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「ある」の堅固さをふやかす食べ物の神様 -中沢新一著「哲学の後戸」を読む

中公文庫の一冊、中沢新一氏の『ミクロコスモスI 夜の知恵』。その中に「哲学の後戸」という論考が収められている。

なお中沢新一氏のミクロコスモスにはもう一冊ある。『ミクロコスモスII 耳のための小さな革命』である。

どちらもじっくりよみたい本である。

さて、「哲学の後戸」の冒頭はといえば、井筒俊彦氏から送られた手紙を中沢氏が読み返す話から始まる。

そこには「抜け出していく文体」とある。

言葉から言葉によって抜け出そうとする言葉。

言葉にはなりようもない事なのだけれども、それを強いて言葉に置き換えてみるとすれば…。という具合に、臨時の仮設であることを知りながら行われる思考。それは言葉に過剰に妄執することもなく、言葉に絶望することもない。そういう言葉には自らから「抜け出していく」文体がふさわしい。

言葉から抜け出そうとする言葉。その抜け出していく文体は動詞からうまれる。言葉でもって言葉を開き、言葉の内と外の境界を流動的なものにする動詞たちである。

井筒俊彦氏のそういう文体に導かれながら、中沢氏は『神秘哲学』を読み解いていく。

「プラトンは、ディオニソスの宗教で戦慄的な出現を果たしていた聖なる「一者」を、絶対的な「善のイデア」へとつくりかえたのである。「善のイデア」は世界が有ることの根拠である。しかもしれは、各個体によって「分有」される。[…]個体は個体のままで、有であるものは有のままで、「善のイデア」という絶対的な「一者」に参与し、その実現者として生きることが可能になる。(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』p.156)

参与する。実現する。生きる

こういう動詞個々別々に分かれた多数の「個」たちひとつひとつを、そのまま絶対的な「一」へと、個別に分かれていない「一」へとつなぐ動きを、言葉のシステムの中で作り出す。

多が一であり、一が多である。

中間的

こういうどっちつかずで曖昧な中間的な言い方にふれると、白黒はっきり分けてその中間グレーゾーンを排除しようとする素朴な合理的精神はおおいに当惑させられる。

しかし、この当惑は悪いことではない。

大いに当惑すればよいのである。

白黒つかない中間に当惑「する」という動詞的事態こそが、言葉のシステムの内と外の間にこれまた中間的な通路を開こうとする脱出系の動詞的思考を引き起こす場合もある。

「食べ物」の神様は有/無の区別の前にふれる

ここで中沢氏の「哲学の後戸」は西から東へ、現在から過去へとひらりと裏返り、伊勢の度会神道、度会家行が14世紀はじめに記した『類聚神祇本源』の話になる。

特にフォーカスされるのは「機前」というキータームである。

度会氏が古来から仕えてきた伊勢神宮外宮豊受大神を祀る神社である。豊受大神は内宮の天照大神に捧げる食事に関わる神である。

考えてみると内宮と外宮のペアは不思議なペアともいえる。皇祖神天照大神をお祀りする内宮に対して、外宮は食べ物を扱う神様をお祀りする。日本には一見もっとパワフルそうな神様がたくさん御座す中、なぜ食べ物の神様が選出されて皇祖神と並ぶポジションにいるのだろうか?

この謎に応えるヒントは、「食べ物」の神話的中間性・両義性にある。

「食物神は太陽の光をあらわす神とはちがって、自ら死の領域との深い関係をもっている。記紀神話に詳しく描かれているように、もろもろの食物は女神オオゲツヒメの死体から生まれたものである。」(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』p.183)

食べられる植物は大地から芽吹いてくる。

そして、その大地は「死」を呑み込む地下世界とも同じである

オオゲツヒメの神話と同じような食物の起源を女神の死にもとめる神話は世界中にある。大地を生と死をともに包摂する変換・転換・変化の動きが蠢く場として思考するのは人類の野生の思考にとって普遍性の高い傾向であるらしい。

中沢氏は続ける。

「食物は海や山や大地からもたらされ、火によって調理されて、食べられる。そしてからだのなかで消化されて、腐ったものの一種として、からだから出てくる。もっとも火を通さないで食べ物を放置しておけば、腐敗する。ということは火を通した調理は、自然な腐敗の過程迂回路を通して実現していることになるから、いずれにしても食べ物は腐敗の領域との弁証法的ななつながりを断ち切ることができない。これはたとえ神聖な御饌であろうともまぬがれえない性質で[…]」(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』p.184)

食べ物というのは「腐敗の過程」から切り離すことができない存在である。

食べられるものと食べられないもの。

食べて良いものと食べてはいけないもの。

文化のもの自然のもの

人間の世界野生の自然の世界

そして、生と死。

食べ物は腐敗するという動詞の相にあって、これらの二項対立関係の「中間」を動き続けている

ここに天照大神に並んで、特に食べ物の神様が鎮座する理由がある。

天照大神は国家の神であり、リアルな人間の世界の秩序を支える神である。

ここで人間にとってリアルな日常世界が出来合いのものとして初めから与えられているものだと信じることができるのであれば話は簡単になるのだけれども、事態はそれほど単純ではない。

人間の世界は、野生の自然の世界から区別され・区切りされて、初めて人間の世界というひとつの領域を成す。

今日こそ、人間の世界を出来合いのものと考え、自然をも人間の世界の一部として(人間にとって有益な素材的ななにかとして)考える向きもある。

けれど、古来、野生の自然の中に食い込んでかろうじて耕地と集落を営みつつ、つねに自然の猛威に脅かされながれ生き延びてきたご先祖たちにとっては、まずもって人界は自然界から区切り出され、別ものとして立てられなければならなかった

