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創造的分節システムとしての"耳"を発生させる -中沢新一著『精霊の王』を精読する(7-2)


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中沢新一氏の著書『精霊の王』を精読する連続note、その7回目の後編である。(前編はこちら↓ですが、前回を読んでいなくても大丈夫です。)

(最初から読みたいという方はこちら↓からご覧ください。)

境界性

『精霊の王』、単行本の208ページには、精霊の王=宿神は「境界性」を象徴する、とある。

境界性とはどういうことかというと、それは互いに区別されるなにかとなにか境目、接点、接触点、交差点、といったことである。

私たちが当たり前だと思っている日常の常識の世界は、細かく見ていくと、無数の区別から出来上がっていることがわかる。

朝と夜の区別、上と下の区別、右と左の区別、老若の区別、男女の区別、長幼の区別、上の子と下の子の区別、晴れと雨の区別、果物と野菜の区別、動物と人間の区別、自然と人工の区別、生と死の区別、沈黙と喧騒の区別、食べられるものと食べられないものの区別、優劣の区別、好き嫌いの区別、善と悪の区別、生のものと火を通したものの区別蜜と灰の区別、お行儀がいいことと無作法の区別人間と自然の区別などなど、などなど。

境界性について思考するということは、こうした区別のあいだ、互いに区別された対立関係にある二つの事柄の「あいだ」にフォーカスするということである。

意味分節体系

こうした多数の区別は、互いに重なり合って、意味(意味するということ)のシステムが出来上がる。

例えば、沈黙と喧騒の区別が、行儀がいいことと無作法との区別重ねられることで、「食事の場では、静かにしていられるのが礼儀作法的によいこと(騒いでしまうのは礼儀作法的にだめなこと)」という具合にして「静かであること」の「意味」が決まっていくのである。

ここで重大なことは、この重ねる方向を逆にひっくり返すこともできるということである。騒ぐ方が礼儀作法に叶ったことで、沈黙していることが無作用である、ということもできる。

(このあたりの話についてはこちらのnoteに詳しいのでご参考にどうぞ)

ちなみに、レヴィ=ストロースの神話論理そのⅢ、『食卓作法の起源』で紹介されている神話では、食事中に口で音を立てる/立てない、という区別が、行儀がいい/悪い、文化と野生、人間的なるものと動物的なるもの、地上と天上の区別といった人間世界をその外部から区切り出す根本的な分節の起源の出発点になる。

その神話のトリックスターは「カエル」である。蛙が二つの世界を分離しつつ結びつける媒介者の役を演じる。カエルはかなりの悪食であるにも関わらず、歯がないので獲物を噛み砕くのに音を立てない。また蛙はオタマジャクシから足が生えるという形で水界と陸界を媒介する。カエルの中間的で両義的な性格は、人界とその外部とを区別し分離しつつ、しかし隔絶させることなく付かず離れずの距離と細い通路を保つ。

カエルと食卓作法の起源の話。これだけではわかりにくいと思うので、また別の機会に詳しく書いてみようと思う。

重要なことは、区別することと、区別された対立関係どうしを重ね合わせることで意味のシステム(意味分節体系)が出来上がり、その意味分節体系に支えられて、私たちの日常の常識的な現実は織り上げられているということである。

区別はダイナミック(動的)な出来事であり、スタティック(静的)な何かではない

さて、ここでこだわりたいのはこの「区別」ということが、あくまでも動き、作用、機能、操作、発生といったダイナミックな出来事だということである。

区別は、区別「する」ことであって、予めそれ自体として孤立して"ある"なにかとなにかが二次的に並べられたということではない

予めそれ自体としてあるように見えるものは、そのものをそれではないものと分節化する動きが投げかける影なのだ。

区別する動きと、その反復こそが、とにかく動いて、動き続けていなければならない。

精霊の王=宿神は、このダイナミックな出来事としての「区別すること」それ自体を神格化したような存在である。

生きている者たちは自分たちの知ることのできる世界だけで「世界」が完結できるわけではなく、死者や未来の生命の住処でもある普遍的生命の充満した潜在空間とひとつながりであることによって、はじめて豊かな全体性を実現できることが、伝統的な価値観を失っていない人たちにはよくわかるのだ。(『精霊の王』p.247

ここで中沢氏が書かれている「自分たちの知ることのできる世界」というのは、いわゆる私たちが当たり前だと思っている日常の現実のことである。

日常の現実は惰性化し凝固した区別が織りなす対立関係の網の目としてできている。

私たちは日々、「常識的だ」/「非常識だ」、「現実的だ」/「非現実的だ」などと軽々と発言しては、日常性という意味分節体系の分節化運動を、一定のパターンの反復に押し留め、静的な外観を呈するよう"生成に存在の性格を刻印"しようと追い込んでいる。

