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「毒母の配偶者」だった父の話。

今日は父の日なので、私の父の話をしようと思う。

毒親についてググると、「毒親は一人では成立しない」「メイン毒親と、もう一人の『隠れ毒親』がいる」という話が出てくる。
その意味で言うならば、父は無関心系毒親に分類される……のだが、父の場合は仕方なかったと思う。いや、毒の弱い方の親を思い込みでかばっているわけではない、と思う。多分。完全には否定も出来ないけれど。
どうあれ、今もなお毒母の影響で成人女性を苦手とする私が、男性、特に「寡黙で、がっしりした体格の男性」に全く恐怖を感じずに済むのは、きっと父のお陰だろう。多少人相が悪かろうと、不機嫌そうな表情をしていようと、怖いと思わずに済むのだから。

父は、母の配偶者だった。
それ自体は当然のことだが、私の母は私が2歳の頃に離婚をしており、3歳の頃に父と再婚した。よって私が父と呼ぶこの人は、正確には「義父」だ。
一度目の結婚に失敗した母は、父との再婚がまた失敗するのではないかと恐れ、私と父の養子縁組をせず、母と私の姓も変えず、母の戸籍に父を入れる形で再婚した。つまり私と父の関係は「名」の時点で、「母の配偶者」と「母の娘」。母を介さない限り、赤の他人にすぎなかった。

そして母は、再婚後の継子いじめ、つまり父が私を虐待することを恐れ、私と父が極力二人きりにならないように努めた。そして小学生にもならない私に、父に何かされたら言うように、とこまめに言い聞かせていた。
ちょうど幼女誘拐・殺人事件が世間を騒がせた時期でもあったので、母の懸念も心情的には理解できないわけでもない。
だが、元来人見知りで、臆病で、頭でっかちな3~5歳児に「お父さんは本当のお父さんじゃないから、ワタリに何かするかもしれない。ぶたれたり、服を脱がされたり、エッチなことをされたらすぐに言いなさい」と繰り返し言い聞かせる行為がどんな結果を生み出すか。
当然の結果として、私は父に懐かなかった。敵意があった訳ではないが、私は父と慎重に距離を取り、必要がなければ話さず、父と二人きりになるごく僅かなタイミングでも、父のことを強く警戒していた。
父もまた、私に近づいたり、話しかけたりは滅多にしなかった。もしかすると父も母に「ワタリは人見知りで怖がりだから、そっとしておいてやってね」などと言われていたのかもしれない。

そういうわけで、私と父は、母のいる状況、母が仲介する会話以外はほぼ交流がないまま、同じ家に住んでいた。私の知る父の情報はほぼ100%が「母から聞いた話」しかなく、父も恐らくそうだっただろう。父がどういう価値観と性格を持った人間か、私は直接には知らなかったし、知ろうともしなかった。
自己主張をするタイプでない父と私と、常に喋って自己主張し続ける母。ただでさえ関係を深めにくい家族構成に、明確な意思を持って母が割り込んでいたのだから、私と父がただの同居人だったのは無理もないことだ、と今でも思う。少なくとも、私は父に殆ど興味を持たないままだった。
私にとって重要だったのは「この人は私に危害を加えるかどうか」という一点だけで、結論から言えば、父は完全に無害な人だった。母よりもむしろ安全だった。4年前に父自身が亡くなるまでの30年以上、ずっと。

父と母は、中学校時代の同級生だった。当時、中学生らしい交際をしていた二人は、互いの高校進学で学校が別れたことに加え、その後の父の高校中退・就職のタイミングで、関係が自然消滅したらしい。
父と母は、やがてそれぞれ別の人と結婚し、離婚した。二人がどのように再会したのかは定かでないが、バツイチ子連れで、経済的な安定と「真っ当な家族」を求めていた母は、私が3歳の頃に父と再婚した。
当時父が一人暮らしをしていたアパートに私と母が転がり込む形で、このステップファミリーの生活は始まった。私の幼少期の記憶はこのアパートから始まるが、その記憶の最初から、私は父と血が繋がってはいないことを知っていた。そして「だから、お父さんにぶたれたりしたらママに言うこと」「本当のお父さんじゃないことは、よその人に言わないこと」という掟が既に存在していた。

