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無意識-言語-脳をつなぐ「アーラヤ織」 ー中沢新一著『レンマ学』を精読する(8)

中沢新一氏の著書『レンマ学』を読む連続読書note、今回は第七章「対称性無意識」を読んでみる。

これまでのところで「生命」や「言語」が、レンマ学の概念の組み合わせを通して捉え直されてきた。そして第六章、第七章、第八章では「無意識」の概念がレンマ学の概念たちのペアからなる構造に写像され、新たにレンマ学的な対象として浮かび上がることになる。

無意識という概念の発見、あるいはフロイトによるその深化は、「近代」から「現代」への切り替えポイントであるとも言える。

無意識の発見が、近代が神聖視したあらゆる価値と意味の源泉としての「人間」あるいはその「理性」というもののイメージをガラリと変えてしまった。

合理的に理路整然と分別をつけることができるはずだった理性的人間というものが、実は情動や、自分でも意識できない過去の何かであったりとか、種族的、動物的、生命システム的に与えられ受け継がされた何かによって、ほとんど何にも自覚できないままに突き動かされているとすれば・・・。

そういう無意識ということとの折り合いをどうつけるかが20世紀の人類の大きな課題であった。

なんとも謎めいた「無意識」の概念を、他のもう少し整然と並べられた概念たちの体系に置き換えていく試みの最前線となったのが「言語」「脳」の分野である。

そして『レンマ学』は、まさにこの「脳」と「言語」による知性の出来上がり方と、その脳と言語の知性の外部に広がる別種の、より根源的な知性との関係を論じようというものなのである。

アーラヤ織と無意識

この後者、より根源的な知性の方を、中沢新一氏は「純粋レンマ的知性」とよぶ。

純粋レンマ的知性とは、「法界としての心」とも言い換えられる「縁起の論理」で全てが全てと繋がりながら動きつける「複雑で巨大な活動体」である。

「心=法界はその全領域にわたって縁起の理法にしたがって活動している。あらゆる事物が相依相関しあいながら、たえまなく変化し運動を行っている。華厳学ではその様子を、振動する楼閣群として描き出している。」(pp.159-160)

この純粋レンマ的知性の活動の一部分に、区別する作用と、区別されたものを並べる作用が動き出す時(「時間性の侵入」p.157)、純粋レンマ的知性の一部分として「アーラヤ織」が動き出す。

純粋レンマ的知性の一部でありながら、区別し並べる作用の連鎖よっていわば動的に構造化されている「アーラヤ織」は「レンマ的知性とロゴス的知性の混合体」(p.157)である。

このアーラヤ織の一部分として言語」が生まれる。

言語は、区別し並べるというロゴスの側面と、区別されたものを「同じ(異なりながらも、同じ。違うけれど、同じ。別々だけれど、同じ)」と置く比喩のようなレンマの側面を併せ持つ。

こうしたロゴスとレンマのハイブリッドとしての「言語」の動的な構造から、私たちの「意識」が生じる。

意識は、私たちの脳と身体が言語として体系化されたシンボル群に通過される、貫かれる経験であり、そのシンボル群の並び方、順序のことを、私たちは「意味」として経験する。

中沢氏はここで、このアーラヤ織こそが、「(フロイトの)精神分析学のいわゆる「無意識」に対応している」とする(p.158)。

フロイトは、や精神病にあらわれる無意識の活動の特徴を、圧縮置き換えのうちに見出している。p.158

圧縮と置き換え

圧縮と置き換え

この二つの言葉で呼ばれる事柄は、極めて重要である。

圧縮と置き換えは、他とは区別されるあるシンボルが、他のあるシンボルの代わりをする、ということである。

例えば、何気ない誰かの視線が「悪意」という意味へ置き換えられたり、他とは異なる特徴的な形状をしたものが「男性性と女性性の対立」といった意味へと置き換えられたり、あるいは太陽と月の差異が生死の対立という意味へと置き換えられたりする。

これはまさに、区別され、互いに異なった別々のものとされたものたち(とその対立関係)を、異なりながらも「一つ」の「同じ」もの(とその対立関係)として置く結びつける、という作用によって引き起こされる。