これに対して中沢氏が書かれている「普遍的生命の充満した潜在空間」というのは区別以前である。同時にそこは均質で静止した空虚などでは全くなく、区別が生じる傾向に充満した場所である。

いや、区別はない、というよりも区別が「ある」か「ない」かという区別すらないといった方が正確だろう。そこでは「ある」と「ない」はもちろん、あらゆる区別が区別され、区切られ、分節化されつつある。

そこは区別する動きが、蠢き発生する空間である。

あるいはうまく言い換えられているかどうかわからないが、無数の区別を発生させる分節化の動き・運動が激烈に流れており、その激しさは何かと何かの区別として観察できるレベルまで冷却されていない、と喩えてもいい。

その空間が潜在であるというのは次のようなことである。

即ち、「現実」の空間という私たち人間の日常的の意識において顕在化している空間は、惰性化し凝結した区別の体系(分節体系)という外観を呈している。

それに対して、意識において顕在化される分節体系・対立関係以前の純粋に「区別する」動きが蠢く空間という点で「潜在」である。

いまだ惰性化しない段階にある発生段階にある区別の動きが蠢く場所、区別と非区別を区別する区別すら未だ固まっていないということで、それは潜在的なのである。

潜在と顕在の関係は順序関係ではない

ここで気をつけたいのは、潜在空間と顕在化した現実空間との関係である。

潜在空間と顕在空間はひとつにつながっている。

その繋がりは、古くから次のようなイメージで捉えられてきた。

洞窟の入り口、クラインの壺のくびれた口、思考のマトリックスへの開閉扉、夢の時間への通路、潜在空間と現実世界との転換点…それは思考の始源にかかわりのある場所だ。(『精霊の王』p.251

そして精霊の王=宿神は、「翁」などの姿となって、この入り口、通路から、現実空間へと顕在化する。

この時、潜在空間と顕在空間の関係は、陸と海、地上と地下、あるいは集落と森、といった関係でイメージされている。これらの二者の関係は前者が後者と、後者が前者と一体であることに特長がある。二者は隣あったり重なり合ったりしながら常に一緒である。二つでありながら一つなのである。

潜在空間は現実空間の「向こう」や「背後」や「下」にいつもずっとある。現実空間はそれ単独で自足して転がっているわけではなくて、常に潜在空間「から」顕在化し続けている。

動きが止まってみる

潜在空間からの顕在は、先ほどの「区別すること」と同じ動きなのであるが、私たちの意識は、意識の表面に映る顕在化済みの世界を、ついつい固まったもの、動かないもの、即自的に予め与えられたものだと思ってしまうらしい。

日常生活が営まれる空間が、自然の中に深く包まれている状況にあっては、私たちは日常の現実というものを安定した、固まった、重いものだと信じつつも、同時にそれが常に自然に飲み込まれそうになっている(食べられそうになっている)危ういものだという感覚も失わなかった。

獲物にするつもりだった動物に襲われて命を奪われてしまうかもしれない狩猟民はもちろん、山からの水の流れ次第で飢饉に陥ってしまう近代以前の農耕民も、人間が、人界が、容易に自然に食べられてしまうものだという感覚をもっていたらしい。

だからこそ、人界を自然から区別すること、自然から人界あるいは人間を区切り出してくることが大問題になったのであり、その区別する区切り出しを促す呪術や、区切り出しを演じる儀礼や神話の語りが人界の共同体の再生産の核になったのである。「精霊の王」の祭りとはそのようなものであった。

特別な祭りの時間に、潜在空間と現実の間に通路が開かれる。そしてこの通路が再び閉じられることによって、潜在空間からの現実の区切り出しが成功する、という具合である。

(祭りの間は)一続きだった「内」と「外」が二つの領域として分離されニライの潜在空間は見えなくなっていく死者の住む世界は、生きている者たちの住む島からは遠くに隔てられていく。そうして、生きているものだけでできた現実の世界の空虚な中心には、日常世界を運行させるシニフィアンの秩序を守る御嶽の神が、ふたたび立ち戻って絵くることになる。(『精霊の王』p.248

特に人界が自然に食べられ飲み込まれてしまいそうになる危機の季節において(例えば日照時間が短くなる冬至とか)、いにしえの私たちの祖先は、日常的人界の自明性(あたりまえさ)を再生させるために、日常の自明性を固める役割を演じるありふれてあるべきものたちを、改めて絶対的に未分節な潜在領域から区切り出し・分節化し直さないといけないと思ったようである。

