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伝達される意味と、発生する意味

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安藤礼二氏の『迷宮と宇宙』を読む。

まず最初の評論は「二つの『死者の書』 平田篤胤とエドガー・アラン・ポー」であ。

冒頭からいきなり超高密度の思考の世界へと誘われる。

折口信夫の「意味」の話である。

「國學院大學国文学科に提出された折口の卒業論文『言語情調論』は、そのすべてを費やして、単なる意味の伝達を果たすに過ぎない「間接性」の言語ではなく意味の発生そのものに結びついた「直接性」の言語、「象徴言語」のアウトラインをなんとかして提示しようと試みた悪戦苦闘の記録だった…」(安藤礼二『迷宮と宇宙』p.11)

ここでは言語の二つの可能性が対比されている。

間接性の言語 / 直接性の言語
↓        ↓
単なる意味の伝達 / 意味の発生

こういう具合である。

意味というのは、最初から何か決まって「ある」ものではなく、発生している事柄でもある、という考えに注目したい。

意味には二つある。

ひとつは「単なる意味の伝達」のための道具のような言葉。私たちが日常の世界でものを食べたりして生き延びる手段となっている言葉である。

日常の経験世界の中で、自分の身の回りに、自分にとって「よいもの」と「わるいもの」を分けたり、あれではなくこれ、と物事を区別をしては判断したりする。そうしたことに役立つ言葉である。

そしてもう一つが「意味の発生」そのものである言葉である。

「事物の差異、つまり事物の「意味」を明確に区切るという性格に特化された間接性の言語がもつ「差別的」な特質に対して、直接性の言語がもつ特質とは、次のような連続する一連の過程だった。「包括的→仮絶対→曖昧→無意義→暗示的→象徴的」…。」(安藤礼二『迷宮と宇宙』p.11)

ここで「意味の発生」と「単なる意味の伝達」との違いが明らかになる。

ふたつの言語の違いを比べていくと、下記のような具合になるだろう。

"間接性"の言語 / "直接性"の言語

単なる意味の伝達 / 意味の発生


事物の差異を明確に区切る / …曖昧→無意義→暗示的→象徴的



差異を固着させる / 差異が生じては消える律動的運動

単なる意味の伝達のための言語には、恐るべき側面がある。

それは言葉の分節機能が切り出した事物の差異を「明確」なもの、つまり固定した、誰にとっても同じで変わることのないものとして要求することである。

言語の意味生成機能が最初に動き出したとき、差異化のプロセスが切り出す差異は、あくまでも仮のものである。

何と何をどう区別するかのルールが、予めどこかで決まっていたり定められていたりするわけではない。

それなのに、そのことを忘れてしまい、ある区別を固着させ永久不変のものとして絶対化する。

そういう固まっていると思い込まれた区別を繰り返しているうちに、私たちはついに事物の差異を言語の分節作用の仮の産物としてではなく、事物そのものの本質に基づいて、予めかっちりと固まったものだと錯視するに至る。

固まった差異の体系は、本質主義的な「差別」の意識となって私たちの日常の感受性を縛り上げ、極度の緊張を強いる。

意味の発生

これに対して、意味の発生とともにある言語とはどういう姿をしているのだろうか。

安藤氏は折口の言葉を弾きながら次のように書く。

即ち「意味の伝達ではなく、意味の発生」を引き起こそうとする言語は「絶対的な表現」に向かうという。

この「絶対的な表現」のことを折口は「象徴言語」と呼び換える。

「絶対的な表現とは、一つの音のなかに無限に異なったニュアンスをもった複数的かつ多数的な意味を包括し、その結果として曖昧模糊としながらもさまざまな暗示に富んだ音楽的な言語となる。その言葉は人間の感覚や感情に媒介物を経ないでダイレクトに訴えかける。」(安藤礼二『迷宮と宇宙』p.12)

