見出し画像

<二分心>の始まりと終わり - ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む

ジュリアン・ジェインズ氏の『神々の沈黙』引き続き読む

ジェインズ氏の二分心説では、「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた」と考える。ここで「神」というのは、ある人が、部族の仲間や長老たちの訓戒する声を聞いたものが記憶され、それが脳の右半球で幻聴となって繰り返し響く、というものである。

二分心について、詳しくは下記の記事に書いているのでご参考にどうぞ。

二分心の始まりと終わり

ジェインズ氏は二分心の始まりを、たくさんの人が集まって定住し、世代を超えて農耕牧畜を営む暮らしの始まりと同時と見る。

<二分心>とは社会統制の一形態であり、そのおかげで人類は小さな狩猟採集集団から、大きな農耕共同体へと移行できた。<二分心>はそれを統御する神々とともに、言語進化の最終段階として生まれた。」(『神々の沈黙』p.156)

ただしここで少し考えてみたいのは、二分心と定住農耕のどちらが先か、という話である。もちろん鶏と卵で、同時並行で進化したのだろうけれども、どちらかといえば定住農耕に先行して小さな狩猟採集集団で移動生活を送っていた時代から、二分心は少しづつ発達を遂げたのではないかと思われる。

過去に「こういう時はこうすべき」と教えてくれた部族の先達から聞いた言葉がふと頭に浮かんでくるということは、狩猟採集の活動で失敗を回避する上でも役に立つことだろう。

それでもやはり定住農耕の拡大によって、二分心の声がますますその重要性を高めたことはあり得る話である。なぜなら定住農耕の集落や耕地を維持していくためには大人数の人々が常に協力して、毎年毎年同じ活動を繰り返すことが重要になる。


チグリス川、ユーフラテス川流域で言えば、定住農耕の開始は今から一〇〇〇〇年ほど前にまで遡る

二分心に基づく「文明」の繁栄は、巨大な神殿をその中心にもつ古代都市をいくつも形成するようになる。

しかし、前3000年紀に入り、都市の人口の増加多部族の坩堝化による社会の複雑化とコミュニケーション不全、災害や疫病などの自然災害が引き起こす混乱の中で、二分心は徐々に沈黙した。

そうして人々は、二分心の「神」の声に指図されることを諦め、今日の我々がやっているように、言葉の比喩の力で作り出した「意識」の論理を手がかりに、複雑化する社会環境や荒廃する自然環境の中で打つべき手を模索するようになっていったという。

二分心の発生・崩壊は、一度きり?それともたびたび??

二分心の発生と崩壊について考える時に一つ誤解しないように気をつけておきたいことは、この二分心の発生と崩壊は、ある時を境に一挙に人類のメンバー全員に同時に起きた事件ではないということである。

二分心の「神の声」は脳の神経ネットワークのつながり方のパターンに支えられて幻聴を引き起こすのであるが、そういうことが起きるのは、何か特定の神経のつながり方を引き起こすような遺伝的変異が、人類全員に突如として伝わったというような話ではない。

定住農耕という暮らし方が始まったのは(つまり二分心が発生したのは)、すでに人類の祖先が世界中に散らばった後、数万年を経た後の話である。

二分心が発生したり崩壊したりすることは、一つの集団、共同体に集まっている人々の生業の組み方社会関係のあり方に依るものであって、特にコミュニケーションのやり方に依る。

それは即ち、少人数で移動しながら生活する「狩猟採集集団」から、大人数が一つの場所に長期的に定住し共同して農耕牧畜に勤しむ共同体のあり方への転換である。

この狩猟採集しながらの移動生活から定住農耕へのナリワイの転換は、地球上のさまざまな場所で、さまざまな時代に、何度も起こったことである。

そうなると二分心もまた、地球上の様々な場所、様々な時代に、何度も発生しては崩壊した可能性がある

要は、個々人の日常の暮らしの環境のあり方、自然環境との関わり方(野生の森の中を歩き回るのか、人工的に構築され先祖から受け継がれた耕地を守るのか)と、社会環境との関わり方(常に離合集散する少人数でアドホック(その場限り)に協力したり駆け引きしながら目の前に出現する課題に対応するのか、それとも祖先伝来の予定された仕事に大人数で同時に一緒に従事するのか)によって、成長過程の脳の神経に与えられる刺激のパターンと、学習のパターン、記憶のパターン異なるということだと推定される

