見出し画像

通り魔に祈る

睡眠剤を飲み始めて、もう3週間ほどが経つ。確かに、入眠から2時間ほどで目が覚めてその後寝れなくなるようなことはなくなり、生物としてただしく寝ている感覚がある。とはいえ、連日の作品制作や搬入で腱鞘炎に近い痛みが右手の腕から親指にかけて存在している。そして気がつくと、足の爪が剥がれていた。特に痛みはないのだけど、体が悲鳴をあげている。

あちこちの病床数許容が限界を超えている。悲しみというより確かな精度で、同時に曖昧さというより不確かな絶望がある。私の周りにはまだコロナ感染者はいない。ワクチン接種も比較的スムーズに進んでいるし、私自身の仕事(デザインや文章執筆)も、特に問題なく金銭授受を行なっている。けれど、すぐそこに破綻は存在していて、生活が脅かされている人が確かに存在している。

偶然にも、とか、幸福にも、とか。そんな言葉がある。本屋で規則的に、狂気的な密度を持って並んでいる自己啓発本をまくると、「目的を簡潔に」「意味を見出そう」などのメッセージがゴシック体で連ねられている。吐き気がする。人生を簡単にして、何が楽しいのだろうか。生きることが、容易な訳が無い。難しさこそを、曖昧さこそを、複雑さをこそ、苦しみながら咀嚼して初めて、生の喜びがあると思う。苦しみがなければ、喜びもない。マイナスがあるからプラスが存在できるはずなのに。

小田急線で、人が刺されたというニュースが飛び込んでくる。同じく、石川県内のデパートでも通り魔殺人未遂があったという。死は、そこらに薄く漂っている。私はいつでも私でなくなるし、生きていることなど、虚構に過ぎない。

表現しながら、生きることがこんなにも魂を削る行為だとは思わなかっただろう、3年前の自分は。生活と表現がさも当たり前のような顔をして、命に手をかけている。彼方が立てば此方が立たず。人間たるもの、当たり前に言葉を話し、コミュニケーションをとる、といった具合の論理で。耳がなければ、いとも容易に言葉など崩れ去るのに。全てに立ち入り禁止のテープが貼られているような気さえしてくる。空虚な視線が当てどなく彷徨い、こぼすべき言葉も枯れていく。必死に睨みながら、必死に嫌いになるものを探している、嫌いなものが見つかれば、好きなものも見つかると考えて。けれど、もはや好きとか嫌いとかそうした水準を超えて、全ての事象が感覚の一つ下にある。感受性の俎上にすらなく、彩度を落としたモノクロームの世界が存在している。

表現者として、屈辱だよね、という言葉を思い出す。

システマティックに生命が扱われ、一つの有機的連合が無機的システムの中でトレードオフされていくとき、果たして何を叫べるのだろうか。冷蔵庫の中の牛乳の賞味期限、今日までだったなとか、医療費ちゃんと返ってくるかなとか、そんなことはどうでもいい。どうでもいいはずの事柄が脳内を駆け巡り、死の実感を強める。明日が明日でなくなるとき、私はなんの愛の言葉を叫ぶのだろう。アートに対する歪んだ愛だろうか、そばにいて欲しい人への感謝だろうか、自分への汚辱だろうか、「この程度で倒れてどうすんだよ」。

自分を認めることが、こんなに難しいとは思わなかった。

8年前の夏を思い出す。帰り道、耳鳴りに襲われ、目が胡乱になる。片方の目が外側を向き、もう片方の目も外側を向いていく。視界が何重にも重ねられ、汗が吹き出す。歩いていたはずの足が地面に落ち、電柱にもたれかかるようにしながら倒れた。メニエール病と診断された。メニエール病も、ストレスや性格が原因となるらしい。今は耳鳴りも目眩もないが、確かにストレスが重なると目眩が起きる。

通り魔も、殺人未遂の彼らも、生きている実感がなかったのだろうか。「自分が傷つくより、人を傷つけた方が、心が痛いのを知っているから」。シンジくんに投げられた言葉がリフレインする。他人に自己を投影して、痛めつけ、生死の境目に追いやり、恐怖で見開かれるその目を見つめて、生きている実感を得るのだろうか。耐えられないほどの痛みを覚えると、人は震え始める。強い喜びや達成感もまた、同様に人を震えさせる。生物として、痙攣するその手を、見開かれたその瞳孔を、止めてあげたいと思うことは、犯罪なのだろうか、救済なのだろうか。

noteを開いてから25分ほどが経つ。1764文字。日常の中で、こぼされる言葉の総数は幾つだろうか。その言葉の中に、いくつの愛があるのだろうか。

眩しい光は痛みに変わる。真実はなにも救済なんかじゃない。太陽を見つめれば視覚を失う。プラトンの洞窟の比喩では、影を見つめるのではなく、光の方へ向かうことが説かれるが、その光を見つめることは果たして本当に幸福に結びつくのだろうか。真実は時にグロテスクで、知らなければよかったと後悔することがある。知識は世界の解像度を上げるが、必ずしも解像度の高さは美しさと同値ではない。曖昧さが、複雑さが、捉えたままの感覚を美しく留めることがある。

多く交わさない言葉のなかにも、こぼさない言葉に、伝えられるはずだった事柄に、思慮に、真実が織り交ぜられている。それを明らかにすることが、必ずしも幸せとは思わない。口にしないことで、一般化しないことで、美しく存在できる論理は存在している。確かな実感として、「そうであればいい」と祈ること、顔を思い浮かべながら幸せを願うこと。祈るという行為は、慎ましい医療行為に似ている。

ナイフを捨て、私は祈る。そうであったはずの世界や、そうであったはずの関係性や、そうであったはずの私や、捨て去った選択肢や、触れるはずだった頬や、切り捨てた感情や、未来を、埋葬していく。いま、この手に残っている選択肢の行く末など、知らないけれど、少なくとも出会った人や、言葉を交わした人を、大切にしたい。彼らの、彼女たちの、言葉を真摯に受け止めたい。何より、その選択肢を選んだ自分を認めたい。私の内側から上ってくる感情にまっすぐに向き合いたい。夏の風を孕んではためく白いシャツに、絶望が入り込む前に。やすやすと、軽々と、ざわめくこころも、会いたいと思う感情も、生きたいと思うことも、伝えたいと思うことも、泣きたいと思うことも、それでいいのだと思う。白いシャツと、色褪せたジーンズと、悲しみを閉じ込めた銀のリングひとつで、私という存在が確かに存在できるように。余計な修飾語や、接続詞や、安易な感動ポルノを捨てて、素直に私という存在を生きたい。





この記事が参加している募集

#リモートワークの日常

9,714件

#眠れない夜に

69,412件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?