「生命」と「言語」をレンマ学的に理解する ー中沢新一著『レンマ学』を精読する(7)
中沢新一氏の著書『レンマ学』を読む連続読書noteである。
今回は107ページから、第五章「現代に甦るレンマ学」を読んでみよう。
レンマ学は、仏教の華厳の思想を考え方のモデルとして、人間の存在をロゴス的知性とレンマ的知性がハイブリッドになったシステムの運動として記述してみようという試みである。
私たちが日常いろいろと考えたり感じたりしているときの意識は「ロゴス的知性」の働きが前面に際立っている。ロゴス的知性は事物を区別して並べる働きをする。私たちは世界を互いに区別された様々な事物が集まり並んだものとして見る。りんごとみかんが別のものなのは当たり前だと思っているし、ネコとイヌが別のものであることは疑う余地もない。
一方で、人間の意識の深層には、もうひとつ別の知性が働いている。それが「レンマ的知性」である。
「レンマ的知性はあらゆる事物が相即相入しあっている縁起の原理によって活動している」(中沢新一『レンマ学』p.108)
あらゆる事物が相即相入している、縁起のネットワークでつながっている。
この相即相入や縁起という用語は仏教の華厳哲学から借りたものであるが、それによって言わんとすることは、ロゴス的知性にとって互いに区別されているもの同士が、じつはつながっており、一方の存在に他方の存在が入り込み、一方が変化すると他方も変化するような関係にある、ということである。
分けて並べるロゴスの作用と、ひとつに結びつけて混ぜ合わせるレンマの作用。
分けることと、混ぜること。
この真逆のことをしているように見える二つの運動が、重なり合って、ハイブリッドになることで、驚異的な現象が生じる。それは生命であり、言語である。
区別しながら同じにすること。
異なりの中に「同じさ」を発見し、「同じさ」の中に差異を見出す。
違うのに同じ、同じなのに違う。
生命も言語も、そのもっとも基本的なメカニズムはこれである。
ロゴスとレンマのハイブリッドから生まれる「生命」
生命は「自己を外界から差別する膜を持ち、RANやDNAのおこなう情報転写を通じて、自己を複製」する(p.115)。生命はもともと内部と外部に分かれていないところに「膜」を形成しつづける動きである。「膜」と膜に包まれた「内部」は繰り返し同じようなパターンで形成され、内部は概ね同一性を保つ方向で外部から区切り出され続ける。
ここで自己=内部は「差別」し、分別し、区別する動きを通じて、自己ではないもの(他者)ではないもの=内部ではないもの(外部)ではないもの、として区切りだされてくるまとまりである。
区別する動きが動き続ける一方、外部は常に内部に流入し、内部は常に外部へと流出している。生命は「栄養物質を取り入れ、廃物は膜の外に捨て」ることで内部の同一性を再生産し続けている。
内部と外部を画する動きが止まってしまうと、直ちに内部と外部の区別は崩壊し、やがてひとつに溶け合ってしまう。これが個体としての死である。
生命にあっては、内部と外部が区別されていることが、同時に内部と外部がつながっていることでもある。
区別されつつ、一体である。
異なりつつ、同じである。
二でありながら、一である。
区別するは動きのパターンこそが「ロゴス的」な知性であり、同じにする動きのパターンこそが「レンマ的」な知性である。
生命ではこの二つの動き、知性がそれぞれ別の方向に向いながらも一体となって動いている。生命はロゴスとレンマのハイブリッドシステムである。
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ロゴス的知性とレンマ的知性の「ハイブリッド」と書いたけれども、これはロゴスとレンマが元々別々に互いに無関係に存在して、それが後からくっついた、ということではない。中沢氏は「ロゴス的知性そのものが、レンマ的知性の変異体にほかならない」と書く(『レンマ学』p.109)。
ロゴスとレンマのハイブリッドから生まれる「言語」
人間の言語もまた、ロゴス的知性とレンマ的知性のハイブリッドで形成され、維持され、進化すると考えられる。
言語は音声でも文字でも、何らかの互いに区別される複数の「シンボル」を並べること、そしてシンボルの並べ方を変化させることで(あるシンボル列の配列パターンのなかで、ひとつのシンボルが占めうる特定の位置について、その位置に実際に置かれるシンボルを次々と交換していくことで)意味するという作用を引き起こす。
