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3000文字でも、15文字でも

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「あなたのnoteは長い」

と言われる。それも一度二度ではなく、よく言われる。

確かに長いかもしれない(ごめんなさい)。

何を隠そうWebコンテンツ関連の仕事をしているので、なるべく手短に、スマホで二、三回スクロールすれば読めるくらいの分量にまとめることや、伝えたいことを最初に書いてしまうことなどが、PVを稼ぎCVRを高めるテクニックとして有効であることは熟知している

カートに入れましょう
ダウンロードしましょう
申し込みましょう
問い合わせましょう
キータームを覚えましょう
決済ボタンを押しましょう

などなど。

Webはなんと言ってもページ遷移(ページからページへの移動)によって価値を増殖させるシステムなので、「今読んでいること」の「次にやること」を明確に指示する方が、クリック行動=ページ遷移を促しやすく、KPI的に好まれるのは当然である。


ならば、わたしのnoteも、もっと短い文章でまとめて、「次やること」を明確に指示する書き方にしたほうが良いのだろうか?

次にやることを指示するような端的明瞭な指示文というのは、だいたい次のような線形構造になっている。

条件Aならば、Cになります。
条件Bならば、Dになります。
Cはだめです!Dが良いです!
条件AとBの「ちがいが分かる」ようになったあなたは、Dを選ぶでしょう!

分け方を学び、その分け方に従って、与えられた選択肢からどれか一つを選ぶことを促す。ここでは、複雑怪奇で謎めいた世界を、どいう対立関係の両極に振り「分け」て、「分かる」ようになるか(あるいはわかったつもりになるか)。そうして、自信を持って次の行動を選択できるようにすることが狙いである。

もちろん、日常の常識的な世界を効率よく回していくにはそうすれば良いのだけれども、この日常の下に、簡単に分別して片付けられない「深淵」が拡がっていることも忘れてはいけない

その深淵とは、この分け方、分かり方には複数のやり方があるということであり、しかもそれがうごめいているということである。まさに「蠢く」という字の通り、春先に湧き出す虫たちのごとく。

「分け方」一つ一つは、どれほどおしゃれでスマートな分け方であっても、まるで生物やウイルス(!)のように自ら増殖することを志向しては、人から人へ乗り移り、あるひとの頭の中の分別のつけ方・物事の分かり方を組み替え、作り替えようとする。

一人の人間のアタマ、「わたし」の意識というのは、そういう複数の「分け方」がせめぎあい、衝突しあい、争い、喰らい合う、塹壕戦場と化した領土なのである

「わたし」の”分別ある”ロゴス的で合理的な意識というのは、そういういくつもの「分け方」と「分け方」との戦いが残した痕跡だと言ってもいい。

考える、あるいは思考するということは、自分自身がどういう「分け方」をしているのか、あるいはどういう「分け方」に"取り憑かれて"いるのかを、自覚できるようにするということである

どうやって自覚できるようにするのか。その方法は、第二、第三の「分け方」を仮設的に身につけ、それとの差分として、自分がそれまで知らず知らずのうちにに刻みつけられて来ていた「分け方」を浮かび上がらせるのである

分け方には色々ある。これまでの分け方をやめて、もっと良い分け方をしましょう、というのは良い。しかし、どの分け方がよくて、どの分け方がよくない(悪い)のか、複数の分け方を、良いものと悪いものに「分ける」分け方は、これもまた一つではない。

何より、どう分けたとしても、それは「分ける」ということをやっていることには変わらない。

そしてこの「分ける」ということこそが、未だ得ていないものを渇望・欲望する苦しみや、既に得たものを失い奪われる不安・恐怖を作り出してもいる。

もちろん、渇望、欲望、不安、恐怖もまた、死すべき一生命体としての人間を生きながらえさせる上で役に立つ仕組みではある。

しかし、この仕組みが暴走することがある。

人間の場合何が一番困るかと言えば、人間の渇望、欲望、不安、恐怖の「対象」が、動物たちのそれのように身体に直接迫る現実的な愛の相手や脅威ではないということである。

人間は自分で作り出した幻影を欲望したり、恐れたりする。

実際上、物質的にはなんの脅威でもない作り事の幻影を恐るがあまり、現実の世界を要塞化しようと破壊的な暴力を爆発させることがあるのだ。

そしてまたこの幻影たちの多くは、良いものと悪いもの、自分を脅かすものと自分を力付けるもの、といった、極々素朴な「分け方」に従って、創り出されたものであったりする。

ロゴスを持った人間は、分けざるを得ない。

分ければ良いのである。

しかしそれがあくまでも、無限の可能性のある分け方のうちのごく少数の分け方を組み合わせただけだということを忘れてはならないのである。

と、わたしの一連のnoteはこういうことを書こうと思って書いているのであるから、「分かる」ことよりも「分からない」ことをこそ、むしろ目指すべきなのである。「分からなさ」との遭遇を引き起こし、「分かる」を相対化するのである。

そうは言っても長い短いは別の問題である。「分かる」に対して「分からない」が大切だというのなら、「長い」「短い」はどちらでも良いのではないか。

では、短い言葉で「分からなさ」を「分かりやすさ」にぶつけるにはどうすれば良いか。思い当たる方法は詩的言語である。




二月の青空に泳ぐ 半月のクラゲ色



いかがだろうか?

この自作の句は、日常でははっきり分けられて固まっているいくつかの「分け方」をわざと縺れさせて、物事の手前に「区別すること」が、いくつも、自在に、うごめいていることを感じてもらおうとと云う趣旨で組み立ててみたものである。

空と海
(青空は天空。それを「泳ぐ」「クラゲ」で海の世界と一つにする)

冬と夏
(二月は冬。これを夏の海を連想させる場合もあるクラゲと一つに)

線形性と円環性
(二月は1、2、3と数え上げること。これに対して月の満ち欠けは円環。これを対比させる。)

明るさと暗さ
(青空の明るさと、海の中の暗さを一つにする。)

無生物と生物
(月は無生物。これをクラゲという生物と一つにする)

不透明性と透明性
(月の向こう側は見えないという不透明性と、クラゲの透明性を一つに)

円と半円(あるいは完全性と半分)
(クラゲは見る向きによって円だったり半円だったり。月もまた見るときに寄って円だったり半円だったり。)

こういう風に解説してしまうと、せっかくの詩的言語が台無しという気もするが気にしないでいただきたい。

これらはいずれも、対立関係を作り出す「区別すること」の動きをあらわにし、その動きの複数性・多数性をあらわにし、さらにその動きが複数縺れあう様をあらわにし、そうして全ての区別が、結局一つの「区別すること」であり、その「区別すること」が蠢くということ自体を垣間見させてくれる。

「区別すること」が蠢くということ自体。これをもっと分かりやすくいうなら、弘法大師空海による『即身成仏義』の言葉を借りて「同じではないが同じであり異ならないが異なっている、というような、まことに微妙な」関係ということになろう。


そういうわけで、長い短いはどちらでも良いのである。

たまたま長く書かれた文によって分節体系の流動性とその下の深淵をみる読み手の方もいらっしゃれば、わずか数文字の言葉で、同じく分節体系の流動性とその下の深淵をみる読み手の方もいらっしゃる。

そしていつ、どこで、誰が、長い方と短い方、どちらによってこの動きと深淵の世界に遭遇するか。これは書き手がコントロールできる範囲をはるかに超えているのだから。


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