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何度でも「人間が嫌い」と書くけれど、noteの皆さんの事は嫌いじゃないのです、という話。

多分何度でも書くけれど、私は人間が嫌いだ。
対人恐怖症のケがあるのを誤魔化しながら生きていて、コミュニティによっては陽キャ扱いされていたりもするけれど、やっぱり人と話すのは好きではない。例えば私が明日唐突に死ぬとして、その前に是非会って話したいと思う人は、息子と友人の2人。幼馴染や、元彼の内の一人を無理矢理入れたとしても、合計4人しかいない。
そんな特殊な状況でなくても、過去の同級生だろうがサークル仲間だろうが、日ごろから会って話したいと思える相手ははほとんどいないし、新しい知り合いを増やしたくもないし、語り合って仲良くなりたいとも思っていないのだ。

だが、じゃあ(有り難いことに)noteで新たにフォローしてくれる人、読んでスキを付けてくれる人にもそうなのか?コメントがついたり、それに返信したりするのは本当は嫌なのか?というと、それは断じて違う。
noteを開いた時に通知が来ていると、それだけでドキドキソワソワしてしまうし、読んだ記事に自分からコメントをさせて頂くときもワクワクしながら書いているし、それにスキや返信を貰えると、それだけで浮かれてしまう。当然、自分の記事にコメントを貰えると、めちゃくちゃに嬉しい。畏れ多いことに先日サポートまで頂けたのだが、本気で震えるほど嬉しかった。

何故だろう、と自分でも思うのだけれど、これは多分、noteで交流させていただく皆さんが、私から見て「文字」だからだと思う。

恐らく、生まれつきの人見知りに毒親育ちが拍車をかけた結果だが、私はあらゆる生身の人間のことを、何の理由がなくても、自分に危害を加える可能性がある存在だ、と学習して育ってしまっている。
だが、文字はこれまで一度も、私に危害を加えなかった。どんな文章も決して私を殴らないし、怒鳴らないし、突然爆発したりもしない。読んだ私が泣いても怒っても、文字は一文字も変わらず、ただそこにある。それがたとえ私への人格攻撃だろうと、貰ったことはないが多分殺人予告であっても、それが文字である限り、「私は今この瞬間は安全だ、危険にさらされてはいない」と私は無条件に、心の底から信じられるのである。

例えばnoteの皆さんが今、生身の人間の姿で私の目の前に立ち、「この記事面白かったです!」と言ってくれたとしたら、私は嬉しさを感じつつも、同時に「この人は次の瞬間、私に何をしてくるのか、何を言ってくるのか」と強く警戒し、結果としてぎこちない笑顔でお礼を言いつつも、頭の中では最高速度で逃げ出す算段を立て始めてしまうだろう。
だが、それがスキという表示や、コメントという文字の姿をしている限り、私は素直に純粋に、心の底から「ありがとうございます!」と思い、嬉しさだけを噛みしめて、文字の向こう側にいる方々の事を、「自分に危害を加えない存在」として認識することが出来る。「この人に喜んでもらえたなら、こういう記事をまた書こうかな」とか「もっと仲良くなりたいなぁ」とか思うことさえ出来るのだ。

怖くさえなければ私だって、知らない誰かと楽しく交流することが出来る。私の書いた文章が、ちょっとでも暇つぶしのお役に立てたら嬉しい、と純粋にそう思っているし、もう少し心を動かすような役に立てたらとてつもなく光栄だし、誉められたら喜んで調子に乗れる。
だから私は正確に言うと、「人間が嫌い」なのではなくて、「本当は人間が好きだけど、物理的に関わるのは怖いから嫌い」なのだろうと思う。

そして結局何が言いたいかというと、私はこれまでもこれからも、何度でも「人間が嫌いだ、怖い」と書くけれど、noteを、つまり文字を介して関わる皆様の事は基本的に好きだし、怖くないので、批判やツッコミも含めてお気軽に、これからも絡んで頂けたら嬉しいです。という話です。
この記事を読んで下さった方に、精一杯の愛と感謝を贈りつつ。
これからもどうぞ、よろしくお願いします!

※連続投稿33日突破記念。
読んで下さる皆様のお陰で書けています、ありがとうございます!

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