このうちシンボル同士を互いに異なるものとして区別するのがロゴス的な知性である。ロゴス的知性は区別、差別、分別を行う。
「ロゴス軸では事象にたいして差別(分別)をほどこす分類が行われる。事象の持っている多量の情報に捨象をほどこして、似ているところを持った要素をひとまとめにして、同じカテゴリーに収める。こうして分類された集合にはさらに二次的分類がほどこされ、下位のクラスターがつくられる。何段階もの分類をへて、感覚のカオスに分別が施される。そうやって語彙が作られる。この語彙の集合から選択された要素が、次には句構造(統辞構造)にしたがって、線形に配列されて、発話されるのを待つのである。」(『レンマ学』p.117)
ここには非常に重要なことが書かれている。
言語では、差別、分別、区別する作用が絶えず働いている。これはロゴス的知性の働きである。
更に言語では、互いに区別されたものたちの間に「似ている」ところを見つける作用も働いている。この作用は互いに区別されるものの間に「同じさ」を見つけるということでレンマ的な知性の作用のように見えるかもしれないが、中沢氏はこれを「捨象」というロゴス的知性の働きであるとする。
捨象は互いに区別されたものを区別したまま互いに無関係のままにする。捨象は互いに区別されたものたちの間に縁起的なつながり(異なりながら同じ)を開くことはない。
捨象することは、まったく「無縁」な異なったものたちから、共通する特徴を拾っていき、共通しない特徴を捨てていく。
こうした捨象の結果として、互いに他特別される「カテゴリー」が形成される。
区別、捨象、カテゴライズ、クラスタ化、線形配列、音声による発話(シンボルの具体化)。
これらはいずれも「区別して、並べる」ロゴス的知性の働きによって行われることである。
そうしてロゴス的知性を多重に働かせた極みにところで、満を持してレンマ的知性が働き始める。
「人類の言語にあっては、そのロゴス軸に交わるようにしてレンマ的知性の軸が嵌入している。カテゴリーに分別・分類された語彙と語彙の間に、縁起的連結を生み出す「喩(アナロジー)」の力が働くのである」(『レンマ学』p.118)
レンマ的知性は「カテゴリーに分別・分類された語彙と語彙の間に、縁起的連結を生み出す」のである。そのレンマ的知性が働く様子は、私たちの言葉によくある「喩」、比喩、たとえ、にみることができる。
「あのホタルは、わたしのタマシイだ」
例えばこのようなことを言ったとして、この場合、「ホタル」と「わたしのたましい」が別々の異なったものでありながら、同時にひとつにつながった同じものとして置かれている。
このように異なったまま、それでいて「同じ」であることが、語彙と語彙を縦横無尽に結びつけていく。
そしてそのことが一つ一つの語彙の「意味」の幅を広げ、変化させ続けるのである。
「言語が世界を分別・分類しようとするときには、強くロゴス軸が働き出すが、「ゆらぎ」をもたらす喩の作用がただちに嵌入してきて、言語表現には人類特有のふくらみがもたらされる。」『レンマ学』p.118
異なるものを異なりながらひとつにつなぎ交換可能にするレンマ的知性、つまり異なったものの「同じさ」に気づくレンマ的知性の「喩の作用」によって、あるひとつの語彙は、複数の意味をもってふくらんだり(多義的)、時に真逆の意味を負ったり(両義的)する。そうしてある語彙、あるシンボルの「意味」は多様に変化しつづける。
なによりもこの喩の意味を揺るがす作用こそが、詩的な言語を動かすのである。
まとめ
区別することと一つにすること、異なりながら同じになること。
生命と言語に見られるこのプロセスはロゴス的知性の働きだけでは動かないし、レンマ的知性の働きだけでも動かない。
ロゴスとレンマ、二つの知性がハイブリッドに重なり合う(中沢氏は「直交」と書くがこれについては別途また詳しく)ことで、はじめて生命や言語のシステムが出来上がり、動き始め、動き続け、進化し続けるのである。
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以上の話について『レンマ学』の第五章では、華厳哲学の諸概念を豊富に組み合わせて論じらている。
四種法界(事法界、理法界、理事無礙法界、事事無礙法界)に、六相円融にと、華厳哲学の概念が生命論、言語論と重畳していく。
ここは井筒俊彦氏の『意識の形而上学』ともつながるところなので、さらに詳しく読みたいところである。
前回の「『レンマ学』を精読する」はこちら
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