* *

ジェインズ氏は次のように書いている。

文明はまず近東の各地で個々に発生し、チグリス・ユーフラテス川沿にいにアナトリアへ、ナイル川流域へと広がり、やがてキプロスとテッサリアとクレタに至った。その後しばらくするとインダス川流域とその先へ、さらには北方のウクライナや中央アジアへと伝播した。続いて、伝播による部分と独立発生の部分を併せ持つ文化揚子江流域に生まれた。さらにメソアメリカに独自の文明が発症した。アンデス高原にもまた、伝播による部分と独立発生の部分を併せ持つ文明が生まれた。これらのどの地域にも、類似した特徴を持つ王国が連続して興った。いささか早計かもしれないが、その特徴とは<二分心>であると私は言いたい。」(『神々の沈黙』p.180)

ここでいう「文明」とは、二分心文明、二分心の神の声が指図するところに従って住民が一丸となって働いては神殿を建設したり都市を建設したり運河を建設したり日々の畑仕事に出かけたりする世界である。

そういう文明の姿は、メソポタミアに始まると共に、古くからの狩猟採集民の移動&交易ネットワークを通じてユーラシア各地に伝わった可能性がある。そして中国の黄河や揚子江の農耕文明もこの伝播の東端である。

紀元前1000年ごろに始まった日本の農耕社会も、揚子江流域の農耕文明を主要な起源としているわけで、そうなると私たちもまたメソポタミア起源の二分心の残響の残響の残響のようなものをわずかばかり受け継いでいるのかもしれない?!

実際、日本の神話も、さまざまな時代のさまざまな場所で「習合」を繰り返しながらも、アーリア系の遊牧民の神話に共通する要素が残っている。そしてアーリア系の遊牧民というのはまさにメソポタミアで農耕文明が成立した後に、その影響を受けつつ成立した集団なのである。

この辺りの話については、吉田敦彦氏の『日本神話の源流』後藤明氏の『世界神話学入門』あたりが手がかりとなりそうである。

幻聴の前にある「聞くこと」

二分心における神の声の幻聴は、「脳」において発生するものである。

ここで気をつけたいのは、脳は、一切の外部環境から隔絶され孤立したところで、ゼロから二分心の神の声を生み出すわけではない。

二分心の神の声は、日々一緒に暮らして働いている周囲の人々の口から発せられる声を聞き、その声を脳で記憶することに始まる

ジェインズ氏は以下のように二分心の一般的パラダイムを考える。

一) 集団内で強制力を持つ共通認識
 集団内で信じられていること、文化全体の合意に基づく期待や掟。

二) 誘導
 限られた範囲に意識を集中させて狭めるための儀式化された手順

三) トランス
 集団内で強制力を持つ共通認識と誘導への反応による意識の希薄化

四) 古き権威
 トランスに入って交信したり結びついたりする相手

一)も四)も、祖先伝来の教訓話、訓戒話の決まり文句を繰り返し聞かされない限り出現してこないものであるし、二)と三)は長老が語る部族伝来の決まり文句を、強いストレスの中で集中力を高められた若者たちの耳へ、脳へ注ぎ込むための手続きである。

二分心は、日々一緒に暮らす人々の共同体があり、そこでほぼ同じ人たちがいつもいつも同じような生業のための行動やを反復しながら祖先伝来の訓戒的な決まり文句をことあるごとに繰り返し繰り返し口から発しており、共同体の耕地や放牧地で共同作業をしている限りその決まり文句の声をほとんど一日中聞かされ続けるという生活環境があってこそ、その環境の中ではじめて脳による記憶と学習の一つの成果として形作られるものであると考えられる。

二分心の「神=祖先」の部分による声は、脳内から自然発生するものではなく、あくまでもかつて誰かの口から出た声を、耳で聞き、おそらく復唱し、そして記憶したものが繰り返し思い出されることによって、具体的な細々した指図になり「人民を食糧生産と自衛のために結束」させたわけである(『神々の沈黙』p.183)。