調理師だった父は、小さなレストランのコックとして雇われていた。朝はそれほど早くはないが、夜の帰宅は遅く、土日も休みではなかったため、私は殆ど起きている父の姿を見たことがなかった。
大きないびきをかいて寝ているか、起きてTVを見ているか、その二つしかない「お父さん」は私にすれば空気も同然で、私は父を警戒しつつも、「母が言うほど危険ではないのではないか」と感じていた。だが、母の懸念を無視してまで父に近づく理由もなかった。

私が年長クラスの幼稚園に入園したのとほぼ同時に、私たち家族は新しく綺麗な県営アパートに引っ越した。そしてその年度の内に、父の働いていたレストランの閉店が決まり、父は職を失った。
それから一年ほど、フードサービス系の企業に再就職が決まるまでの間、父は日雇い、あるいは期間工のような形で、建築の仕事――いわゆるとび職で食いつないでいた。経済的にどの程度苦労していたのかは分からないが、この期間は父の姿をいくらか見かけるようになったと同時に、父と母は結構な頻度で喧嘩をしていた。私はと言えば、両親の喧嘩中は自分が母に怒られずに済むので、大して苦に感じることもなく、父のいない日に母の愚痴を長時間聞かされながら、ただ漠然と「またお父さんが変わるのかなぁ」と考えていただけだったが。

後から聞いた母の発言を繋ぎ合わせると、どうやらこの時期の父は、母の私に対する躾が厳しすぎることについて、何度か苦言を呈していたらしい。当時の私は既に離人症と思われる症状を発症していたし、自分自身の子を持たなかった父の目から見ても、無表情で殆ど喋らず、従順すぎた私の様子は、異常だったのかもしれない。
とはいえ、母が父の諫言を素直に聞き入れるわけがなかった。中学校時代のスクールカーストを引きずって、母は常に父を格下と認識していたし、「私の育児に文句をつけるなら、ワタリを連れて離婚する」と言われてしまえば、母の配偶者に過ぎなかった父としては、黙るしかなかったはずだ。
あの喧嘩の内の何回か、あるいは何割かが、父が私のためにしていてくれたものだったとするならば――少なくともその時点で、父はきちんと、私の父親であろうとしてくれたのだろう。その時の私が、父を空気としか思っていなかったにもかかわらず。

再就職してからの父は、小学生になっていた私と再び生活時間が合わなくなった。
私が学校に行った後で出社し、私が寝た後に帰宅する。土日は家にいたが、母の思い付きでの「外出」が決まれば不承不承出かけ、出先で母の機嫌が臨界点に達するたびに、毎回喧嘩が勃発した。
その頃の父は、私から見れば不出来な兄か、下手をすると弟のようだった。ダメだよお父さん、もう少し機嫌の良い振りしないと。ほらママが怒った――と、母の毒に浸された私はそんな風に上から目線で、母の従者になり切れない父を内心批評していたが、同時に父に同情もしていた。私と父は、「母に叱られる」という意味で同じ立場で、直接話す機会が殆どなくても、そこにはある種の連帯があるように感じていたのだ。

そして私が小学校4年生の頃、父の浮気が発覚した。
今にして思えばその事件は、自己愛の強い母のプライドにかなりの痛手を負わせたのだろう。常日頃から父を「性能の悪いATM」扱いしていたはずの母は、非常に動揺した。しょっちゅう私を抱きしめては泣き、父と顔を合わせないために、毎晩私を寝かせると同時にどこかへ出かけたりしつつ、その内不眠症を患うようになった。

私はそんな母を冷めた目で見ていた。当時、赤川次郎から空き地に捨てられたエロ漫画まで日常的に読んでいた私は、「お父さんが浮気した」事態を正しく理解していたが、母には同情も共感も、全く感じなかった。
母が父を大事にしていなかった以上、父に母よりも好きな女性が出来るのは自然だとすら思ったし、母は父との夫婦生活を拒否していると言っていたのに、よその女性とそういう関係になったのが汚らわしい、と言い出したのも意味が分からなかった。行為自体が「汚らわしい」なら、私を産んだ母が汚らわしくないはずがなく、行為そのものには問題がないなら、母が拒否した結果として父が他の女性に走るのは当然のことだと思ったのだ。