無限に異なったニュアンス、複数的かつ多数的な意味

そして曖昧模糊、暗示に富んだ音楽的。

感情にダイレクトに訴えかける。

これらが鍵である。

意味の発生を生じ続ける言語とは、差異を区切りつつ、それをどこかに固定しない。

ここで思い出すのは井筒俊彦氏の『意識と本質』に収められている「対話と非対話」という話の最後の一節である。

「禅の観点からすれば、現代の言語理論内に生じている言語的コミュニケーションの難問と、それに関聯する数々の複雑な問題は、主として言語の伝達機能に不相応な重点が置かれるところに起因します。むしろ言語については、意味分節的機能にこそ第一の重点が置かれなければならない、否定的意味においても肯定的意味においても、これが言語に対する禅の根本的態度です。」『意識と本質』p.408

ここで井筒氏が書いている言語の「伝達機能」「意味分節的機能」は、折口の「単なる意味の伝達」と「意味の発生」に対応するといえよう

そして伝達機能(「単なる意味の伝達」)の方に「不相応な重点」を置くことに問題があると、井筒氏は指摘するのである。

「否定的意味においては、言語の意味分節的機能は、あらかじめきちんと分節された認識形態のシステムを押しつけることによって、我々の心に「現実」の歪んだ形象を産みつける。言語の分節機能のこの否定的な影響力が先ず何よりも第一に取り除かれねばならない。」『意識と本質』p.408

意味分節機能が作り出した差異の体系は、言葉の読み書きを処理する脳の働きを介して私たちの精神にに書き込まれる。

そうして私たちに「あらかじめきちんと分節された認識形態のシステム」を「押しつける」。

これは先程の差異の体系が固定化することの問題である。

危険なのは、差異を区切ることではなく、仮に区切られたに過ぎない差異を絶対的なものとして固定してしまうことである

取り除くべきなのは「あらかじめきちんと」区別されているはずだ、区別は完成済で固定した静物だ、という思い込みである。

「第二段階として、我々の言語行為が今度は肯定的積極的に、非言語が具体的な言葉として自己を分節していく形而上的プロセスとして自覚されなければならない、というのです。」『意識と本質』p.408

固定していなければならない、という思い込みが取り除かれたところで、言葉は分節の自在な運動としての正体を、つまり「象徴言語」としての姿をあらわす

意味とは

意味というのは何らかの「もの」ではなくて、「意味する」という「こと」である。意味するとは「名詞」ではなく「動詞」である。

意味するとはなにをすることかといえば、(1)まず区別すること、そして(2)区別が生んだ事項の対立関係を複数重ね合わせることで、第一の対立関係の片方にある項を、第二の対立関係の片方の項に置き換えることである。

一例を挙げれば、こういう具合である。

文明 / 野蛮

善い / 悪い

「/」が(1)の区別することであり、「↓」が(2)の重ね合わせである。

言語の分節作用が生み出した差異を「固定化」することが問題だと言ったが、この「固定化」は(2)の作用である。区別することは人間が生命システムである以上やむを得ないとして、問題は区別と区別の重ね合わせをある一つのやり方だけに固定しようとすることにある。善悪の区別は世界ができたときから予め決まっているはずだという発想。

これに対して(2)の重ね方を裏返しにしたり、複数化したりすることが、固定化を解除する手がかりになる。

例えば、

文明 / 野蛮

善い / 悪い

これを

文明 / 野蛮

悪い / 善い

と逆転してみる。そうすると、文明→善い→悪い、という関係になる。善いと悪いがひとつに重なる。善いのか悪いのか?!どちらなのか!決めてくれ!という要求は受け付けられない。

区別の重ね方に予め決まっている「正解」はない

そんなとき、善い「かつ」悪いは、分節が無分節から生じたものであることを知らしめるとともに、分節にはいくつもの可能性があること、そして区別の重ね方は可変的であることを、私たちの日常性に没した意識に知らしめるのである。

そうして実はこれこそが、「生と死」の区別に戦慄せざるを得ない私たちを救済するほとんど唯一の技法なのである。

そうして、二つの『死者の書』へとつながっていくのであるが、これはまた別の機会に。


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