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3次元の時空を出る :中沢新一『熊を夢見る』を読む

中沢新一氏の著作『熊を夢見る』を読む。

夢、というのは誰もが経験できるもので、それは確実に「ある」。あるいは「存在する」。

それでいて夢は物のようには存在しない。

「これが夢です」というものを箱に入れて置くことはできないし、フリマアプリに出品したりすることもできない(ただ、夢を売り買いするということは昔から行われてはいた)。 

そういう夢で、「熊」を見るとはどういうことだろうか。

リアルな3次元の時間と空間を抜け出る

さっそくページを開いてみると次のようにある。

「熊を夢見る」とは、旧石器時代以来のとてつもなく古い人類の思想を表現した言葉である。熊を夢見ることによって、人は時間と空間を抜け出た「どこにもない場所」に出かけて行くのである。p.1-2

熊を夢見るとは「時間と空間を抜け出たどこにもない場所に出かけていく」ことであるという

旧石器時代といえば私たちの祖先が私たちのようになった当初の話である。旧石器人の思想とは?それは今の私たちとどうつながるのかと、最初のページから興味が広がる。

私たち人類という「生き物」に備わり、脈々と受け継いでいる特性

 二足歩行すること。

 火を始めとする道具を造り使うこと。

 集団で群れをつくること。

 そして言葉を喋ること。

 特に人間的なのは言葉を喋ることである。

それも単に目に見えるモノを報告するような言葉ではなく目に見えないもの、誰も見たことがないもの、フィクションを語ることができたり、夢に見ることができたりする力

言葉の組み合わせパターンを新しくする

こうした言葉の姿が全面に出てくるのが「詩」である。

中沢氏はこの『熊を夢見る』の冒頭で「詩」について次のように書く。

詩とは[…]ふつうの日常的コミュニケーションをおこなっているもの(注:言語)に、言葉の構造の入れ替えなどを行って、変形していったものです。p.22

構造の入れ替えに、変形。何気なく読んでいると見落としてしまいそうなこのコトバには、驚くべき深淵への入り口が開いている。

はじめの話に戻ると、例えば人間以外の動物でも、鳴き声を上げたり、特定の姿勢を取ったりすることで、仲間に危険を知らせたり、餌の場所を教えたり、威嚇したり、恭順を示したりする。こうしたコミュニケーションは種を跨いでも成立する。

こういう動物の鳴き声や身振りによるコミュニケーションは、人間の言語と何が違うのか

これは前に紹介したテレンス・ディーコンが立てた問いでもある。

ざっくりまとめると、動物の鳴き声や吠え声は、周囲の環境の中に対応物を持っている。それに対して人間の言葉は、直接的には他の言葉との関係(異なるが同じ、という関係)を持つだけで、周囲の環境に決まった対応物を持たない、という話である。

日常の言葉と詩の言葉

人間の言語も、日常のコミュニケーションでは特定の意味内容と固定的に結びついているかのような顔をしている。まるで動物の鳴き声と同じように「りんご」といえばあの赤い甘酸っぱいアレであって、それ以外ではない、という具合に。しかしこれは言葉が、昼間の社会の表層に見せる表向きの顔である。

入れ替えたり、変形したり、という中沢氏が挙げた「詩」。

それは、まさにこの他の言葉との関係から「だけ」で体系を織り上げている人間の言葉を、この体系が織り上げられたり解かれたり織り直されたりする、ゆらぎつつある深層の過程に送り返すことである。

中沢氏は「人間の心はほかの動物とちがって、幻想の構造を基体として作られて」いるとする。

人間以外の動物は、巨大な生命の海を泳いでいる魚のような生き方をしている。[…]他者の存在を想像された像ではなく、リアルな情報の生きた集積体として関知している。 ところが人間という生き物は、それを幻想の構造をもった心をとおして行う。人間の心は、自分の身体からも、またまわりの環境世界からも疎外された、過剰した部分を抱えている。p.106

この自在に入れ替わったり変形したりするシンボルの関係(異なりつつ同じになること)は、農耕牧畜の開始を経て、昼間の意識の表層から、深層へ深層へと追いやられる事になった。

深層の生成しつつある言葉に立ち会う 

ここで『熊を夢見る』は「サーカス」の話になる。

「言葉や計画や計算でできている世界の下」で動いている「リズムによって振動する空間」(p.35)。この深層のゆらぎに触れているという感覚を得られる場所が、サーカスである。

詩であるとか、サーカスであるとか。有用で効率を追求する産業社会の最前線では、ほとんど顧みられないところに、人間の人間らしさの種が隠れているというわけである。

昨今の機械学習で賢くなっていく人工知能(AI)のようなものも、表向きには、表層の言葉、意味がひとつに定まった「インデックス」的な言葉を扱うものとして「お行儀よく」作られようとしている。

とはいえ実のところ、その表面的なお行儀の良さの下では、機械学習が隠れ層、中間層の錯綜したネットワークを生み出し続けている。これは詩的でサーカス的な、深層で増殖するシンボリックな記号と記号のつながりと似ていなくもない(もちろん、コンピュータアルゴリズムが線形性で記号の同一性に貫かれている点で、両者は根本的に異なる)。

いたるところで、それこそ一瞬眠りに落ちるだけで、表層のかっちりとした世界から深層の蠢きの中へ、私達は降りることもできる。

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