國分功一郎『暇と退屈の倫理学』要約 YouTube動画原稿①
本記事では、YouTubeの原稿を公開します。
「暇」と「退屈」とどのように向き合うか?
どーも、うぇいです。突然ですが、みなさん、暇な時間はどのように過ごしていますか? 例えば、YouTube、Twitter、インスタなどでしょうか。もしかしたらこの動画も、暇つぶしのために見ている人もいるかもしれません。
そもそも「暇」とは、何なのでしょうか。また、僕たちはなぜ「退屈」するのでしょうか?
今回は、國分功一郎さんが書いた『暇と退屈の倫理学』を要約することで、「暇」と「退屈」について考えたいと思います。國分功一郎さんは、フランス現代哲学が専門の先生です。
本書『暇と退屈の倫理学』は、僕たち現代人が、暇や退屈とどのように向き合って生きていくのかを考えさせてくれます。
本動画の内容は、以下の通りです。
(ここでスライドを掲示する)
それでは、本編に入りましょう。
まず、僕たちはなぜ暇なのか、ということについて考えましょう。
イギリスの哲学及び論理学者のバートランド・ラッセルは、人類は豊かになったら不幸になってしまうのではないかと考えました。なぜなら、平和な世界ではやることがないからです。やるべきこと、しなければならないことが世界から与えられないのは不幸だとラッセルは考えたのです。
でも、この考え方はおかしいと思わなければならないと著者の國分さんは言います。なぜなら、僕たち人類は豊かな世界を目指して努力しているからです。もし平和になっても不幸であるならば、不正や格差を是正しようとする努力も無意味になってしまうでしょう。
ラッセルの考えから汲み取らなければならないのは、僕たちは豊かさを単純には喜べないということです。なぜなら、豊かになるとやるべきことがなくなり、退屈してしまうからです。
ここで、豊かさを時間的・金銭的に余裕があることだと考えることにしましょう。ここでの「余裕」というのは、生命維持のための活動以外にも時間やお金を持っているという意味です。
ほとんどの人は「生きるか死ぬかギリギリ」みたいな状態ではないでしょうから、一応「余裕」を持っていると言えるでしょう。
そうすると、「じゃあ、後は好きなことをすればいいじゃん」と思う人もいるかもしれません。「好きなことで生きていく!」ってやつですね。
でも、その好きなことってほんとにほんとに好きなことなのでしょうか。というのも、やりたいことや趣味の多くは、テレビ番組やインターネット広告で「これやったら楽しいよ~」と提示されたものだからです。
先進国に住まう「豊かな暮らし」を手にした人々は、「暇な時間」をどう使っていいかわかっていません。自分のやりたいことや楽しいことがわからないから、文化産業によって準備された楽しみを享受するのです。
つまり、余裕をどう使ったらいいかわからないから、なんとなーくYouTube見たり、スマホゲームしたりするみたいな、そういう感じです。
余裕を得た社会で何をすべきか考えた19世紀イギリスの思想家がいました。社会主義者のウィリアム・モリスです。
モリスは、次のように疑問に思いました。「もし仮に革命が起こって労働者が一日中仕事をさせられることから解放されたら、仕事以外の時間は人は何をするんだろう」。この問いをもとに、彼は以下のように考えました。
「革命が到来し自由と暇を得たときは、その生活をどうやって飾るのかということが大切だ。モリスは、人は暇な時間の中で自分の生活を芸術的に飾るべきだと述べているのです。
國分さんは、イエス・キリストの「人はパンのみで生きるのではない」という言葉をアレンジして、次のように述べます。
「私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾らねばならない」(27頁)。
豊かな時代にあっては命をつなぐための糧のみならず、日常を飾るものも必要なのです。
ここで一つ指摘しなければならないことがあります。それは、単純な暇つぶしだと、本気で楽しめないということです。
