書かないという書き方 -空海『秘密曼荼羅十住心論』の最後のページを読む
竹村牧男氏の『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』を手がかりに、空海の『秘密曼荼羅十住心論』を読む。
空海の『秘密曼荼羅十住心論』の最後は「欠文」になっている。
途中で文書がなくなってしまっている。
読むと、第一住心から順番に第八住心まで、それぞれの「心」のあり方を可能にする「不生」の教えが述べられていき、いよいよ”あと少しで第十住心”という第九住心にあたる極無自性乗のところで、突然話が切れてしまう。
「極無自性乗は約して…」で、そこから後のテキストが無い。
覚心不生乗が第七住心、一道無為乗が第八住心、極無自性乗が第九住心であり、この次に第十住心 秘密荘厳心、即ち真言密教が来る。
この「欠文」。書かれたものが伝世される途中のどこかで欠落してしまったとも考えられるし、あるいは実は、そもそも書かれていない可能性もあるという。
あえて書かない
そもそも書かれていないとは、つまり、空海が、あえてこの先を文字にしなかったのではないか、ということである。
あえて書かない。
十住心論を少し戻ると、次のように書かれている。
真言の実義、つまり第十住心 秘密荘厳心の教えを、言葉で、人間の言葉で、言い尽くすことはできないという。
考えてみると、書いてしまうと、読み方によってはそこですべてが言い尽くされているような感じになることがある。
言い尽くせないはずのことについて、「それは○○である」「XはAである」などなどと書いてしまうと、後々読まれる時に、その書かれたことが一人歩きしてしまい、なにやら言い尽くされているような感じに読まれてしまうリスクが生じる。
読む
「読む」ということもまた、”心”(しん=住心の”心”)のなすわざである。
そうなると、それこそ十住心のうちの、どこまでの”心”で読むことができるのか、というのが大きな問題になってくる。
因縁と業のからみの中で現世に生を受けたわたしたち人類のひとりひとりは、言葉を読み書きするといっても最初はもちろん、異生羝羊”心”でもってできる限りで読み始めることになる。
異生羝羊心は「自」と「他」をあらかじめはっきり分かれているものだと思い込んだ上で動き出す。そして「自」が欲するままに「他」を「自」の材料として、「自」に属するものとして、「自」を補強する素材として求める。そうして「他」を「自」へとくっつけたり取り込んだりしようとしては、壊してしまう。しかも「他」を犠牲にして必死に建設再建されつつある当の「自」は、他ならぬ老・病・死にいまにも食べられようとしている。
異生羝羊心は自/他の分節を固定したものだと思い込み(本当は動いているのだが)、その固定を補強するものを自の中に取り込み、その固定を外そうとするものを恐れ払い除けようとする。こういう異生羝羊心による”読み”もまた、この分節を固定しようとするはたらきと同じになる。
”自”と”他”をあらかじめ分節されたものとして設定し、さらに”自を利する他”、”自を害する他”とをあらかじめ分節されたものとして設定する。
自 / 他
利する / 害する
そして目の前に現れるあれこれのものや、あれこれの言葉を、この四項関係のいずれかにあらかじめ属するものとして分けて、集めて、対立させ、食べて壊そうとする。
ここで特に問題になるのは「あらかじめ」である。
異生羝羊心では、自も、他も、自を利するものも、自を害するものも、それぞれがあらかじめそれ自体としてあり、半永久的にそのままそれとしてあり続けるとみる。
あるものはある。とにかくある。あり続けるのだと執着する。
ここでは「ある」は、あくまでも「ある」と「非-ある(ない)」とを分けること・分節する・分別すること・差別することの上に、後から始まるのだという発想や、そのような分け方・分けることをやめて仕舞えばあるもないも区別がなくなる、といった発想は出てこない。「生」が「不生」さえもが、分節される限りでの「生」であることに思い至らないところで、あれこれの「生」だけを並べて執着しようとする。
しかしこの「生」はあくまでも「生」と「不生」の分節分別差別の動きが揺らめかせる影のようなもので、分ける動きの動き方が変わったり、止まってしまったりすれば、簡単に消えてしまうものである。
分節する動きのことを知らずに、いずれ必ず消えてしまう分節の動きの影を永遠の実在だと思い込んで執着することが苦しみを生むのだ、と教えたのがお釈迦様ということになる。