リアルな人界は、静的に転がったものとして「ある」という動詞で表現できるような代物ではなく、区切る、立てる、掴み取る、といった躍動感のある動詞によって表現される過程・動きを通じて、作られつつ解体され、また再建され続ける流れと言った方がしっくりくる。

だからこそ、人界の神である天照大神にパワーを供給する存在として、食べ物の神様が、自然由来で束の間人界にあっては速やかに自然に帰っていくはかない人工物である「食べ物」を司る神様が、その力を求められたのである。


食べ物の神様は、文化のもの自然のものを区切りつつ文化=人界の領域を立ち上げ、人界を腐敗と発生が一連の流れをなす野生の自然の世界と対立させる。

そういうたいへんなパワーは神話的思考においては極めて重視されるものであり、これを神として祀ったのである。

区別がないところに区別が発生する瞬間

文化と自然、人界と野生。リアルな現実世界とそれ以前・その手前。

この二項の区別を区切り出す動きが動き始める場が「機前」である。

神話というのは(1)世界に欠損がある、あるいは(2)完全であるはずの世界にどうして欠損が生じたのか、という二種類の認識からはじまって、世界の本質を矛盾として描き出す思考方である。ところがあまねく光に満ちた世界には、このような神話的思考が発動できる隙がない。[…]外宮神官の思想家たは[…]「光以前」や「光の生成」や「光の死」について語ることのできる思考を創出しようと試みたのである。(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』p.196)

光以前、光と闇が別れる以前。

それを思考するキータームが「機前」である。

度会家行によれば、機前とは天地開闢の「前」の「時間も空間も超えた場所」であり、「空間以前、時間以前、存在以前、秩序以前、思考以前」を名付けたものである(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』pp.198-199)

時間も空間も、互いに分けられた物事を並べていくことによって発生する。

天地開闢というのは天と地が分かれることであり、天と地が分かれた後にさらに様々な神々が分かれ、物事・事物が分かれ、人々が氏族に分かれ、そうしてきれいに分割線が引かれた物事の分別の体系的秩序が発生し、かっちりとした明るく透き通った地上の国家の秩序が出来上がっていくということになる。

この分化する動きが動き出し、他とは異なる何かが発生し、その発生が反復されるうちに安定した秩序が形成されていく。このプロセスも大変なことだけれども、さらにその手前また、たいへんなことになっているというのが「機前」の考えである。

機前はあらゆる区別「以前」である

しかも機前の場合の「区別以前」は、いわゆる道教的な混沌とも異なる、と中沢氏は書いている。道教の混沌が「有から無へ、無から有への転換を含んでいる」のに対して、機前は有と無の区別をも超えている。機前の中において有と無ということを語ることはできないのである(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』p.199)。

機前ということについて、中沢氏は次のように書く。

光と闇でさえ、「機前」の後に形成されたものであり、「機前」は光と闇の分化がはじまる以前のカオスモスをあらわしている。[…]天照大神が体現することになる光も、スサノオがあたりに撒き散らす闇も、まだいっさいが未分化のままこの「機前」のうちにある。だからそれは無ではない。また現実にむかって発出していないから有でもない。いっさいの「機」が動き出す直前の、力みなぎる未発の場こそが、神道が遠い昔から、仏教にもよらず、陰陽道にもよらず、すでに発見してあったとてつもなく古い概念なのである。(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』p.200)

このような有と無の区別以前の「機前」から、いよいよ有と無を区別する動きが動き出し、区別し、対立化させるよう動き出しはじめる。それが天地開闢である。

ここで天地開闢の後にそのあたりに生えてくる「葦」に注目して、度会家行はおもしろいことを書く。すなわち、天地開闢直後の世界に生え始めた「葦(あし)」は、「阿字」である、と。

弘法大師空海が『声字実相義』でも書いているように阿字、すなわち「ア」という母音は仏教、密教において、きわめて重要な字=声であり、すべての言葉=名=ものがそこから発生してくる有音と無音を区別する動きを象徴する音=字である。

この阿字と豊葦原の葦が「おなじ」だという。

おいおいダジャレか、と思われるかもしれないが、中沢氏はこの語呂合わせこそ、異なるもの=互いに区別されるまったく別のものどうしの間に「類縁性を見出そうとする鋭いセンス」によるものと読む。

ものごとがかっちり分けられ頑丈な分割線で切り分けられた世界では、違うものは違う、という物言いがまかり通る。そんなお堅い世界に紛れ込んでくる語呂合わせは、かっちり分けて固めたい派の人々を大いに苛つかせるかもしれないが、しかしそれこそが人類を神話的思考へ、あらゆる区別が区別される動きが蠢き始めるところへ、つまり言語的思考の発生の原点へと脱出させる高度な思考の技術なのである。

機前にはじまり、「「機」が動き出す」ことにより次のような事態が訪れる。

有即無、無即有の絶え間ない転換がおこなわれている名状し難い中間体が形成される。その中間体の表面に「独一」の特異点が発生し、その周囲には強度が渦を巻いて殺到し、その高まりはついに葦の芽のような鋭い先端を、虚空に立ち上がらせるのだ。この垂直性の運動から、現象世界の構造が生み出されてくる。(中沢新一『ミクロコスモスⅠ 夜の知恵』p.210)

区別の始まりを、具体的に経験されるものたちの姿から考える。これぞ神話的思考である。

見えるものたちの世界の向こうに、みることも触れることもできないことを思考する。その思考をするための言葉には、整然と分割された「後」に積み上げられた秩序の世界の名簿のような言葉遣いよりも、動き、蠢き、分割線に囲われた枠のなかから脱出し続けるような言葉遣い・文体が適しているのである。

転換する、発生する、渦巻く、殺到する、立ち上がらせるなどなど。

つづく

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