これがジェインズ氏による次の一節に繋がる。

「(二分心の「神=祖先」の声である)幻聴は言語の副作用として生まれ、部族の生活で時間のかかる仕事を一人ひとりにやり通させる働きをしたのではないか。」(『神々の沈黙』p.173)

ここで日々一緒に暮らす人々の共同体が大人数になればなるほど、その大人数の人々が繰り返し繰り返し同じような祖先伝来の訓戒的な決まり文句を耳にすることができるような舞台装置が必要になる。

それが神殿であったり神像であったり装飾されたかつてその口がしゃべっていた祖先の頭蓋骨であり、それらを用いた儀式を行いつつ祖先伝来の決まり文句を暗唱して口にする神官たちであったりする。ジェインズ氏は次のように書いている。

「重要な人の亡骸をあたかもまだ生きているかのように埋葬する慣習は、ここまで見てきた建造物を擁する古代文明の、ほとんど全てに共通している。この慣習は、死者の声が生きている者たちに相変わらず聞こえておりp.194)、その声がそういう葬り方を求めていたのだと考える以外に説明がつかないのではないか。」(『神々の沈黙』p.194)

訓戒的な決まり文句をかつてその口から発声した死者たちこそ、その声を聞いたことがあり、記憶している生者たち(比喩としての「意識」は持っていない生者たち)にとって、「神」の声の主であった。

* *

この声の主は、その残された身体によって象徴されるだけでなく、神像によっても象徴されることになる。

ジェインズ氏はメソポタミアの神像たちの「口を開け、耳が誇張され」た姿や「目」が過剰に大きく強調された姿に、幻聴の声の「主」の姿、声を発する二分心の「神」の姿と、その神の声を(幻聴として)聴き、その声を自らの口を通して発した生者たちの姿を見る。

二分心の「神」の声が沈黙するとき

二分心の「神」の声が祖先たちが口に出した訓戒的な決まり文句であるとすると、次のような問題が生じることになる。

即ち、祖先たちが繰り返し経験してこなかったタイプの新しい状況や課題に部族や都市が直面した時、祖先伝来の決まり文句の中には、その解決策を教えてくれるような決まり文句や決め台詞は存在しないということである。

特に、大規模化する共同体が直面する複雑な問題、例えば戦争や災害に対応した適切な指示を得ようと思っても、二分心の神の声は、適切なアドバイスをくれないことがある。

このことについてジェインズ氏は次のように書く。

前三〇〇〇年紀末に近づくにつれ、社会組織のテンポが速くなり、その複雑さも増したため、毎週、あるいは毎月、昔よりはるかに多岐にわたる、はるかに大量の決定を下すことが求められた。そのため、たいへんな数の神々が現れ、人々が遭遇するありとあらゆる状況に応じて祈願の対象となった。(『神々の沈黙』p.235)

これが二分心の崩壊のきっかけになる。

例えば、共同体を構成する人々の大規模な移住や交代があると、都市の王が歴代の王から伝承して口にしていた二分心の声を真面目に聞かない人々や、言葉がよくわからず聞こうにも聞けない人々が増えることになる。

そういう人間集団においては、ある一部の神官たちの祖先の声の残響である二分心は、新く集まった多様な背景を持つ人たちの行動を一つにまとめる手立てとしては有効性を失ってしまう

「(二分心の崩壊の)原因は、秩序を失って解体した社会、人口過剰、そしておそらく幻の声による命令が文書による命令に取って代わられた影響もあるだろう。<二分心>が崩壊した結果、今日なら信仰の領域に収まる多くの慣行が生まれた。それは、失われた神々の声を取り戻そうとする努力だった。(『神々の沈黙』p.548)

共同体というか、目の前にいる多数の人々の集団を、直面する問題に対応するよう行動させなければならない時に、肝心の二分心の神の声が聞こえ無くなる。

これはとんでもない大事件である。

ジェインズ氏は次のようにも書いている。

「<二分心>時代の人間は、日常生活の瑣末な場面では無意識の習慣に導かれ、また、自分や他人の行動の中で、何か新しい物や尋常ではないことに出会った時には幻聴や幻視に導かれていた。それが、大きなヒエラルキー集団の中でそれまでの脈絡から引き剥がされたら、習慣も<二分心>の声も援助や指示を与えてくれず実に哀れな状況に陥ったはずだ。」(『神々の沈黙』p.255)