とはいえ、そうなったからには母がまた離婚すること、それによって生活が大きく変わることは覚悟する必要があった。だが、母がシングルマザーとなり、仕事に出て、今のように常時家にいる状態でなくなるなら、母の過干渉に疲弊していた私にとってはむしろ都合がいい。転校することになったとしても、どの学校にも図書室ぐらいあるだろう。私は本さえ読めれば貧乏だろうと構わないのだから、どう転んでも大した不都合はない――と楽観的な結論を出した私は、事態を静観しながら、無難な言葉を選んで母を慰め続けた。どうあれ、母が父のことで怒ったり泣いたりしているのは、私自身が怒られ続けるそれまでの日常よりも、ずっと快適だった。

一度寝るとちょっとやそっとでは起きない私が眠っている深夜に、両親はしばらく揉めていた、と聞いている。一度は母が包丁を持ち出す修羅場となりつつも、とにかく父は浮気相手の女性と別れ、母と私との生活を維持することを決めた。父の兄にあたる伯父が母に「俺に免じて許してやってくれ」と頭を下げた、という母のプライドを回復させるエピソードを挟んで、母は父を許し、離婚には至らずにこの事件は終わった。

これは想像に過ぎないが、この伯父が、このタイミングで何らかの「策」を父に授けたのではないか。そうとでも思わなければ納得できないほど、この浮気事件以降の父は劇的に、母と「上手くやる」ようになった。
それまで仏頂面で寡黙な人だと思っていた父は、常に母の話にニコニコと相槌を打ち、どこか余裕のある態度で母に接するようになった。ネガティブな言葉を発するのは野球中継を見ながらの巨人の悪口と、職場の愚痴を言う時だけになり、母の機嫌が悪い時は冗談で笑わせ、母が愚痴れば笑顔で宥め、父に少しでも非があれば、あっけらかんと謝る。私にも無害で意味のない会話を振り、しかし学校生活に関して根掘り葉掘り聞きだそうとはしない。
そんな風に、母に従順なイエスマンとして機嫌よく振舞うようになった父は、それまでの「”存在しない”空気」から、「”明るくそこにある”空気」になった。

同時に、職場の環境が変わったのか努力の結果なのか、夕方早く帰宅するようになった父のお陰で、私が母と二人きりで家にいる時間はごく僅かになった。
母は元々、父が家にいる間は私を強くは叱らず、例えば土日の分は月曜にまとめて叱る、という方法を取っていたが、父が常時家にいるようになったためにそれが出来なくなり、私は叱られる回数も、叱られる事柄もぐっと減った。
全く叱られないという訳にはいかなかったが、父が家にいる間は、何時間も怒鳴られることも、引っ叩かれることも、家から閉め出されることもない。全然耐えられるレベルの説教を2~30分ほど聞き、その内父が「ワタリも分かっただろう、な?しっかり、やることをやるんだぞ」と言えば終わる「叱られタイム」は、それまでと比べれば天と地の差があった。

そして休日平日問わず、父が母を引き付けてくれていたおかげで、母の相手――何時間もの「お話」を聞き続ける必要がなくなったのも良かった。
私の離人症のような症状が治まっていったこと、家でも学校でもすらすらと喋れるようになったこと、同級生や教師を怖がらずに済むようになったこと――これらの変化が一度に起こったのがこの時期、私が小学校4年生から5年生の頃だったことは、偶然ではないだろう。

父がどこまで意図していたのかは分からないが、浮気事件から後の父は、間違いなく母の毒を薄めてくれていた。
私の大学進学に際して、上京と一人暮らしを母が最終的に許したことも、父が母を説得してくれていたのかもしれない。
父は私に一度も勉強しろなどとは言わなかったが、私の高校合格も、大学合格も、かなり大げさに喜び、職場でまで自慢していたと母から聞いている。父と同じく最終学歴が高校中退だった母も、学歴コンプレックスは強かったかもしれないが――アラフォーになった私としては、あれほど私に依存していた母が、よく私を手元から離す決断を出来たものだ、としみじみ思うのだ。
もしかすると父は、私の進学を大げさに喜んでみせることで、「これは喜ぶべきことなのだ」と母に示し、私の自立を応援してくれていたのではないか。そう考えるのは、都合がよすぎるだろうか。