人類が物質とエネルギーを思うがままに操っていると思っている現在でこそ、地表の大部分が人間によって平定されたかのようになり、自然があからさまに人間を食べるという事態は、見えにくくなっている。人間は人工的な環境に包まれて、世界には人間と人間のための空間だけが拡がっているかのような気分に浸ることができている。

とはいえ、地表のほとんどを人工的に平定できたのは、一万年以上前の農業革命から数百年前の産業革命まで連綿と積み重ねられた無数の小さな営みの結果である。

それ以前はもちろん、その平定の営みのあいだもずっと、そして実は現在も、人界はあくまでも自然界から区切り出された・分節化されるものであり続けている。自然界とは全く隔離されたところに人界だけが予め転がっているということはない。

建国神話 ー王権の二つの顔

ところで、農業革命を経て、人間が人工空間に集まって暮らすようになるとともに、個々人にとっては自然環境と折り合いをつけることとは別に、人工空間およびその中での人間関係という第二の環境との関わりをどうするかという問題が生じた。

人間がたくさん集まっているという環境のなかで、個々の自己というものをいかにして区切り出す=分節化するか、という問題である。

そこで生まれたのが王権であり国家である。国家の始まりについて、『精霊の王』の中沢氏はつぎのように書いている。

「超越的主権」というものが、の存在をつうじて社会の内部に持ち込まれてくる時、そこに国家が生まれる。…縄文的な社会においては、「世界の中心」たる真実のは、社会の外にいる。それは境界の外から人間の社会の内部にやってくるものでなければならない。「シャグジ」の神の考え方にこのような縄文的で前国家的な思考が濃厚に染み込んでいるのを容易に見てとることができる。(『精霊の王』p.208

ここでいう国家というのは現代の国民国家としてではなく、王権としてイメージするとわかりやすいかもしれない。

王権には二つの機能がある。

第一は、社会の秩序を維持する機能である。
第二は、秩序がまだないところから秩序を発生させていく機能である。

第一の機能について、国家はひとりひとりの個人が自らを他の人間たちから区別するために必要な言説の束を提供する

生年月日、名前、性別、住所、学歴、成績記録、資格、免許特許に逮捕歴、納税記録に医療関係の履歴などなど、いろいろとある。

さらに現代社会にはいわゆる「国家」の直轄ではなく、「民間」に委ねられているものもある。Googleの検索履歴から、楽天やアマゾンの購入履歴、スマホが集めた位置情報の履歴に、SNSへの投稿履歴などなど、私たちひとりひとりを「何者か」として分節化する情報はますます増えており、しかもそれがうろ覚えの口承口伝ではなくビッグデータとなってリアルタイムのマッチング計算に供されては、そこから私たちが自分でも知らないような「好み」を推定され、おすすめの商品、おすすめの友達、おすすめのツイートなどという形で意識へと送り返される。

フィルターバブルなエコーチェンバーも、このような具合で、私たちひとりひとりが自分を自分でないものと区別する・分節化する仕方の問題として捉えてみるといい。

あるいは、国民国家や「民間」の王者たちが提供しますよと与えてくる分節体系と、私たち一人一人が自分自身を「自分自身的ではないもの」と区別するために依っている意味分節体系とが、ぴったり重なり合わない時、私たちは困難に立ち向かうことを余儀なくされる

一方、第二の機能においてという存在は「自然の領域のものであった「超越的主権」を、人間の社会の内部に奪い取るための媒介者の働きを」する者である(『精霊の王』p.210)。

後者の人界と自然界の媒介者としての王。

人界と自然界を区別し、人界を自然界に対して区切り出す荒技を成し遂げる王。それは具体的には素戔嗚尊のような王の起源を語る神話の中の王たちである。

人間の能力を超えた「超越的主権」というのは、農耕民にとっては雨を降らせたり、山から流れてくる川の水の量を調整したり、日照を調整したりする力である。雨が降らないのは困るが一度に大量に振りすぎても困る。日照は必須だが日照り続きも困る。雨も日光も水栓を捻ったりカーテンを閉めるようにうまい具合に調整できると良いのであるけれども、大昔の人々にとってはそれは出来ない相談だった。いや、もちろん今日の私たちにとっても簡単なことではない。

自然のエネルギーの流れを、人間の力でどうにかできるのではないか?

