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概念の分娩室に立ち会うこと・ダニエルボッテガ・流行りを見分ける力

これまで服について主張することはなかったのだが、色々と思うところも増えてきたので断片的にnoteに書き残しておこうと思う。こういうときにnoteは便利だ。改まって何かを書くぞ、と思うわけでもないが、なんとなく言いたい気持ちがあるときにとりあえずエディタを開いてポチポチ打っておけばオンライン上で保存され、あまつさえ公開もできる。書くことに付随するUXやUIが思考にも影響を及ぼしていると思うが、noteを書くときはnoteの頭になり、おおよそ4000文字程度の構成がざっくり浮かんでくるのだから人間の適応力というのは不思議なものだ。

さて、服である。私が服(ファッション、メゾン、ブランド、コーディネート、ランウェイ…などなど)を自分の趣味の一つだと思うようになったのはごく最近のことだと思う。それまでも服は好きだったし、なんとなく気になるデザイナーのインスタやランウェイはチェックしたりしていた。私が高校生のころ——ニコラ〜デムナ・ヴァザリアのバレンシアガがもたらしたインパクトは大きかった。また、アミ・アレクサンドルマテュッシ、オフホワイトなどが私に新鮮な驚きをもたらした(今でも2017年〜2019年のアミは欲しいなと思うし、一見普通の服でも、ところどころに凝ったディテールが見えるあの雰囲気が好きだ)。オーバーサイズ、グランジ、ラグジュアルストリート…。2022年現在でも、この流れは続いているように見える。

高校生当時、私が「持ちたい」と思っていた服といえば、イッセイミヤケのプリーツプリーズオムプリッセである。これにはいくつかの経緯がある。2016年ごろからカルバンクラインのck oneという香水好きなら誰しもが一度は通るだろう作品を通して、イッセイミヤケのl'eau d'Isseyを使うようになり、そこからイッセイミヤケのクリエイションを見るようになった。ありきたりな(?)選択肢として、オムプリで全身揃えたいと思うようになり、そこからファッションのあれこれに足を突っ込むようになった気がする。

オムプリしかり、ビューティフルピープルやダブレットなども好きだったが、よくわからないインフルエンサーや自称モテファッションの指南者による汚染が続き、少し敬遠するようになってしまった。「これがモテファッションです」と声高に宣言されてしまった服を私が着るということは、側から見て「モテ」を意識しているように見えてしまう…という半ば被害妄想じみた理由によるものではあるが。JWAnderson、LOEWE、MARNI、Margiela、BottegaVeneta、CELINE… 有名どころとしてここら辺の服が好きだが、つい先日コムドットとやらがCELINEを着ていたのを見てしまった。それもロゴドンタイプのものではなく普通にかっこいいタイプのエディセリーヌだったので悔しくなった。なんなのだろう。インスタの当該投稿には「セリネっていうんですか〜?何着ても似合いますね」という女子のキャピキャピコメントが溢れており、げんなりする。それならCOMME des GARCONSはどう読むんだろう、「コメデスガーソン?っていうんですか? 知らない服着ててすご〜い」? 無知を晒しあげるつもりはない。私だっていきなりヘブライ語の単語を読めと言われたら読めない。

閑話休題、最近は(2020〜)、ダニエルリーのボッテガヴェネタがすごくすごく気になっている。気になっている、というよりはすでに2019 Pre fallのジーンズは買っているし、ファンであると自認してよいだろうと思っている。ダニエルの打ち出した流れは尋常でない強さがあったと思う。フィービーセリーヌもまた、根強い流れを作り出したが、彼女のクリエイションに似た強さ・時代を変える力をダニエルボッテガからは感じた。タイヤ、ラグ、パドル…。初めてパドルを見た時は正直ダサいなと思ったものだが、しかし今やパドルやラグは喉から手が出るほど欲しい。新宿伊勢丹でパドルを試着したがあの履き心地はすごかった(語彙力がない)。パデットカセットをはじめ、アルコ、ザポーチなども今や韓国のECサイトがパクリにパクリまくる始末である。ZARAやH&Mを見ても、ダニエルの打ち出したパキラートグリーンに溢れているし、どこもかしこもダニエル一色に染まっている。(後任のマチューはダニエルグリーンからは決別したように思えるが、どうなのだろうか。マキシイントレっぽいデザインはいくつか踏襲しつつ、既存のBVファンを巻き込んでいく路線に切り替えたように見える。さりげなく投入されたブーツは素晴らしくよかったし、何よりランウェイ冒頭のタンクトップ・ジーンズという90年代っぽい組み合わせがまさかのオールレザーだった。BVのこれまでのラグジュアル感を維持しつつ、トレンドはしっかり抑えるクリエイションは堅実そのもの…という印象だった。)不勉強なもので、今の70年代・90年代のリバイバルはどこから始まったのか存じ上げないが、エディセリーヌもまた、一つのうねりを作り出しそうな気もしている。タイダイ、ストーンウォッシュ、ケミカル、クロップド…。

