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時代の変化とうまく組み合わせる 東京大学 志甫谷 渉 先生

小野田先生にご紹介いただき志甫谷先生にインタビューさせいただきました。

シグナル伝達に関わるタンパク質の構造解析を研究している志甫谷先生。
一番初めの論文が博士3年の9月で、それまで論文の共著も一つもなかったとのことでした。
子どもの頃から負けん気が強く、一度目標を決めたらブレずにやる子だったそうです。
常に新しい人が入ってくる環境だと刺激が向上心に繋がる。
環境が人をつくる。自分の気持ちが負けそうなときは頑張らないといけない環境に身を置いてでも結果にコミットしたいと感じました。

シグナル伝達に関わるタンパク質の構造解析

-今、どんな研究をされていますか?

志甫谷先生:私たちの体を構成しているタンパク質と言われるものの立体構造を決めて、それを見て機能を知るという研究をしています。

人の細胞37兆個の中でDNAから情報がRNAに読み込まれ、最後にタンパク質が産生され機能することで生命が形作られています。
構成するタンパク質の部品を、原子分解、つまりひとつひとつの原子が、いろんな形をとっているわけじゃなくて、ある一定の形をとることで様々な機能を発揮しているわけですがその形を直接細かく見ることで機能の本質に迫ろう、という研究をしています。
具体的には、細胞膜に存在しているタンパク質、特に生体のホルモンを受容するような、シグナル伝達に関わるタンパク質の構造解析をしています。

絶対的な美しさ。タンパク質の形は揺るがない真実

ー今年の若手科学者賞を受賞もすごいですね!目に見えないものを研究しておられますが、研究の一番の魅力はどこでしょうか。

志甫谷先生:私の興味は生物と同じくらい生物を構成するタンパク質にあります。
研究室の濡木教授も、「タンパク質の形をみることは、間違いのない生命現象の解明につながる」と言います。タンパク質の形自体は、揺るがない真実に近いものがあります。いろんな生物の中でもある種絶対的なものだな、と心奪われています。

構造を見ただけでも様々な情報があるんです。形を持ってひとつの機能実現に向かっていることが分かります。

ータンパク質の構造を見たときに、何を感じますか?美しさでしょうか。

志甫谷先生:美しさを感じることはかなりあります。サイエンティストとしての興味とは別で、構造自体が機能美、というんですかね。とんでもない構造をしている時もあり、魅力的です。

ー今の研究に至ったきっかけはありますか?なぜ研究を始めようと思われたのですか?

志甫谷先生:僕は、学部は京都大学出身です。大学院からは名古屋大学に行き、今は、東京大学にいます。
大学2年生の時、後に研究室の教授、藤吉先生の授業を受け、興味を持ったのが最初です。

ー以前インタビューさせていただいた、小野田先生も、大学の授業のオムニバス30分で奇跡的な出会いがあったとお聞きしました。ピンときたんですか?

志甫谷先生:ピンときたとしたら、やることのわかりやすさ、ですかね。
僕が入った2010年頃は、タンパク質の立体構造を決定するためには、タンパク質を結晶化する必要がありました。
すごく簡単な分子はさておき、タンパク質を結晶化するのはかなり難しい作業であり、難しいタンパク質の立体構造を決めれば、かなりいい論文に繋がるという時代でした。

タンパク質の立体構造について、当時はまだ未解決なことが多く、その中で講義を聞きました。いくつか機能がきちんと説明できるという例を見せてもらって興味を持ちました。

博士取得後 (藤吉先生と)

負けん気が強く、一度目標を決めたらブレずにやる。小学生時代から科学者になりたかった

ー揺るがない真実や、わかりやすさというワードが先ほど出ていましたが、疑問を解決したい、決まったものが好き、などは幼い頃からですか?どんな子どもだったのですか?

志甫谷先生:実は、小学生時代から科学者になりたいと思い、親にも言っていました。
ファーブル昆虫記、漫画の伝記や偉人等に小学校低学年から興味をもっていて、図書館で借りて読んでいました。

ー今、当時の小学校の先生にお会いしたら、「志甫谷くんは研究者になると思ってた」って言われそうですか?