そのように考えて、自然を人間の社会と対峙する「外部」としてではなく、社会の「内部」に回収された資材やエネルギー源として見る。こうした自然の観方の転換は、今日につながる自然科学の遠い源流にある。

(国家の出現以前には)この世界を構成するどんな力も、その根拠をこの世のうちに見出すことはできなかった。それは世界の外、自然の奥、あの世、空無などとして思考される場所に見出されるものだったからだ。そういう外の力を社会の中に取り入れてしまうトリックが完成した時に、はじめて国家は出現できるようになる。(『精霊の王』p.260

中沢氏は、金春禅竹によって「『明宿集』が書かれた背後には、「王権」のありかたをめぐる深刻な動揺がひそんでいるように、私には思われる」とも書いている(『精霊の王』p.317)。王権の存在が自明な所与ではなくなってしまった状況で、王権を再建しようとか、新たに構築しようといううねりの中に、足利将軍も、善竹もいるわけである。

「境界性」の現在

自然と人界を区別するという、この第二の機能が動いているところは、特に現代の日常の風景からはすっかり見えなくなっている。テクノロジーによって高度に維持管理された現代という人工空間は、予め出来合いの完成品という装いでわたしたち一人一人に迫ってくる。

この人工空間では、人間と動物食べられるものと食べられないもの清潔と不潔正常と異常善と悪生と死、意味のあることと意味のないこと、などなどをなるべくはっきりと分けておくようにという「配慮」が漲っている。

そこではこれらの対立関係にある二項の区別もまた予め出来合いの、決まりきっていてその境界を動かすことなど考えることもできないような固定した区別であるかのような外観を呈して、わたしたちひとりひとりに迫ってくる。

わたしたちが物心ついた時から「現実」として受け入れているこの安定した秩序としての人工空間は、このような二項対立からなる区別のシステム、分節体系(意味分節体系)である

そしてなによりもその「現実」の中に現実の一部として存在している「私(自我)」もまた、複数の二項対立関係が重なりあってできた意味分節体系の中に組み込まれた一項なのである。

「現実」や「私」をそれとして、それではないものと区別する意味分節体系。現代の人工空間の自動化された再生産システムは、この意味分節体系を予め出来合いの完成品、変更不可能な決定済みの何かだと私たちひとりひとりに信じさせようとする(こういうのを丸山圭三郎氏は「第三の狂気」と呼んだのである)。

ところが何度も繰り返しているように、この分節体系、互いに区別される二項対立関係の正体といえば、実は区別する動き、分節する運動なのである。

区別があるのは、区別をするからである。

そして区別をするということは、区別以前、区別がまだないところ、未分節あるいは絶対無分節の領域で生じる動きなのである。

区別がないところで最初に区別を区切るのが、王権の第二の側面、素戔嗚的で宿神的な能力である。それは区別済み分節済みの分別を守るように要求し、分節済みの分別から逸脱する人を罰する権力の第一の側面と比べるとずいぶん異質な力である。

仮に、AIに強化された近い将来の私たち人類(ユヴァル・ノア・ハラリ氏の言葉を借りれば"ホモデウス")が、曲がりなりにも世界の王者、地球の王者、百獣の王になるとすれば、その新しい王権この二つの力(出来合いの区別を守り維持する力と、区別を区別以前から区切り出す力)を使い分け、切り替え、うまい具合に現実を常に新たに更新し続けることができるように設計されるのだろうか??

『精霊の王』の最後のページで、中沢氏は「耳」というキーワードを登場させている。

(精霊の)王の語りかけるひそやかな声に耳を傾けて、未知の思考と知覚に向かって自分を開いていこうとするのか、それとも耳を閉ざして…日常に閉塞していくのか。すべては私たちの心にかかっている(『精霊の王』p.320

潜在空間から私たちの意識の表層へと、区別「する」動きの影が映り込む。

出来合いのものにみえる区別は、区別「する」動きが残した足跡のようなものである。

目に見える、耳に聞こえる、五官で容易に感じ取り意識できるものの背後に、「ひそやかな声」を聞き取る耳、沈黙を声として聞こうとする、開かれた、創造的な耳

この「耳」は、すでに聞いたことがある言葉を聞き取る音声認識AI的な耳ではない。

聞いたことがあることを聞くのではなく、聞いたことがないことを聞く。

前者の聞くが既成の凝固した意味分節体系の枠内での分別処理であるのに対して、後者の「聞く」は意味分節体系を発生させる原初の区別を区切り入れることである。前者の耳はラングのシステムに従属し、後者の耳はそれ自体がランガージュの創造的機能を担う、と言ってもいい。

沈黙を声として聞くことは、予め存在しなかった区別を、はじめて区別するということでもある。

それこそが潜在空間から分節された現実を顕在化させること、それも常に新しく顕在化させることである。

『精霊の王』の精読は以上です。

おわり


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