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一頁精読『意味の深みへ』全集第八巻473ページ
一頁精読。最初に読んでみたいのは、やはり井筒先生である。
井筒俊彦『意味の深みへ』全集第八巻p.473を読んでみよう。井筒先生の意味論の真骨頂が、さらりと書いてある。
外界のある対象を知覚するというような一見単純な行動でも、ただ外界からやってくる刺激にたいして我々の側の感覚器官が直接反応するのではない。その対象をどんなものとして認識するかは、その時その時に我々の意識の深層から動き出してくるコトバの意味構造の、外界を分節する力の介入によって決まるのであります。p.473
外界 =(刺激 → 感覚器官)= 知覚
ではなく、
(深層意識で動く言葉の意味構造 = 分節する力)
↓
("として"認識された対象)
である。
「外界そのもの」と「知覚された事柄」のふたつは単純に一致するものではない。ありありと知覚された「外界」は「外界そのもの」ではない。
外界が、知覚する者とは無関係にそれ自体としてすでにあるとして、それを知覚が捉えることはできない。ましてや、何らかの器官を通じて身体の内部の情報へと翻訳された事柄は、外界そのもののありのままではない。
まず端的に動いているのは、深層意識である。
深層意識はあるパターンのリズムを刻みながら動いている。
その刻まれたリズムこそが、意味を生じる。意味作用の最小のアルゴリズムとしての「区別をすること」と「置き換えること」のふたつの動きである。これが「分節する」ということである。
この分節する働きが、外界からの刺激をうけたりうけなかったりして身体内部で創られた情報を「分節する」。その結果、私たちは何らかのもの「として」、あれやこれやの対象を認識し、意識し、言葉で理路整然と理解したり説明したりできるようになる。
であるからして、こう↓なる。
意識の表層と深層とに同時に関わるコトバの意味文節作用が、…知覚の末端的な事物認知機能のなかにまで本質的に組み込まれているのだといたしますと、我々の内面外面に広がる全存在世界そのものが、結局、コトバの存在喚起力の産物であるということになりましょう。p.474
全存在世界は、コトバの存在喚起力の産物。
そしてこの先が重要なのである。
コトバの存在喚起力を、どのように働かせることができるか、という問題である。どういう言葉を使えるように育ったかによって、喚起できる世界が変わってしまうのである。これはとてつもなくおそろしいことである。
コトバは、ひとりひとりの生身の個人に、書き込まれるものである。生まれたときから周囲の他の人間が発する言葉を聞かされ、後に読まされることで、私たちひとりひとりは自分自身にとっての世界を世界として発見するための「視力(象徴的な意味で)」を獲得する。
井筒先生の言葉をお借りすれば、「緻密に構造化された言語記号の意味体系」「輻輳する存在分節線の網目組織を構成する言葉の意味や意味可能体の有機的な統合体」を書き込まれるプロセスが「幼少時代からずっと続いて、我々の深層意識を微妙にダイナミックな意味的構造体につくりあげている」ということになる。
書き込まれた言葉が違えば、見える世界も違うのである。
おわり
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