志甫谷先生:実験には執着がありましたね。負けん気が強く、一度目標を決めたらブレずにやるタイプです。
成績は、全体で50番くらいだったんですが、頑張って2番になったことがありました。高校でも、普通から上位の方に上がり、京大に行きました。

ー負けん気が強いんですね。京大に行く、と目標を決めたていたのですか?
それとも、負けたくないというモチベーションからか、どちらだったのでしょうか。

志甫谷先生:途中で成績を上げたのは、完全に負けたくないっていうモチベーションが強かったからです。京大に進学すると決めたのは、担任との面談がきっかけでした。

僕は、北海道出身なんです。親元を離れたいと思い、高1の後半頃からはぶれずに東大や京大を目指しました。東大に行かなかったのはひねくれてた感じですかね(笑)。

Natureに出すことがひとつのゴール。形にして、アカデミアの道を本格的に目指す。

ー正統派で全部できる人は東大、ちょっと変わっていて奇抜で、でもできる人は京大、みたいなところありますよね(笑)。
今の助教のポストを取るまで、研究者以外の道にぶれたことはないんですか?

志甫谷先生:ないですね。ブレませんでした。
一番初めに論文を出したのが博士3年の終わり9月なんですよ。それまで論文の共著も一つもありませんでした。

ーそれってぎりぎりですよね。

志甫谷先生:そうなんです。研究室に入った時に、とにかく一番難しいことをやろうと思いました。
エンドセリン受容体というGタンパク質共役受容体の一種で細胞の司令塔のタンパク質の構造解析のプロジェクトを引き継いだのですが、僕が入った時点で15年くらいやっていたんです。
Gタンパク質共役受容体は、ホルモンを受容するようなタイプですと400種類あります。どれも薬の標的として重要なのですが、構造解析が難しかったんです。
その解析手法が発表されたのが2007年くらいでした。

僕が研究室に入ったのは、2011年で、その手法を用いて3.4例出てきた頃で、これから技術を応用し、GPCRの構造を解くぞっていう走りの時代でした。学会で初めて発表したのが博士2年でした。いろいろな困難がありました(笑)。学部4年から研究を始め、最終的に形になったのが博士3年の7月くらいでした。

研究の世界って競争が多いんです。誰が一番に解いたかが重要、みたいなことが当時はありました。中途半端に情報を漏らせないんです。僕自身が強制されたわけじゃなくて、そういう雰囲気でした。なので、博士3年の9月にNatureに論文を出しました。

ーすごい!そんな人いるんですね。修士から博士3年まで何の論文も出さずに、それでいきなりNatureに出すって...やばいですね。

志甫谷先生:Natureに出すことは、ひとつのゴールでした。形になり、やっていく自信になって、本格的にアカデミアを目指すことを決めました。

細胞培養中の様子

結果が出ない研究。自分以外の研究員が辞めてしまい、やるしかない状況に。

ー色々な困難がおありだったとありましたが可能であればお聞きしたいです。

志甫谷先生:僕のいたチームは僕を含め4人でした。研究を15年もやってるので結構難しい雰囲気なんです。准教授の人が1人いて、特に特任助教とポスドクだった他の2人はずっとやっているけど中々難しいという状況でした。
ラボの藤吉先生は、アクアポリンという水チャネルの構造決定で世界的に有名で、関連した共同研究者がノーベル賞を取ったりしています。

そんなわけで研究費もあったので、こうした挑戦的な研究を続けることができました。

僕のついていた特任助教が病気になってしまい、ポスドクの方も辞めてしまって、自ら進んでやらなければならない状況になりました。学部4年の時から濡木研究室との共同研究という形でスタートさせ、コラボレーションという形でやってきました。

研究過程でタンパク質を結晶化する必要があるのですが、最初はうまくいきませんでした。

実は修士2年の時に、ラットが血の涙を流すっていうくらい高い血管収縮作用を持つ物質エンドセリンペプチドと、エンドセリン受容体との複合体の構造を決定することができ、生理的ホルモンがどのように受容体に作用するか知ることができました。
これで一段落かと思いきや、色々あって...。博士1年の終わりくらいに論文投稿したら、エディターリジェクトになっちゃったんです...。

当時私は、名古屋にいました。正確にはその研究室には京大から移るタイミングで入り、学部4年だけ京大にいて修士1年から新しくできた名古屋大学大学院創薬科学研究科に藤吉先生が異動されたので、ついていって研究しました。

