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『最高傑作』より愛をこめて【#家族について語ろう】

 母はとびきり機嫌の良い時、「さすが私の最高傑作」という言葉で私を誉めることがよくあった。
 幼い頃の私は「最高傑作」と言われることが嬉しかった。誇らしささえ感じていた。
 この言葉を聞けた日は怒られない、という実利的な理由もあったが、ちゃんと「母の娘」をやれていることに、何より安心した。
 そうして誉められている時には、普段私の周りを覆っている薄い膜のようなものが取れて、世界ときちんと繋がれる。その感覚が心地良かった。

 私はアンバランスな子供だった。体が小さく、よく熱を出し、かけっこではいつもビリだった反面、文字を読むことは好きで、とても得意だった。小学校に上がる頃には新聞記事も大半を読めるようになり、親戚宅で交わされる大人同士の会話も、殆どすべて理解できた。
 母はそんな私を相手に、話をするのが好きだった。リビング代わりの食卓に私を着かせ、毎日何時間も話をした。内容はその日によって、母の思い出話、父への愚痴、親戚や知り合いの家庭の話、TVや新聞の感想など様々で、興味が持てないものも多かった。飽きた私がいい加減な返事をしたり、本を読みたくてソワソワしていたりすると、必ずばれて、きつく叱られた。私への説教に変わった長い長い話の中で、母は決まって繰り返した。

 母が話す全てのことは、いつか必ず私の人生の役に立つ。母の持つ全ての価値観を私に伝え、身に着けさせることは、学校の授業や本を読むことよりも、私にとって必要で、これは私への愛なのだ、と。

 私はその言葉を丸ごと飲み込み、受け入れ、いつしかそれを自分自身の考えとして、固く信じるようになった。
 母は私を愛するが故に、色々な話をしてくれている。将来、私が子供を持った時も、母のようにあらゆる知識を子供に伝えるべきで、それこそが唯一私にできる「親から子への愛」なのだ、と。

 深く刷り込まれた「母の価値観」を持ったまま、私は大人になり、結婚し、出産し、母と同居した。
 息子は、私ほどバランスの悪い子供ではなかった。健康で、感情豊かで、どの分野でも標準的な発達を示す、お手本のように子供らしい子供。同じ年齢だった頃の私と比較すると、あまりに幼く、我慢も出来ない息子に対し、母は驚くほど「優しいお祖母ちゃん」として接した。

 息子に手を上げるどころか叱ることも滅多になく、最低限の注意をして、批判的なことは言わずに誉める。それは喜ばしく微笑ましいことであるはずなのに、母が息子と触れ合うのを見るたび、私は自分の内側に何か不穏なものが育つのを感じた。
 昔私にしていたように、息子に厳しく接して欲しかったわけではない。でも、この不快なざわめきは何だろう。静かに降り積もる澱のような、膨張し続ける爆弾のような、「何か」の正体を見極められないまま、息子は順調に成長していった。

 息子が小学校に上がってしばらくしたある日、母はスーパーに行くのに息子もどうか、と誘った。よくある光景だった。
 絵を描いていた息子は顔も上げずに「行かなーい」と答え、母は「あら残念」と鷹揚に笑った。母の逆鱗に触れはしないかと私が一瞬身構えてしまうのも、それが杞憂に終わるのも、よくあることだった。
 そして、いつもの不快なざわめきをやり過ごしている私に、母は言った。「あんたと違って、ハッキリしてて良いわぁ」と。無邪気に、明るい声で。
 それを聞いた瞬間、私の中で育ち続けた「何か」が、決壊した。無感情の檻に押し込め、忘れようとしていた膨大な記憶が、重い重い質量を持って、マグマのように噴き上がった。

 母にだけは、言われたくなかった。私のあらゆる意思を圧し潰した母には、母の望まない自己主張は一切しない「最高傑作」を作り上げた母にだけは、それを言う権利はないはずだった。
 私が息子のように「行かない」と言えなかったのは、そう言えば怒鳴られ、殴られたからだ。例え行きたくなくても、嫌な顔をせずに承諾する以外の選択肢を消したのは、「ハッキリしてて良い」が存在する余地を失くしたのは、母だ。
 大人の顔色を伺わずに自己主張するのが「良い」ならば、何故私を怯えさせた。何故あんなにも私の意思表示を禁じた。あの時も、あの時も、あの時も、私の意思を否定しただけでなく、そんな意思を持つこと自体が間違いだと言ったのは、私の意思を殺し続けたのは、何故だ。

 私は生まれて初めて、母に怒りをぶつけた。「最高傑作」として強いられ、禁じられてきた様々な事について、泣き叫ぶように母を詰った。
 母は始めは驚き、釈明したが、私が納得しないと分かると、怒った。久しぶりに聞いた母の本気の怒鳴り声は、それだけで動けなくなるほど恐ろしかった。
 真っ白に霞み、狭まった視界の中で、私は謝らなかった。そして覚悟とは裏腹に、母は私を殴らなかった。
 初めて挑んだ“親子喧嘩”は一時間半後、テーブルに三センチ四方の凹みを作った母が「お前みたいな恩知らずの馬鹿を育てたのは、私の人生の失敗だ。出ていけ、もう二度と顔も見たくない」と吐き捨てて、終わった。

 「最高傑作」でなくなった日から二年が過ぎた今、私はまだ母と同じ家に暮らしている。出て行けと言われてなお居座っているのは、純粋に私の生活上の都合を優先した結果だ。母は当初、言うことを聞かなくなった私に困惑していたようだったが、最近は不満を口にせず、今まで通り「優しいお祖母ちゃん」として振舞っている。
 あの日から、私は母との関係を変えた。母の意思よりも私の意思を優先し、母が不快に感じそうな場面でも、意識的に私の感情を表現するようにした。顔を合わせれば会話を交わすし、職場の同僚に対する程度の礼儀は払っているので、恐らくは、ごく普通の親子関係の範疇のはずだ。

 私に根差した「母の価値観」はまだ抜けきってはいない。今の私が良しとするもの、そうでないものの中から、大量の「母がそう言っていたから」を抽出して定義し直すのは、とても難しい作業だ。恐らく私は死ぬまでずっと、この「自分自身の価値観の再構築」をし続けなければいけないだろう。
 しかし、一つだけ揺るがずに、もう決まっているものがある。

 私とは違う性質を持ち、私とは違う時代を生きていく、私の息子に。
 カラフルな虹色と「星のカービィ」が好きで、本よりTVとゲームが好きで、のんきで忘れっぽくて、小言をちっとも聞いてくれない彼に。
 私の知る価値観を押し付けるのではなく、彼自身が選んだ価値観が育つのを見守り、それが彼の幸福の標となるよう応援したい。

 「最高傑作」だった私の、精一杯の愛をこめて。そう願っている。



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