ここで当時の人々は、なんとかしてこの二分心の神の声に代わるものを用意しようと必死に模索したというのである。

「意識」の始まりとコミュニケーション技術

二分心の神の声が、複雑化する共同体の問題に対する適切な対応を指図できない場合、何か代わりになるものが求められることになる。

そこで沈黙した「神」の代役となったものが、聖なる文字で記された神の声であり、文字によって記された法であり、他の人には聞こえない神の声を聞いたという預言者たちなどであり、占いであり、そして言語の比喩の力を転用して作り上げた「意識」であった。

ジェインズ氏は次のように書く。

「私たちが主観的意識と呼ぶ比喩化された世界が、どんな特別な社会的圧力のもとで、いかにして出来上がったか[…]、なぜ特定の時期に比喩によって意識が生まれたか[…]」(『神々の沈黙』p.259)

なお、ここで「主観的意識と呼ばれる比喩化された世界」とは何のことかについては、別にこちらの記事に書いていますのでご参考にどうぞ。

さて、このいかにして、なぜへの答えは次の通りである。長くなるが重要なところなので引用する。

「<二分心>時代には、同じ都市の神に属していた人々は、多かれ少なかれ似たような意見を持ち、似たような行動をとっていた[…]。しかし国や神が異なる人々が外力によって激しく混ざり合ったとき、見知らぬ人が例え自分と同じように見えても違う話し方をし、反対の意見を持ち、違う行動を取るのを観察すると、相手の内面に何か異なるものがあるという仮定に行き着くかもしれない。実際、この考えは、哲学の伝統の中で私たちにも伝えられてきた。つまり思考や意見、妄想は「実際の」「客観的」世界には存在する余地がないから、人の内面で起きる主観的な現象だ、というのがそれだ。[…]私たちはまず、他人が意識を持っていることを無意識に想定し、その後それを一般化することで自分自身の意識の存在を推量しうる。」(『神々の沈黙』pp.259-260)

都市の街頭のあちらこちらで色々な人がそれぞれ違った言葉を発するようになる中で、お互いに「こいつは何を言っているんだ?」と思うようになる。

それでもコミュニケーションを諦められない場合、「相手の内面に何か異なるものがあるという仮定」をして、その上でなんとか同意できるところを模索することになる。

そしてここから転じて、異質な相手と向き合い合っている「私」の中にも、「内面」があり、そこに他人とは別の意見や発言の発生源になるものがあると言う想定、例え話、比喩につながる。これこそが意識の始まりである。

このプロセスを後押ししたのが字を書く技術である。

文字のせいで<二分心>の声の権威は徐々に衰退していった。[…]ひとたび神が沈黙すると、神の命令や王の指示は、物言わぬ粘土板に書かれたり石に刻まれたりした。人間はそれを自分の努力で求めることも避けることもできた。幻聴では決してあり得なかったことだ。神の言葉は、遍在して即座に服従を求める力ではなくなり、制御可能な在りかを持つに至った。」(『神々の沈黙』p.249)

頭の中で響き渡る指図する幻聴に比べれば、文字を読んで理解すると言うことは、与えられる言葉と、それを受け取っている部分との間の距離が大きく異なる。文字によるメッセージは「避けることもできる」のである。

文字でしかじかと書いてあるけれども、さてどうしようか、と思案する時間が生まれるわけである。文字に書かれた神の声は、二分心の神の声の幻聴ほど追い詰める感じがないと言うことだろう。

文字や意識が二分心の神の声よりも、複雑化する社会環境の中で個々人が行動を選択する上では「うまくいく」となった場合、二分心の崩壊は一挙に加速することになる。

おわりに

この辺りの話は、読めば読むほど今日の私たちが置かれている状況と瓜二つという印象を受ける。「二分心の崩壊」即ち、声の複数化に対応してのコミュニケーション技術の使い方の再編と、頭の使い方の再編は、今日の人類が直面している状況にも通じるものがありそうでとても興味深い

この二十年ほど、私たちの日常のコミュニケーションのやり方は、人類史上おそらくかつてなかった程の速さと規模で激変している。

この辺りの話については、また次回に続きを書きます

>続きはこちら

関連note




この記事が参加している募集

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。