博士2年から更に委託研究という形で実際に濡木研究室で結晶化をやろうということで、所属は名古屋のまま濡木研に移りました。
タンパク質を結晶化させ、受容体が何も結合しない状態、シグナルを受け取る前の状態の構造を入って半年くらいで決定し、そのタンパク質がどのようにシグナルを受け取って構造変化するかまで突き止めて、なんとか論文にして、Natureに通したという形です。

決定したエンドセリン受容体の構造

学生さんの個性と成長を考えたテーマ決め。

ー志甫谷先生が所属されている濡木研の研究現場をまとめてるのが志甫谷先生ですよね。過去の経験からくるレジリエンス(適応能力)やグリット(やり抜く力)、皆辞めても自分はやめないことや、ひとりでやるからこそ自分のマネジメント、共著者とのマネジメント等をやってきたことが、濡木研でナンバー2としてまわりを動かすポジションに就いておられる要因なのかなと思いました。

志甫谷先生:一つの大きな論文をまとめるのはかなり大変で、色々なことがありました。ナンバー2は言い過ぎです(笑)。

ー学生さんのマネジメントで気を付けていることはありますか?
 
志甫谷先生:自分の考えとしては、学生さんにも個性があるので、上手く見据えてやらないとなと思っています。
一つはある程度できそうなテーマとそれと並行して、または終わった後にもっと難しいものか、学生が自ら考えた一からのテーマの2本でやってくのが重要だと思っています。

更に重要なのが、ある程度うまくいくかつ重要なテーマを考えて、できるだけ早く終わらせる事です。研究も簡単じゃないのでズルズルといくとそれだけで手一杯になることが多いです。そこをできるだけ早くやっていくことでその人の成長につなげることを考えています。

濡木研にある電子顕微鏡
電子顕微鏡を操作している様子

教授になるのは当然のゴール。ベンチャー立ち上げも目指す。

ーこれから目指すところはどこでしょうか。

志甫谷先生:教授になるのは当然のゴールです。もう一つは、ベンチャー立ち上げです。
大学発ベンチャーは周りを見ても結構増えてますし、
濡木先生自身も遺伝子疾患に関する治療薬開発のモダリス、そして、クライオ電子顕微鏡による構造解析をもとに薬を作るというキュライオというベンチャーを立ち上げてます。
機会があれば目指していきたいなと思っています。

今僕がやってる、タンパク質の構造解析の業界は、始めた当初は結構難しい研究でしたが、今は皆できるようになりました。技術自体では先駆者がいるわけですし、それができるだけでは通用しない時代になっています。

例えば、自分が教授になってベンチャーを立ち上げるタイミングがくるとしたら、今やってる技術を活かした方向ではないと思っています。
時代は変わりますし、オリジナルな技術が重要で、結構長い研究が必要だと周りを見ていて感じています。

結晶学会にて

自分が何をやりたいかの興味と、テクノロジーの変化をうまく組み合わせる

ー若手研究者に一言お願いします。

志甫谷先生:テクノロジーの変化が激しいので5年で全然違います。今、自分が興味を持ってるものが5年後には新鮮味がなくなってる可能性もあります。

自分が何をやりたいかという大元の興味は必要です。それと、テクノロジーの変化をうまく組み合わせることが重要かなと思います。アップデートしないと生き残れない時代です。
流れに対応していくことが重要です。

ー研究の分野でも会社員でも、わかってるけど居心地がいいからそこに居続けちゃう人っていますよね。衰退していく産業だけどどうしてもやめられない。挑戦した時のリスク等が怖い。それに合わせていくためにどうしたらいいですか?

志甫谷先生:実際アカデミアにもそういう人はいます。気持ちもわかります。家族がいたりすると、時間感覚も変わってくるので。
僕は負けず嫌いで、常に向上心があるつもりです(笑)。大事にしていけたらなと思っています。

常に新しい人が入ってくる環境だといいですよね。
濡木研は今30人ぐらい学生さんがいます。新しい人は初めてですから、新しい仕事にトライできるんです。新しい人たちからパワーをもらって一緒にやっています。

濡木先生は、すごい論文を出してるんですけど、だからといってそれで満足していません。常に論文出してないと落ち着かないのかなと思います。他のところだと、論文を教授が長い間保留してしまうところもあるのですが、濡木先生のところでストップすることはほとんどないので、楽しくやれています。



先輩研究者の皆様の悩んだこと、どうやって乗り越えたか、成功の裏側などをどんどん発信していきます。
次回もお楽しみにしていてください。


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