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人工知能は新しい芸術を生み出せない、それができるのは「生きている機械」

人工知能がどれだけ進歩しても新しい芸術を生み出すことはできない。

少なくとも人工知能がコンピュータとして存在する限り百年先も千年先も芸術を生み出すことはできない。とれだけ演算速度が向上し情報処理の能力が向上してもそれは叶わない。もちろん、量子コンピュータであろうが、千年先のスーパー・コンピュータであろうが、それはできない。そうしたことにその理由があるわけではない。

情報をどんなに素早く巧妙に処理をしたところでもそれは無理である。

その理由は極めてシンプルで、それは「芸術は情報ではない」からだ。

コンピュータが情報処理装置である限りにおいて、人工知能が情報処理装置の延長線にある限りにおいて、決して芸術を生み出すことはできない。(本当であれば、ここで「芸術と情報と言葉と人間的なるものの関係」を明確に論じなければならないが、それはまた別の機会に行うことにする。えっと・・・うん、ここがこの考察の核心なんだけど・・・話が長くなるから・・・出来上がった既存の作品が多々存在しているのを見ていると、作品が情報に見えてしまうんだけど、それが最大の罠なんだと思う、いまだ、一人も小説家が存在していない世界を想像するのは現代では難しい! でも、人類が誕生してから絵画が生まれるまで、数千年(?)くらいのすんごい時間がかかったんだから、もう)

「いやいや、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」に登場するような全知全能的な人工知能であれば、シェイクスピアもゲーテもドストエフスキーも夏目漱石もヘミングウェイも凌駕する作品を生み出せるんじゃないか」という意見もあるかもしれない。でも、残念ながら、最高のコンピュータが生み出せるのは、それらの模倣品でしかない。もしかしたら、ヘミングウェイの未発見の原稿と偽っても誰もそれが贋作とは区別することができない本物より本物の贋作の小説を作り出すことは可能かもしれない。つまり、最高のコンピュータが行うことは、既存の過去の創造者の創造のメカニズム・モデルを構築することだけである。そのモデルが如何に精密に精巧に作られたものであったとしても、その構築された創造のメカニズム・モデルが生み出すのは、過去の創造者の創造品でしかない。そのモデルが、既存の創造者を超越した新しい創造者であることはできない、という話だ。

「いや、いや、もう、それで十分じゃないか。不死のヘミングウェイ、うん、それで十分だ」という人もいるのかもしれないが、やがて摩耗することになる模倣品は、新しい芸術とは言わない、と私は思う。

しかし、可能性はある。鉄腕アトムのようなものが作り出されるとしたら、もしかしたら、それは可能かもしれない。でも、本当の鉄腕アトムって、コンピュータでもロボットでもないよね。もはや、それは「別の形の人間的なるもの」という呼び名が適切な存在だと私は思う。つまり、彼ら・彼女らが情報処理装置ではなく、身体を持ち、そして、人生を生きる、人間的なる存在であるということを前提にして、彼ら・彼女らが人工的存在であったとしても、新しい芸術を生み出すことができることになる。

ということを、私は思っている。だから、もし、現代の人工知能の研究者が本気で芸術を生み出す人工知能を作りたいのなら「人工的な人間的なるもの」(別の言葉で言い換えれば、「人生を生きることができる存在」)を作り出さなければならないことになる。必要なのは、情報処理装置ではなく、人生(機械生)を体験し人生(機械生)を生きる機械なのである。芸術が生み出される場所は人間(機械)の生の営みの只中である。

「生の営みを行う機械」(比喩としてではなく文字通りに生きている機械)それが来るべき未来の芸術家である。

百年先の未来に、わたしたちと共に生きているのはそんな「別の形をした人間的なるもの」だと思う。(人間的なるものが、その時までに存在しているとしたらの仮定だけれども。)

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