だが、こういった父の功績を私が認識したのは、父が亡くなってから更に後――母が毒親だと気付き、自らの生い立ちを振り返って、母の毒を検証するようになってからだった。
それまで母との関係を良好だと、母の躾は正しかったのだと信じていた私は、「小学校高学年の頃から色々楽になった」という体感を「何故か」と考えたことがなく、父と結び付けることがずっと出来なかったのだ。

父が亡くなる2か月ほど前、私に告げた言葉がある。

「ワタリ、ママと仲良くやれな。もうお父さんは、間に入ってやれねぇから」

長年患っていたCOPDが悪化し、在宅での終末期医療の段階に入っていた父の、その発言の意味を理解することが出来ないまま、私は「分かったよ、お父さん」といい加減な返事をして、その会話はそれだけで終わった。
その時の私は、まだ母の言葉の全てを鵜呑みにしており、母と私の関係を疑ったこともなく、長年イエスマンに徹していた父を見下してさえいた。

ママと私の間に、お父さんが入ってたことなんてあったっけ?
やー、ないでしょ、ないない。何言ってるんだかお父さんも。
アレかな、ママに私が怒られて、しばらくして許してもらえるってシーンが起こる度に、「自分が間に入ってやったからだ!」って思ってたのかな。
おめでたいんだから、ほんとに。

そんな風に解釈した私は後でそのまま母に話し、母もそれを全面的に肯定し、二人で笑って話は終わったが、父のその言葉は、私の中にずっと引っかかっていた。

それが私と父が交わした最後の言葉という訳ではなかった。
だが、死を目前とした父が、わざわざ母のいないタイミングを選んで私に言った以上、何らかの「意味のある」言葉のはずだ――と、そう思えてならなかったのである。

その言葉を聞いてから、約2年後。
父の死と、その言葉と、他にもいくつかの私の内面的な要因が合わさった結果、私は母が毒親だったことに気付いた。
そうして父のしてきたことを――間接的に「私にしてくれた」と言える事柄をあれこれ並べてようやく、父の言葉の意味を理解できた。

「お父さんはもう、間に入ってやれねぇから」ということは、やはり父は、私と母の間に入り続けてくれていたのだろう。
母にも私にも気付かれることなく。でも、私は気付いているかもしれないと思って。つまり、全てではないにしても、私のために。

つまり父は、ずっと昔から母の毒に気付いていて、その毒が私に届く前に薄めてくれていた、ということになる。
そして、「仲良くやれ」ということは――母が毒母だと気付きながらも、父はやはり母を愛していて、母の幸せを一番に願っていたのだろう。
薄められた毒の中で、母を恨まずに育った私が、母と「仲良く」暮らせる未来を、父は願っていたのだ。恐らくは母の幸せのために。
もしかしたら、私の幸せもそこにあると信じていたのかもしれないけれど。

最初から最後まで、名実ともに。
父は「母の配偶者」だったのだ、と思う。潔いほど。

お父さんへ。

子供だった頃の私をかばってくれて、ありがとう。
お父さんのお陰で、私は無傷とまでは言えないけれど、そこそこマシに育ちました。
お父さんがあの頃の私を、きちんと子供として扱ってくれたことは、私を救ってくれています。もう少し直接、関わってくれても良かったんじゃない?とは思うけれど(笑)。

そして、ごめんなさい。
お父さんが言い残した「ママと仲良く」を、私は止めました。そしてこの先も出来ません。
あの人の幸せは「私と仲良く」していれば成立するのかもしれないけれど、私の幸せは「ママと仲良く」したままでは実現できないと分かったからです。

あの人のこれまでの幸せはきっと、お父さんが生きている間に、お父さんのお陰で手に入れられていたはずだと思います。
そして、この先の幸せは、あの人が自分で手に入れるべきもので、私が提供しなくてはならないものではありません。

この先、私は私の幸せを目指して、努力していこうと思います。
お父さんの本意ではないかもしれませんが、お父さんの成果であることは間違いありません。
見ていてもらえると、嬉しいです。

あなたに一度も好きだと言ったことがないけれど、
あなたを決して嫌いじゃなかった娘より。

そこそこ複雑な、それでも大きな感謝を、天国の父に捧げつつ。
Happy Fathers Day!

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