どこかでこんな話を聞いた。かつての10代〜20代が憧れたファッションイメージが肥大し、40代になって購買力をもった人たちがかつてのイメージを自己実現するために服を買うのだと。ゆえに、今流行っている服は、40〜50代の人たちがかつて憧れた20〜30年前のイメージなのだ、という話である。むべなるかな、ファッションのうねりはこう当て嵌めれば理解できるような気はしつつ、しかしそう単純なドラマトゥルギーではないはずだ(と信じている)。しかし確かに予感するのだ、私が(購買力を持った)40代になったとき、ダニエルボッテガのような服を買う可能性を。

少し話がずれた。インスタの広告をちらっと見ると、いかにもダニエルBVのパクリと思しき服やバッグが散見される。軒並み5000〜1万円ほどの値段で売られており、商品タイトルには「vogue bag」「high sense bag」などの名前が付けられている。まあ確かに流行りであることは否めないのだが、もう少しどうにかならなかったのだろうか、とも思う。とはいえ、わかる。分かってしまうのだ。BVのパデットカセットをプロパーで買おうと思えば40万円するし、二次流通で買おうと思っても、真贋鑑定の難しい商品が20数万円で売られている。ダニエルBVが春の夜の塵に等しい可能性はあり、そんなものに大金は出せない、しかしダニエルBVクリエイションは「クる」ものがあるから欲しい。こういった気持ちで5000円ほどの編み込みバッグを買う気持ちは、十分にわかるのだ。とはいえ、容易にコピー品を買えるようになってしまった今、何が本当なのかわからなくなってしまう。それは単純なフェイク・リアルの問題ではない。「私はこのバッグや服をよいと思うけど、それは周りのコピー品や流行りに乗せられているだけではないか」という問題である。現代の情報量の多さは、もはや感性をも摩耗させてしまう。私が本当に好きなのは何で、何をしたいのか——いくつも投稿されるベストコスメ、イエベブルベ診断、性格診断に骨格診断、化粧方法から服から思想から何から…よりどりみどり、どれを選んだとしても「すでに流行ってる」よ——。

こうしたことを邪推するにつけ、ファッション(ランウェイ)の流行りなど、知らない方が幸せかもしれないと思う。そもそもビッグイントレがダニエルBVであるということを知らなければ、上述のようなジレンマに陥ることはないのだ。なんとなく流行ってるし、かわいいし、買っちゃおうか、飽きたし売るか、それで済むのだ。元ネタを知ってしまうことは、知的好奇心や自尊心に加えて、どうしようもなく肥大化したプライドをも育ててしまう。厚底シューズにせよ、トリプルSっぽいやつを履いている人を見るにつけ、「この人は元ネタを分かった上で履いているのだろうか」と勘繰ってしまう。そんなことをしたところで、誰も幸せにならないことはわかっているのに、だ。韓国ECサイトで穴あきのニットを見かけて、これもマルジェラのデストロイドニットじゃん…と思ったりするが、果たしてそう思ったから何だというのだろう。果てしない自己満足、何の役にも立たないプライドである。

すこし話をややこしくしてみよう。研究の世界では、元ネタはいわゆる「先行研究」であり、先行研究を知らずして自論を展開してしまうとそれは重大な欠陥になる。知の生産者としては、新規性がなく代わりはいくらでもいる存在になってしまうのだ。(ちいかわ=地位は低く代わりはいくらでもいる) 一方で、知の享受者として考えてみよう。その論文のアカデミックな価値や社会的な価値は、その応用如何にある。あるインパクトを持った論文は、引用数を着実に伸ばし、新たな論の基礎付けとなる。このようにして知が上昇していく。私たちの手に届くさまざまの利益は、あるインパクトを持った論文の分岐した結果とも言えるはずだ。

