」だけでは、ダメなのだろう。もちろん、それら経験と知識が無用になったのではない。そうではなく、それだけではないと言いたいのだ。
では、賢者には何が求められるのか? 求められているは、過去の知識と経験を考慮に入れながらも、柔軟に行動し、思考することだ、と僕は考える。すなわち、「こうすればこう」という一対一対応の思考だけではなく、「こうしたらこうなるだろう、とりあえずやってみるか!」という仮説検証型の思考がよいのだろう。
なぜ、仮説検証型の思考がいいのか。それは、失敗することもありうるという視点が含まれているからである。失敗したとしても、条件を変えてまたやってみるというスタンスなのだ。失敗を許容しなければならない理由は、複雑な問題に対して完璧な解答を提示することが非常に困難だと言わざるをえないからである。
自分は賢いと思い込むのは愚か者だ。一方、社会は知性ある賢者を要請する。すなわち、社会にはリーダーシップを発揮して意思決定してくれる者が必要だ。とすれば、自分ができるのは、自分が賢者だ思う者をみんなに知らせることだろう。
それでは僕たちは誰を賢者として認め、崇めればいいのだろうか?
思考の材料
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