* *
さて、仮に「極無自性乗は約してAである」とか、「秘密荘厳心とはBである」とテキストに記したとして、そのテキストが千年を超えて伝世されたとして、それが異生羝羊心的な技である実体化した項たちを配列する作業において「”読まれ”」てしまうと、「真言の実義は窮尽すべからず」という一番大事な話が通じなくなる危険性がある。
言語における意味、AはBだとか、XはYだとかいう置き換えは、すべて以下のような最小構成で四つの項の関係から成り立っているが、異生羝羊心的な読みは、このそれぞれの○が、それ自体としてあらかじめ固定した本質(自性)をもって、永遠に存在するはずだ、と執着した上で、どの○とどの○をイコールにしましょうかね、とやる。
○ / ○
/ /
○ / ○
しかし、仏教で重要なのはこの○が自性を持たない「空」であるのだと観じることであり、特に秘密荘厳心であれば、この四つの○たちのセットが無数に発生してくる動きそのもの、○たちを区別しつつ結びつける「/」の線が走る動きの脈動にふれることが肝になる。
「/」の線が走る動きの脈動は、根本的には、あらかじめ何かの根源的な「○」によって制約されるものではない。/は自在に走り回り、無数の○たちの四項関係を発生させ続ける。その全貌はまさに「窮尽すべからず」である。
この「真言の実義は窮尽すべからず」を、なんと人間でも、その”心”でもって生きることができる。そのためには多義的で両義的な深秘の言葉の分節発生の動きを覚ることができる生きた心=身を鍛え上げることが必要であり、これこそが空海さんの求める修行の道なのだとすれば、「AはBです。以上です」というところでテキストの読み手が止まってしまうのは、避けるべきことになろう。
書かれたもの、文字で配列されたものを、末法がさらに進んだ千年後の異生羝羊たちが、どう読めるか…(異生羝羊”心”の分節だけで読んでしまうか、それとも秘密荘厳”心”までの各”心”の分節や動的分節でも読めるか…)。あまり期待できないと言わざるを得ないのではないだろうか。
そうなると”書かないことでむしろ読ませる”という説法の仕方が、読み手を「真言の実義は窮尽すべからず」に近づける道になりそうである。
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それにしても、「欠文」に何が書かれるはずなのか、非常に気になることである。
この点について、竹村牧男氏は『空海の究極へ『秘密曼荼羅十住心論』を読む』の最後で次のように論じる。
これは非常に重要なところである。
不生 即 生
生じないものは何もない 即 不生
生でも不生でもなんでも、わたしたちは言葉を使ってものを読み書きする際に、あらかじめ切り分け済み・分節済みの項(○)をまずどこかからもってきて、それを配列しようとしてしまう。
○ / ○
/ /
○ / ○
ついついそうしてしまう「業」に対して、「あらかじめ」ではないよね、「済み」ではないよね、と言った上で、分節する動きの動き方を徹底的に分析して記述しよう(この営み自体が、別種の四項関係を構築することである)ところが、空海さんの途轍もないところである。
テキストは書き始められた以上は終わりがある。
始まりは終わりに対する始まりである。終わりのない始まりはない。
これは終始を分節し、その区別を予め切り分け済みのことだとした場合の話である。
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それに対して、秘密荘厳住心であれば、始まりは即 非-始まりであり、終わりもまた即 非-終わりである。書かれていることは即 非-書かれていること(書かれていないこと)であり、書かれていないことこそ 即 非-書かれていないこと(つまり書かれていること)である。
書かれているか、書かれていないか。
書かれている / 書かれていない
この分節、区別、差別もまた「不生」なのであった。
始まっていないが始まっており、終わっているが終わっていない。
不生なのか、それとも生なのか?二つに分けて、どちらか片方を選ぶ、ということが、ない。
そこでこそ、不生即生である。いくつもの「生」。まさに「かくの如き四種曼荼羅、その数無量なり。刹塵も喩にあらず、海滴も何ぞ比せん」である(空海『秘密曼荼羅十住心論』 秘密荘厳住心第十 第一節 大綱)。
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