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3月8日(日)なんも悪いことしてへんで

【読みもの】

エストロゲンとプロゲステロンの分泌配分がそういうふうになる時期なんやろうけど、どうにも落ち込みと苛立ちの上がり下がりが激しく、そのこと自体にもがっかりしてしまう。

こういうときは大天使アカシヤ(さんまさん)の出ているトーク番組を観るに限る。安心と安定の明石家印とはよく言ったもので、さんまさんはいつなんどき見ても常に「明石家さんま」をやってくれている。

なので、「ああ、今日もさんちゃんは元気だなぁ、楽しそうだなぁ、いつもどおりだなぁ、良かったなぁ」と、懐かしい知り合い(全然知らんのにやで)にでも会ったような気に勝手になって、もらい笑いをして、楽しくなれる。

昨日の『スカーレット』は、観るのがとてもつらかった。けどこれは、あくまで架空の話なので、すんでのところで、見てられる。人の生き死にが物語の展開装置として使われる話は苦しくなってきて見なくなるのだけど、朝ドラは全体的に描写が丁寧な傾向にあるので、今のところは大丈夫みたいだ。

病気って、自分が病気になるまで、「①薬とか手術とかで完全に治って、元の日常生活に戻れる」か、「②何をしても悪くなっていって、最終的に死に至る」かの、2択やと思ってた。

実際にはもっと濃淡があって、「治るか死ぬか」みたいな簡単なもんじゃない。

私が属するのは、「③何をしても良くも悪くもならず、死にもしないけど、ずっと具合が壊滅的に悪く、日常生活も送れない」で、生命に差し支えがない以上、きっと②よりは良いのだろうに、でも日常が何一つ送れないなら、生きてるのか死んでるのかよくわからないな、と思う。

②の人でも、死期の間際までは外に行けたり普通に暮らせたり、ということもあるみたいで、複雑な気持ちになる。自分はしなないで済む以上、「②の人の方がつらいに決まってるのに」という想いと、「でも、③の私は、もしこのまま治りも死にもしなかったら、ずっとおばあちゃんになるまま、どこにも行けず、しなない以上社会からも助けてもらえず、ただ時が経つのを待つだけなんだ……」という想いが交錯して、私が悪いわけでも誰が悪いわけでもないのに、何かを比較して、申し訳ないような罪悪感と、ぶつけようのない悔しさに襲われる。

昨日のきみちゃんと照子のやり取りは、なんだか、自分の代わりに怒ってもらっているような気がして、涙が出た。

照子「なんかあったやろ。うちに話せや」
喜美子「(話したら)うち、怒ってまうで」
照子「怒ったらええ。吐き出したらええ、うちにぶつけたらええ」
喜美子「なんでなん!?なんでたけしが病気にならなあかんの?なんも悪いことしてへんで。たけし良い子やで?なんでたけしが、たけしが……」

私は今まで、「なんでうちが病気にならなあかんの?なんも悪いことしてへんのに、真面目に生きてきたのに」という怒りをずっと封じ込めてきた。病気になるよりもっと昔は、もっといろんなことに怒って感情のままに生きていたけど、あることがあってから、怒りを表明することや何かの意見を持つことすら否定されるようになってしまって、そうなったのは自分が悪いんや、自分が変に目立つから悪いんや、性格がどっかで欠落してるからや、自分が悪かったんやって思ってた。

だから、きみちゃんが物語の中で、そういうふうに怒ってくれたことで、理不尽な出来事に対して怒っていいんや、私がこんなにも不当に責められていい理由なんて本当はどこにもないんや、私は悪くなかった、悪くなかったんや……と、感じることができた。

スカーレットという物語は、もう半年近く毎日見ている。喜美子の人生を通して、息子のたけしがまさかこんなふうになると思っていなかったから、我が子が病気になるってこんな気持ちなんだ……というのもあり、自分の親の心情を考えて、ちょっと泣けた。

泣いてばかりいると体力が消耗される。

笑う。

涙が降ればきっと消えてしまう
揺らぐ残り火、どうかここにいて。



HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