「(直接)会う」が最も高度なテクノロジーなんだって思う。

二回目の緊急事態宣言発令をうけて、人ともっと会わなくなってしまった。

オンラインでのやりとりが日常化するなかで、それにまつわる技術や環境は上がってきているように思うけど、やっぱり認知がしんどい。話にあんまり集中できないことも多い。コロナが流行って一年くらい経つけど、去年の4月くらいは「こういうのにそのうち慣れてくるんかねぇ」とか思ってた。でも、まだ一年とは言え、されど一年。結局、慣れていない。

この数年、ずっと福島に毎月通っていた。復興団地で暮らす住民さんたちとプロジェクトをやってきたから。それももう丸一年行けていない。できることをやろうと思って、去年の6月から「オンライン訪問」を始めた。現地スタッフがパソコンもって住民さんの家にお邪魔し、ZOOMを立ち上げて東京に居る僕と「こんにちは〜!」とやりとりする。最初はみんなびっくりだ。だって、みなさんご高齢だからZOOMなんて知らない。だから僕らは住民さんに伝わりやすいように「テレビ電話やりますよー!」と言うことにしている。

毎月欠かさずこのオンライン訪問をやってきた。これはこれで、このwithコロナ時代においては「会っている範疇」に入ってくるのかもしれない。でも、小一時間くらい話したあとに、いつも住民さんたちが決まっておっしゃる言葉がある。

「早く会いたいねぇ。」

なんとも複雑な気分になる。このやりとりでは「会ったこと」にはなっていないのだな。大学の教員もしている自分にとって、オンラインで授業をやっても「授業したこと」になっていると思う。オンライン授業はれっきとした授業と言える(というか言わないと大学にとっても具合が悪い!)だろう。つまり「代替え」ではない。でも、オンライン訪問はやっぱり代替えであって、とりわけご高齢の方にとっては、「(直接)会う」という体験様式にまつわる感性をそんなすぐにアップデートしていただくのは酷だ。もう70年も80年も90年もそうしてきたし、そもそもインターネット的感性も培われていないんだから。

そのうえ、現在の二回目の緊急事態宣言発令後は、おなじ福島(僕が通っているのはいわき市)の人であっても、住民さん以外の外部の人が団地に立ち入ることが難しくなった。現地スタッフすら団地に通えないなら、オンライン訪問は技術的に不可能だ。これは困った。もう、結局、電話か手紙しかないわな。と思いながら、いま住民さんに手紙を書いている。

トートロジーに聞こえるかもだけど、結局、
「(直接)会う」が最も高度なテクノロジーなんだって思う。

オンラインでさ、もう人間の認知機能の限界に挑戦みたいな様々なコミュニケーション技術が登場して、音声はこうで、画面はああで、こっちの資料をこうやって共有して、音も共有して、配信もやって、チャットもやって、ある人とは数人でこっちで会っていて、別の人は家にいて、またそれらを配信で聞いてるだけの人がいて・・・とかやってるけど、なんで、コロナ禍でも「(直接)会う」ためのテクノロジーが発展しないの? いまだにマスクとフェイスシールドと手指消毒とソーシャルディスンスってやばくないか。とか、矛盾してるんだかしてないんだかわかんないことを思うわけ。

ってくらい人と人が同じ場を伴って「(直接)会う」ってものすごく高度なことをやってきたー つまりその場では匂いも周囲の音もその場の天候や空調なども、目の前で一緒に鍋をつついているその味も温度も感じながら、普通に話してきたわけだけど、これってすごく認知機能を総動員しまくっていたけどそれこそが「自然」だった。しかし、オンラインのテクノロジーに代替えさせた途端に自然さは失われ、僕らはまだその認知のための技術を身体化できていない。と同時に、僕はできれば身体化したくない、不器用なままでいたいと思っているのだ。でも、そんなこと言っていたらポストコロナ、生きていけなくなるのかなぁ。

悪いことばっかでないってことも、一応言っておこう。普段、都内の障害者施設でアート活動をやっているのですが、そこには感染リスクの高い利用者さんがおり、各フロアでゾーニングを心がけている。でも、活動は工夫すればみんなで一緒にできるだろうってことで、フロアごとにZOOMでつないで、いつも来てくれている外部のアーティスト(講師)たちには自宅に居てもらったり、隣の小部屋に居てもらったりして、各々つないでやっている。

オンラインでつながりながらダンスやったり、絵を描いたり、楽器を奏でたり、園芸やったり、工作やったり、写真撮ったりしてるんだけど(ってイメージわくのかかな?)まぁうまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。でも、うまくいかないときの学びは案外大きい。音声が途切れたり、画面が落ちたり、コミュニケーションが不通になったときには、みんな各フロアで工夫して、自分たちなりの創作の仕方や過ごし方をつくっていくのだ。目の前の講師が消えてしまう(笑)とそりゃ戸惑うけど、でも自主的にいろいろ勝手にやりだす。教える教えられるという関係を超えることはもともと大事にしていたけど、案外、やりとりが潤滑にいかないことによってその大事にしていたことが助長されることがあると考えている。

まぁ、でも、なんだろうな。
「会う」ってすごかったんだね。

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