こどもの心

昔のことを思い出していた。何が辛くて何に追い詰められたのか。本当に人のせいにしていただけなのか。過去を摑んで、今の自分をはっきりさせたい。

 鬱状態

全くの阿呆のようになって甘い言葉ばかりだと批判される中で、自分の矜恃を守るのすら面倒だった。否定されて論駁できないのは確かに甘く漠然としか考えられていないからなのかもしれない。だけども、自分の頭の悪さを何とかしようとするのにももう疲れてきていて、そんな甘い人間から脱却したいとももう思わなかった。もう、好きなように私をなじればいい。どうでもいい。投げやりになっていた。“現実”に生きる未来は重く苦しく、棄てたかった。価値を感じる仕事に就けずに未来が白紙になったあの時、立派な大人として“生活の維持”を義務的に続ける未来を、まだ若者と呼ばれる今のうちに、棄ててしまいたかった。


過去との交錯

過去の家の荒れ具合がなければ、楽しく生きることが許される環境であったなら…。怒鳴り声や壁を殴る音、父が無職という羞恥心に彩られた学生時代だったけれど、それだけじゃなくて、責任・義務・正論・常識的に生きないといけない頭の固い家だった。いわゆる「優等生」が正解だった。何でも正論、常識で考えるつまらない人間。そこに「自分」はなくて、人から見て立派であるために生きている人間。私もそのように振る舞っていて、正論しか言えないつまらない人間である自分が嫌だった。もっと自由にふざけたり、笑ったり、誰に遠慮することもなく世界を思いっきり感じて生きていたいのに、殻を破れなかったのだ。

病んでいたところを伯母に連れ出されて自然の中で話し合ったり、精神科に入院して静かな生活を送るうちに、死を求める激しいエネルギーも凪いでいった。今は、生きるしかないのだろうという諦めに似た境地にいる。


きちんとしないで生きる

生きるしかないのなら、自分の苦しみであった「きちんと生きる」大人像から抜け出さなくてはならない。そうでないと、立派な大人ではない自分は堂々と生きられない。できないこと、人と比べてヘンなところ……否定し、直すところばかりを見るのではなくて、「大人になる」ことを忘れてしまおう。しっかりしてなくたっていい。年齢に見合う自分でいなければ、という思いで行動が制限されていた自分には必要な考えだと思う。

図書館員?

さて、そう思うと、図書館で働く中で感じていた違和感の正体が浮かび上がってきた。図書館の仕事は基本的に、本の管理、提供だ。経験としてさせていただいた眠っている本を掘り起こして再構築する展示や本の修復は魅力的で、国会図書館職員を目指したときのように、資料を後世に繋いでいる実感、高揚感があった。だけど公共図書館においてそれはメインではなく、地域住民の生活・教育のインフラ拠点としてイベントやサービスを行っている。私たち非常勤職員だけではなく、常勤であっても、資料の貸し出し・返却、予約や新刊受け入れ、除籍、書庫点検などの蔵書管理、館内書架の整頓といった雑務が中心になっている。これがしたいことだったのか、疑問、違和感があった。

和のこころ

和歌に興味を持つきっかけになった絵巻物の写真。(何という絵巻かは覚えていませんが、源氏物語絵巻のようなものをイメージしてください。寝殿造に十二単の女房たちが書を広げて談じている、平安文化を象徴するような大和絵)

古文のリズム、響き、平安文化に惹かれるきっかけ。墨の掠れ、つながり、耐えてきた時間の色、見るからに美しい和古書を保存したいというのが私の欲であり、「本の面白さを伝えたい」という“本の虫なまちの司書さん”的思考じゃない気がする。

どちらかというと、和の文化に関わりたいのか。それぞれ素敵ですが、和雑貨の販売や伝統工芸の職人というような関わり方ではなく、古典文学の知識も要求される専門的な仕事に関心がある。今のところ、このくらいのイメージだけど、もっと自分と会話して、絞っていきたい。


ちなみに、ポンコツニュースさんのYouTube動画「ADHDとASDの違い、特徴5選」

の「ASDは抽象的思考。物や言葉の物語、付加的要素、美しさの表現に拘る」というところに、自分がASDらしすぎて笑った。

優しいサポートありがとうございます。これからも仲良くしてくださいね。