異なりながらも、同じ。区別しながら、同じとする。

異なり。区別の方がロゴスの働きであ流。

同じにする。こちらの方がレンマの働きである。

この二つの働きが別々に、しかし同時に一緒に動いている。これが「無意識」の動き方であり、アーラヤ織の動き方である。

ここでジャック・ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と言ったものを、レンマ学風の用語で次のように「言い換える」ことができると中沢氏は論じる。

「心理学があきらかにしてきた無意識は理事無碍法界の様態によって活動する純粋レンマ的知性としての法界である。」(p.161)

「縁起の論理」で全てが全てと繋がりながら動きつける「複雑で巨大な活動体」としての「法界」=「純粋レンマ的知性」は、四つの「様態」をとるという。

即ち、事法界、理法界、理事無碍法界、事事無碍法界の四様態である。

このうち、私たち人類のアーラヤ織=無意識というのは純粋レンマ的知性が「理事無碍法界の様態によって活動する」姿なのだということになる。

これについて中沢氏は次のようにも書く。

「心理学的無意識は、レンマ的無意識をマトリックス(母体)として生成されるその変異体に他ならない」(p.164)

人間の神経系や脳に根ざした「無意識」は、レンマ的な無意識に対して比べると、その小さな変異した部分ということになる。

このことを中沢氏は次のようにも書いている。

レンマ的無意識は脳と中枢神経系にはほんらい関わりを持たない実体なのである。それ(レンマ的無意識)がニューロン系に入り込む時、レンマ的知性のロゴス的知性への変形が起こってしまう」(p.166)

ここで中沢氏は重要なことを書いている。

即ち、言語がロゴスとレンマの「ハイブリッド」でできているが故に、人間が「純粋な形で」ロゴスだけで思考することは「不可能」だということである(p.158)。

「意識が立ち起こるや直ちに、そこにはレンマ的知性の変異した無意識が生起して、ロゴス的知性に影響を及ぼす。」(p.158)

意識と無意識はどちらも別々の運動法則を持った動的構造だと言えるかもしれないが、この二者を無関係な無縁のものとして分割することはできない。

人間は、レンマによってロゴスの独走を挫かれることが決まっている。

その人間に対して、今日のAI(人工知能)はロゴス的知性が独走する道を拓いている。そのロゴスの独走が、人間がそこから逃れようのないレンマとの「連絡を失う」ことにならないかと中沢氏は危惧を表明する(p.159)。

ロゴスとセットで動いているレンマ的な知性によって、足の先から頭のてっぺんまで貫かれておきながら、そのことをすっかり忘れたような顔をして生きるようとするとき、人間は自分自身の「うち」にある無意識、あるいはなんと言葉にして良いかわからない情動の激流といったものを、理路整然とした自己に対する脅威としてしか受け付けられなくなる。実際には、理路整然とした意識の方こそが、その「脅威」の変異体であるにもかかわらず。

純粋レンマ的知性の縁起の運動体を、シンボルの体系で記述しようと試みる

現代の科学では、この「法界=純粋レンマ的知性」の動態を記述する方法がまだ開発されていない。中沢氏が挙げる量子論や、あるいは生命をめぐる思想などが、この純粋レンマ的知性のようなものの存在を記述しようと試み始めているところであるが、これぞという方法は未だ開発されていない。

「法界=純粋レンマ的知性」では、あらゆる事物が他の全ての事物と「相互に関係しあい相互に嵌入しあ」っている。そうした関係の中で、全ての事物が他の事物からの影響で変化し、その変化が他の全ての事物に多様な変化をもたらし、その変化がさらに他の全ての事物に変化を…、という具合に動きが続いている。その動きは「機械状のクールな運動」であって、その運動のパターンが、事法界、理法界、理事無碍法界、事事無碍法界の四様態を顕在化させる。

生命、脳、言語。

要するに「人間」は、今日でも依然として「謎」なのだ。

その「謎」を24時間365日引き受け続けることができるとは、なんと恵まれたことなのだろう。

続く

前回の「『レンマ学』を精読する」はこちら

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