さて、知の生産者をデザイナーやブランド、ランウェイに関わる人たちとして、知の享受者を購入者などと措いてみよう。新しい服や概念を生み出すうえでは、トップデザイナーはある先行例のパクリなどはしてはならないし(オマージュやサンプリングなどはある、これは研究でもアートでも存在する手法だ)、丹念にバッググラウンドを調べたうえで、新しいものを生み出さなければならない。そうして生み出されたクリエイションが、世界に波紋を拡げ、いくつもの応用例を励起する。そして、私たち購入者には、いくつもの参与の方法がある。いわば、「元ネタ」を知ったうえで買うかどうするか、という問題は「生産者」に近くありたいのか、「享受者」として安寧を得たいのか、ということであるように思えてくる。

私は僭越ながら、芸術関係に関わってきているし、キュレーターとして公募作家を選出したりアートの制作現場に関わることがある。現代アートという一種の分娩室に近い場に近い人間としては、ファッションが捉えようとしているいくつものイメージを、知らなかったことにはできないだろう。ある意味(これは私の私自身に対する正当化でもあるが)、生産のアップストリームを知ることは、そこに関わるうえでの義務なのではないか。日々批評され、更新され、変容していく概念の最先端で、モノを言う、というのはそうした痛みを当たり前のものにすることでもあるのではないか。

私の好きな映画の一つに、プラダを着た悪魔があるが、メリル・ストリープ演じるミランダが「セルリアンブルー」について語るシーンがある。

あなたには関係ないことよね。家のクローゼットからそのサエないブルーのセーターを選んだ。私は着る物なんか気にしない、マジメな人間ということね。でも、この色はブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもない。セルリアンよ。知らないでしょうけど2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがその色のソワレを、サンローランがミリタリージャケットを発表。セルリアンは8つのコレクションに登場。たちまちブームになり全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売され、あなたがセールで購入した。その“ブルー”は無数の労働の象徴よ。でもとても皮肉ね。ファッションと無関係と思ったセーターはそもそもここにいる私たちが選んだのよ。 

現代アートでいえば、クライン・ブルーなどがそれに相当するだろうか。単純に青色を選び取っただけでも、その青色にはさまざまの背景が存在する。青と赤と黄色と白——代わり映えしないただの色の集まりかもしれないが、私にとってはピエトモンドリアンが思い出されるし、同時にカンディンスキーやマレーヴィチ、アヴァンギャルド運動も思い出されるのだ。こうした「生産」のアップストリームに立つ矜持を適用させるならば(知識を適用させるならば)、元ネタを知ること、ひいては審美眼を養うことは、多少の苦しさは伴うべきかもしれない、と思えてくる。

誤魔化されずに、自分がよいと思うものを正確無比な精度で撃ち抜くために、ある程度は揉まれる必要があるのだろうな、と考えている。とはいえ、ダニエルBVのパデットカセットは高すぎるし、40万円で「これがただの流行りか、私がよいものを選び抜いた結果なのか」ギャンブルするのは勇気がいる。誰か買ってください…(泣)

蛇足だが(とはいえ重要なところかもしれない)、先述の「私がよいものを選び抜いた結果」はいつごろ現れるのだろうか、そもそもどういった形で現れるのだろうか。アート作品の場合は、作品それ自体が消耗することはあまりないし、買値と売値とを比べてどうか…というような単純指標でもおおよそ比較はできる。一方、服やバッグは消耗品であり、耐久年数という問題はありつつ、ブランドとしての価値がどうなのか、という問題も入り込んでくる。そもそも、「ハイブランド=耐久性が高い」の図式は単純に成立しないはずだ。そんなことを言ってしまえば、マルジェラのデストロイドニットは「穴を開けるな」ということになってしまうし、ドリスは「もっと厚い生地を使え」ということになる。とはいいながら、エルメスやロエベは長く使えると聞くし…。単純に「20年後も使えました、リセールバリューは〇〇万円、一年あたり〇〇万円で使えたことになります、実質タダですね」という話ではないと思う。もっと何か複雑な系を経験しているのではないか。

などなど、そんなことを思いつつ、Twitterのサブアカの鍵を開けた。大学用のアカウントもあるが、それとは別の、より過激な思想を垂れ流している自己満足アカウントである。ファッション〜研究内容で話せる人が少ないなと感じたので公開した次第だが、気になった人はフォローしてみてください(もしかしたらnote公開時点で鍵はまたかけるかもですが)、基本的にフォロリクは通します。合言葉(?)はキリング・オタクでどうぞよしなに…

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