哲学者のアレンカ・ジュパンチッチは、近代が様々な価値観を相対化してきた結果、「生命ほど尊いものはない」という原理しか残らなかったと言います。この、「命って大事だよね」という原理はあまりに基礎的で人を動かしません。なぜなら、命が大切だと理解しても何かするぞ!という動機が生まれるわけではないからです。
例えば、休日にダラダラすることを考えてみましょう。「めっちゃダラダラしたぜ!」と満足できる人もいるとは思いますが、一方で「ダラダラしちゃったな...」と思う人もいるのではないでしょうか。後者の人が抱く、休日をうまく過ごせなかった...という罪悪感は何なのでしょうか。
この罪悪感を持つ人からすれば、何もせず漫然と過ごすことがどこかネガティブに思われるのでしょう。そういう人にとっては自分とは違って、何かに一生懸命になっている人がうらやましく見えるかもしれません。つまり、夢に向かって勉強している人、かっこいいアーティストや楽しそうに働く会社の同僚などがキラキラして見えるのです。彼らのように夢中になれたら、没頭できたら、きっと充実した人生が歩めるのではないか、そんな風に思ってしまいます。
けれども、「何かに夢中になること」には危うい側面もあります。極端な例を出せば、テロです。自分にはこれしかないという使命感や責任感を抱く対象が危険なこともあります。それでも、なんとなくぼんやり生きている人間からしたら、テロでさえ「充実」して見えてしまうかもしれません。
生きている感覚が欠けているとき、何もすることがないという虚無感にあるとき、人は「打ち込みたい」「没頭したい」と望むのではないでしょうか。
まとめます。本書、「暇と退屈の倫理学」は、暇と退屈にある現代人はどのように生きるべきかを模索する書です。生存のため以外の金銭的・時間的余裕を手にした多くの現代人は、暇になり退屈しました。その暇を埋めるために「好きなこと」をするけれど、その大半は「なんとなくの暇つぶし」になってしまうのでした。退屈している人は、何か大義や使命を持って生きている人をうらやましく感じることもあるはずです。
最後に、退屈について見事な分析を行った17世紀フランスの思想家、ブレーズ・パスカルを紹介しようと思います。パスカルは、「人間とは考える葦である」という有名なフレーズを遺した人です。
パスカルは、人間の不幸は「部屋でじっとしていられないことだ」と言います。つまり、人間は退屈してしまうという「みじめ(ミゼール)」な運命を背負っているのです。
その退屈さから逃れるために、人は気晴らしをします。例えば、ギャンブルをする人を考えてみましょう。ギャンブルをする人は、なぜギャンブルをするのでしょうか?
ギャンブルに勝って儲ける、もちろんその理由もあるでしょう。それでも、本音の部分ではどうでしょうか。おそらく、ギャンブルが好きな人はギャンブルをすること自体に夢中になっているのです。そうやって興奮していれば、退屈せずに済むからです。
ギャンブルに限らず、買い物、恋愛、ゲーム、窃盗、仕事、エナジードリンク、薬など、どれも退屈から逃れるための気晴らしと言えないでしょうか。実はこれらは依存症の対象でもあります。
さらに、「それは気晴らしだ!」と指摘する行為も、気晴らしなのです。パスカルは、「あいつらがやっているのは気晴らしだ」と指摘して悦に浸っている者が、最も愚かだと言っています。
人間は原理的に退屈に耐えられません。だから、退屈を忘れさせてくれる熱中の体験を求めるのです。
さて、僕たちは避けられない「暇」と「退屈」に、どのように向き合えばいいのでしょうか。暇な生活を飾るには、楽しむにはどうしたらいいのでしょうか。
次回の動画では、現代人が暇になってしまったことを人類学や経済学といった諸学問の知見から考察し、そして「暇」と「退屈」の関係性を分析することとします。そして最後に、國分さんなりの「暇」の生き抜き方を紹介します。
思考の材料
参考文献
その他
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